若い頃からあれほど好きだった活字追うことがこのごろまったくできなくなった。こつこつと買いためた書籍は何百冊となく書棚に並んでいる。なけなしの小遣いをはたいて買いためた。学生の頃は金があるとすぐに本を買ってしまうので食費さえもなくなって食いはぐれた。それがこのごろまったく読めないのだ。老眼のせいでもあるがそれだけではない。活字を追おうという気がなくなってしまった。若い頃はK.Marxの「資本論」などほとんどノートに丸写しするくらいに活字を追い求めて来たのに.....。
それで結局残ったのは次の一文だけだ。
「なんじらはウジ虫より人間への路を経てきた。しかも、なんじらの中の多くはなおウジ虫である。また、かってなんじらは猿であった。しかも、人間はなお依然として、いかなる猿よりも猿である」(ニーチェ、ツアラトストラはかく語りき)
あの魯迅も若い頃この一文に出会っている。さらに次の一句
「ぼくのポエジイは、人間というこのけだものを、そしてこんな毒虫を創りだすべきではなかった造物主を、あらゆる手段で攻撃するためにのみ存在する。ぼくの命のつづくかぎり、巻は巻を重ねるだろうが、そこにはつねに、ぼくの意識に踏みとどまっている、この唯一の思想しか見られないだろう!」(ロートレアモン伯爵、マルドロールの歌)
いやはや異常に敏感な病的神経とともにこの世に生まれきたって五十年。こんなことを確認するために生きて来たのか。かつてソ連の詩人マヤコフスキーも「わたしの革命」と喜び迎えたその「革命」に裏切られ、党に裏切られ、民衆に裏切られ、恋人に裏切られ、生活していく手段も無く、エセーニンの自殺を厳しく批判していたにもかかわらず自分の頭を拳銃で撃ち抜いた。マヤコフスキーは若い頃から「人間」などというものがろくなものでないのは知っていたのに.......。
だが私はこんな「詩」も嫌いではない自分を発見する。
紙風船 黒田三郎
落ちて来たら
今度は
もっと
もっともっと高く
何度でも
打ち上げよう
美しい
願い事のように
重力の法則は普遍だから「打ち上げた紙風船」は落ちてくるのだ。「悪貨は良貨を駆逐する」のが法則的なのだ。長い人類史において人類は少しも精神の戦いにおいて進歩しなかったようだ。
紙風船を打ち上げるには重力に逆らってエネルギーを加えなければならない。放っておいたら「堕ちる」のが人間なのだ。
猿と話しても無駄なので人に会いたくないから、このごろ家から外に出たくはなくなった。それでもどこか遠い星でこんな私を待っている人がいるかもしれない。
それで結局残ったのは次の一文だけだ。
「なんじらはウジ虫より人間への路を経てきた。しかも、なんじらの中の多くはなおウジ虫である。また、かってなんじらは猿であった。しかも、人間はなお依然として、いかなる猿よりも猿である」(ニーチェ、ツアラトストラはかく語りき)
あの魯迅も若い頃この一文に出会っている。さらに次の一句
「ぼくのポエジイは、人間というこのけだものを、そしてこんな毒虫を創りだすべきではなかった造物主を、あらゆる手段で攻撃するためにのみ存在する。ぼくの命のつづくかぎり、巻は巻を重ねるだろうが、そこにはつねに、ぼくの意識に踏みとどまっている、この唯一の思想しか見られないだろう!」(ロートレアモン伯爵、マルドロールの歌)
いやはや異常に敏感な病的神経とともにこの世に生まれきたって五十年。こんなことを確認するために生きて来たのか。かつてソ連の詩人マヤコフスキーも「わたしの革命」と喜び迎えたその「革命」に裏切られ、党に裏切られ、民衆に裏切られ、恋人に裏切られ、生活していく手段も無く、エセーニンの自殺を厳しく批判していたにもかかわらず自分の頭を拳銃で撃ち抜いた。マヤコフスキーは若い頃から「人間」などというものがろくなものでないのは知っていたのに.......。
だが私はこんな「詩」も嫌いではない自分を発見する。
紙風船 黒田三郎
落ちて来たら
今度は
もっと
もっともっと高く
何度でも
打ち上げよう
美しい
願い事のように
重力の法則は普遍だから「打ち上げた紙風船」は落ちてくるのだ。「悪貨は良貨を駆逐する」のが法則的なのだ。長い人類史において人類は少しも精神の戦いにおいて進歩しなかったようだ。
紙風船を打ち上げるには重力に逆らってエネルギーを加えなければならない。放っておいたら「堕ちる」のが人間なのだ。
猿と話しても無駄なので人に会いたくないから、このごろ家から外に出たくはなくなった。それでもどこか遠い星でこんな私を待っている人がいるかもしれない。