人が関わるとはどういうことか

2015年10月24日 16時36分17秒 | PoemStation 過去ログ


人間の関係はどこまで行ってもついに「殺し合い」である。
どこかのいつかのタイミングで殺し殺される。人間が関わるとはそういうことだったのだ。



2005年10月11日(火)

囲碁から学んだこと  
敵の石を直接取りに(殺しに)行ってはいけない。


 人間と人間の関係が殺し合いであることについては、何度かに分けて語ろう。

 きょうは囲碁から学んだこと。

 囲碁の勝敗は、敵の取った陣地(地)と自分の取った地を最後に終局後数えて、半目でも多かったほうが勝ち。圧倒的に勝つ必要はない。半目でいいのだ。そうなんだけれどその過程は、序盤から中盤、終盤のヨセまで敵の石と石のせめぎあい。戦い。殺し合い。と言ってよい。

 しかし、直接敵の石を殺しに行くのは碁を知らない人がやることで、本当に強い人はそんなことはやらない。むやみと欲張って殺しに行くのは、自らの身が危険にさらされる。
 本当に強い人というのは腕力が強いということではないのだ。むしろ敵の石をうまく生かせておく(泳がせておく)。

 敵が生きれば、自分の身も生きる。敵に地ができれば、自分のほうにも自然に地が生じるのだ。敵が生きると言うことは同時に自分の側にも活路が生じる。

 本当に強い人は「奇手」などに凝らない。合理的で正当な(理にかなった)手を重ねることに神経を集中する。
 理にかなった手を打っていれば、無理を行った側が矛盾をきたして「自然に死んでくれていた」というのが理想なのだ。

 石を取ることはできるだけ避けるべきだ。場合によっては石を取ることによって後手をひくことのほうが全局的には恐ろしい。欲しければどうそどうぞと敵がやむなく不要な石を取らざるを得ないようにもって行くほうが賢い。

 コイズミのように「刺客」を放って殺しに行く者もいるだろうが、それはそういう条件が現実に整っていたからできるのであって、むしろ「政治」の世界の権力闘争は、敵をうまく生かせておくのが普通にやられていることだろうと思う。暗殺という例外はあるのだが、しかし。
 敵をうまく生かせて論理を追求していくうちに自然の成り行きの結果、敵が失脚していた。というのが政治の世界の常道。殺し合いの極意なのだ。だって直接殺しに行ったら、裏の裏まで悪の世界にどっぷり浸かっている自分の身が危うい。
 権力の中にいるということは清廉潔白なんてないのだ。みんな多少の傷を持っている。現世は悪で出来上がっているのだ。

 「アフガニスタンにくらべたら、日本はよほど良い」とコイズミは言ったが、われわれはうまく飼われて、ただ生かされているだけかもしれない。



2005年10月12日(水)

・・・・根底から誤っている世界の中で・・・・
人間の関係 



 「・・・『政治』は『人間』の外在的客体としてあるものでなどない。だからより厳密にいうなら、それはまず第一に、およそこの地上において、『人間』に関わることで『政治』的でないことなど、ただの一つもないからだ。
 あの公園のベンチで杖に額をあずけている老人も、湿ったおむつにむずかる赤ん坊も、彼の逡巡も彼女の焦慮も、あなたの怯懦も私の憎悪も、すべては政治的存在であり、『政治』の現象である。」
 (山口泉「宮澤賢治伝説」河出書房新社、P280)

 「現状の世界ではなお、すべての人びとが本来そうであるように、人は誰かの『敵』であらざるを得ない。」
 (同上、P348)

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 「人間の関係が殺し合い」であることは、囲碁のアナロジーだけではない。経験上いろいろ見てきた。

 ながいことパチンコ業界の隅に関わって細々と生きていた。そこで「殺し合い」を見た。従業員が上司にこっぴどく痛めつけられている姿も見た。おなじ事務所の人がひどく対立していたのを見た。仕事のストレスで、心臓発作を起こして片方が亡くなった。職場の人間関係に「殺されたのだ」。
 企業の競争も、殺し合いのようなものだ。食うか食われるか。

 共産党の組織の内部にいたが、ずっとわたしは敵をかかえこんで「殺し合い」をやっていたような気がする。人間が集合する「組織」なんてものは特に危ない。人と人が接近するからだ。

 「田舎選挙」を知っている人は、「人と人の関係が殺し合い」だということに納得するはずだ。

 囲碁ではなるべく石と石を距離をとって打つのが常道だ。石がぴったりりくっつくと激しい戦いになる。とても危険な状態だ。石と石をくっつけるのは守りも攻めもぎりぎりの意味がある。戦いはどうしても避けられない。お互いゆずれない局面がどうしても生じる。人と人が接近したら特に気をつけなければならない。

 小渕首相が当時の自由党党首小沢一郎と会談中体調が変異して脳梗塞で急死したが、あれも「政治」に殺られたのだ。

 前にモルヒネを末期患者に使うのは鎮痛ではなく「合法的」に安楽死させることに使うと書いたが、家族、肉親こそが、身内を殺すのだ。

 「恋愛」なんてものも危ない。ストラグル(闘争)のない恋愛なんてあるだろうか。

 山口泉さんが上記で「政治」「敵」という言葉をどういう意味で言っているかはよくわからないが、わたしは政治とは必然的に権力闘争だと思っている。

 ホームページを開設するのも、見るのも、掲示板に書き込むのも「権力」の行使だ。人がしゃべったり、書いたり、日常の会話も権力権威の行使であり「戦い」だ。

 現実世界は「平等」なる理想の世界などではなく元々から根底的に誤った世界であり、そのなかで人と関わりながらわたしたちは生きている。人と人の関係は本来あるべきものから疎外された関係、物象化された非人間的な関係にすぎない。この世界は救われようのない世界なのかもしれない。


 そののち、ストラグルのなかで「人が『協力』する」ということについても書くつもりです。

 それじゃ、またあした。



2005年10月15日(土)

私が大学5年生(22歳)のとき出会った言葉 Ⅱ
「水に落ちた犬を大いに打つべし」(魯迅)



 「水に落ちた犬を打つなと言った林語堂は、ものわかりのよい文化人であったにちがいないが、水に落ちた犬を打てと言った魯迅は、頑固なわからずやであったかも知れない。しかし、新中国の精神的指導者となったのは林語堂ではなく魯迅であった。彼の中にあった排中律は敵と味方を鋭く見分け、敵と妥協しないことを教えたのである。」
 (「文化としての数学」遠山啓、大月国民文庫、P84)

 (「魯迅評論集」竹内 好編訳、岩波文庫、P74 『フェアプレイ』はまだ早い  が手に入りやすいので参照されたい)

 べつにわたしが解説をくわえるまでもなく、読んでのとおり。若いわたしは、この言葉がひどく気に入った。魯迅は、「要するに、前に述べたように、相手を見きわめる必要があるのだ。のみならず、区別をつける必要があるのだ。『フェア』は相手次第で施す。どうして水におちたにしろ、相手が人ならば助けるし、犬ならば放っておくし、悪い犬ならば打つ。」とも書く。

 深追いはけっしてしてはならない。しかし囲碁でもまず、相手を見きわめなければならない。弱い碁打ちほど『フェア』ではない。容赦なくやらなければならない。殺し合いなのだ。

 わたしのほんとうの敵はどこにいるのか。

 「そのとおり、敵と味方の区別は曖昧になっている。それは、強大な側が意図的にその境を曖昧にしているという以上に、本来、必死の力をもって抵抗しなければならない側こそが、自らとっくの昔に精神的に破産してしまっているせいだ。・・・」(山口泉「宮澤賢治伝説」河出書房新社、P348)



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