New Nationalism: Far-right voices get louder in Japan

2014年01月26日 19時16分31秒 |  アメリカ国日本の「政治」
New Nationalism: Far-right voices get louder in Japan
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Gute Reise ins Leben

2014年01月22日 11時59分02秒 | 写真 a photo

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都知事選 立候補 鈴木達夫氏 記者会見 2014.1.14

2014年01月20日 23時04分54秒 |  アメリカ国日本の「政治」
都知事選 立候補 鈴木達夫氏 記者会見 2014.1.14
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参加募集

2014年01月14日 17時25分53秒 | 夢想 a dream
神の降りる瞬間を体験する集い

https://www.facebook.com/events/369934099818966/

詩人におすすすめです
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メールマガジン”詩人の部屋”

2014年01月09日 10時15分30秒 | 詩人の部屋
ちゅうたしげるのメールマガジン”詩人の部屋”
http://www.mag2.com/m/0001338113.html



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あなたのそばに一冊の詩集を
http://www1.harenet.ne.jp/~chuta/
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特異に現れた魂

 2014/01/08 水曜日

 年末の寒気から暖かい正月。今日は小雨。あわただしく年末年始を過ごしちょっと正月疲れの日々。一日なんにもしないのに神経だけは疲れる。特別なことはなかったが妻も娘も多忙な12月を乗り越え正月に一週間まるまる休息した。昨日から仕事に出ている。

 テレビもラジオも年末年始ふざけた番組ばかり報じていた。新聞はただのゴミ。なんにもすることが無いので妻と娘を休息させるために食事の用意や風呂の用意や家事をこなしていた。こうも知的刺激のない社会になってしまっては得意の活字を追う暮らしもまったく縁遠くなってしまった。

 ホフマンスタールの翻訳詩集を開いてみたが。若い頃の詩想の強さだけは感じたが受け付けないのでそのままページを閉じたまま投げ出した。ホフマンスタールは近づきにくい。時折、ハイデッガーの「存在と時間」を開いてみたが活字を老眼が受け付けないのでそのままにしている。

 ハイデッガーの「存在と時間」の翻訳は高校2年のときにはじめて開いてみた。翻訳が悪く読めたものではないが「死」を自覚するとはなにか世界内存在とはなにかなどと雰囲気は感じてみた。最終ページに結論があるかと思ってみたら前編で終わっている。その後「存在と時間」は前編のみ書かれて未完だったことを知った。

 つまりハイデッガーは当時のドイツ知識人の社交界を相手に、頽落から死を自覚する存在をもとめて警論を発したのだが、ご本人はフライブルク大学総長をナチスドイツ時代に歴任するほどの俗物ではあった。人が生まれ落ちた境涯を世界内存在、現存在と位置づけ。つまりだれしも産まれた条件と境涯を恨んでみてもしかたない。死すべき自覚の中で時間はいかに実存にとって立ち現れるかを問うた。

 わたし流に一言で言えば「あわてない、あわてない、すべてはみなが消耗品」という言葉でハイデッガーの警論はあらわされる。歴史も時間も消耗品としてのおのれの自覚のなかで立ち現れる。マルクス主義もつまるところ人間の個々の実存を問うたものだとしたら、ハイデッガーに経済貨幣システムの分析が欠落しているとしても20世紀の戦争と革命の時代に生きた人々にとって「最大の哲学書」と銘打たれても不思議なことではない。

 マルクス主義の側からはルビンシュテインの「存在と意識」、現象学と実存主義の後継にはサルトルの「存在と無」、日本の哲学界では広松渉の「存在と意味」とハイデッガーに応答する書は書かれた。広松渉は日本のマルクス主義の中から認識論的にマルクス主義的現象学をでっちあげたにすぎないが。サルトルもハイデッガーも広松渉もフッサールの現象学に発想したのだ。

 それはなんの不思議も無いことだ。いま意識を問うとしたらおのれ個人の主観から発する他ないのだから当然に世界は現象学的に立ち現れるのだ。それはマルクス主義においても同じことだった。

 それにしてもハイデッガーの哲学的転回から後「ヒューマニズムについて」が書かれたのだが、人間がただのサル。ニーチェがツアラストラで書いたように「人間はいまだいかなる意味でもサル中のサルである」と認識できなかった哲学というものはリアリズムからも真実からも遠い「思弁」に過ぎないのではあった。マルクス主義の側から唯物論を徹底したとしても人間はサルと変わらぬ生きものとしてとらえることのできない知識人ヒューマニズムは詭弁として表現される他なかったのだ。

 世俗に受け入れられ難い魂は偶然に現れはしたが、その魂は世俗界の中で苦しむべき存在でしか現れようはなかった。そしてそれは特異に個々に。

 

 

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