精霊の宿り

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ジョウリキリ

2021年11月05日 11時21分18秒 | ちゅうたしげる詩集
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 夏の日射しが照りつける小道の端に、鮮やかな青色と黄色と赤色の鱗を光らせているトカゲ。村の人達はそれを「ジョウリキリ」と呼んだ。幼いおれは、俊敏な動きに原色の陰影を残して、石垣に逃げ込んだ「ジョウリキリ」を見つめていた。夏の真昼時。家ではひいばあさんが大きな腰を上げて昼飯の用意をした。村の生活は、昔と変わらなかった。何代も前のこの家の人達も鮮やかな色のトカゲのことを「ジョウリキリ」と呼んだだろう。もちろんこの家の廻りには、蛇の主もいた。庭には、蟻が群れていた。納屋の土壁には、土蜂が巣を作っていた。

 今年の夏は岩陰にジョウリキリを見ない。その代わりに散歩の途中で木苺をとって食べていた時に、細い道の横の草影にかすかに動くジョウリキリを見たような気がする。しかしそれは夏の光線に輝く虹色の鱗ではない。そしておれはもはや幼年ではない。壮年の男だ。何十年も年月は隔たっていた。今年我が家は土蔵を建て代えた。傾きかけた古い土蔵を取り壊し、真新しい、白い壁の土蔵が気持ちよく屋敷の前に建てられた。古い土蔵は、建てられてから百数十年経っていた。人は何か貴重なものが土蔵に隠されていなかったかと、蔵を建てるという行為に話の花を添えた。

 今年も盆がやって来る。先祖の霊が里帰りをするという。我が家に里帰りした八十才の老婆は、記憶を失っていた。生家の記憶は、遠い昔のことでしかなかった。かすかに、床の間に飾られた死んだおれのひいばあさんの姿だけおぼろげに思い返すことができた。なぜだか懐かしいと言って、一晩泊まった。しかし、老婆の記憶はよみがえりはしない。

 あの夏の日射しに鮮やかな鱗を光らせたジョウリキリはどこへ行ったか。土のなかで朽ちたか。それとも世代を交代したか。

 生々しい夏の記憶を失ったのは、おれなのだ。もはやあの夏は存在しない。過ぎ去った過去をかすかに記憶に呼び起こして、心を慰めているのは、壮年のおれ。おれは、夏を感じる感覚を失った。幼い日のジョウリキリの鮮やかな光は失われた。時は失われて、二度と再びよみがえることはない。あすの日を想定することさえできなくなった壮年のおれは、時とともに崩れ去る世界の残響を耳の奥に聞きながら三十八才の夏を迎えた。

 悲しみも苦しみもそして存在したかもしれない喜びも、夏の光線に焼かれた影のように移ろい行き、記憶が記憶でなくなって、意識がたよりない波に浮かぶ小舟のように漂い、生はもはや生ではなくなって、現実が現実でなくなって、残酷な時の流れに意識の小舟を浮かべているに過ぎない。哀れというよりほかないのがこの世の存在だろう。孤独な命は、他の命とどこまでも交わることはなかった。おれの魂はきっと、冷酷な唯物論を受け入れることはできないだろう。三十八才の夏の、喪失した存在感のなかで、悲しみに溺れることができればまだ幸せだった。悲しみでさえもない。無味乾燥した、この夏を行く。






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