”
中国山地の静かな村の夕暮れ、
赤とんぼの群れもとうに消えて、
冷たい頬に夕日が赤く射す頃、
岩さんの馬車は勢いよく村の石ころ道をゴトゴトいわせて帰ってくる。
「とし子ちゃんのお父ちゃんじゃ!」
どんなに遊びほうけても、
子どもたちはかならず馬車に駆けよっていく。
「おう、乗れ!」
と岩さんは、
しわくちゃの顔のなかの白い歯をおれたちに向けた。
おれは、としちゃんの横に乗って、
快い疲れと振動に身をまかせた。
おれの家の西側に、
夏には涸れてしまう小さな谷水が流れていた。
谷をへだてた向う側に高い柿の木が何本かあり、
小枝の間を夕日がなごりおしそうに射した。
その柿の木の下をくだっていくと、
一本の梅の木と小さな池があって川亀と、魚が何匹か泳いでいた。
ここが岩さんの家だ。
岩さんの家はおれの家よりも小さく、
いろりの上の煙り抜きも小さかった。
土曜日の午後、
おれは三つ上のとし姉ちゃんとおはじきをして遊んだ。
一遊びすると、
としちゃんはおれの知らぬ間に庭先を出て、
道の遠くの方を見つめている。
「どうしたん。」
とおれが尋ねると、
「馬の音がしたような気がしたんじゃ。おとうちゃんが帰ってくるころじゃがなあ。」
と気になってしかたがないようだ。
おれはまだ日が高いじゃないか、
と西の空を見上げた。
としちゃんは、
「おとうちゃんはまだかなあ。」
とおばさんに聞いている。
「時計を見てみい。まだ三時じゃ、もうすぐしたら帰る。」
とおばさんが答えた。
としちゃんは安心してまたおれとおはじきを始めた。
夕暮れも遅くなって、
としちゃんが本気でそわそわしはじめると、
馬の蹄の音と一緒に岩さんは帰ってくる。
「お父ちゃんじゃ!」
ととしちゃんは大きな声をあげた。
としちゃんの顔がうれしそうに緊張した。
だが、
今度は庭を出ていかない。
何やらごそごそ手伝いのまねを始めた。
おばさんは先から、
夕飯の用意や風呂の用意でいそがしそうだ。
家中の者がいっぺんにばたばたと動きだした。
みんな、
岩さんの機嫌をうかがっている。
岩さんは、ちらっと玄関をのぞいたが、
おれの方ににかっと白い歯を見せてすぐ馬小屋へ行った。
「とうちゃん、茶を飲みんせえ。」
とおばさんが声をかけるが、
「ええ、後じゃ。」
と言って、
岩さんはかたくなに断る。
体中に一日の疲労を漂わせながらも、
岩さんはいこじになったように馬の世話をして、
片時も休まない。
みんなもそれに合わせたように動く。
おれはぽつんと取り残され、
家の中でじっとしている。
ゆっくり休めばよかろうにと思う。
しかしこの家の人たちは、
忙しそうにする中で家族のつながりを確かめているのだ、
と思った。
やっと夕飯の用意ができ、
おばさんは茶碗を並べている。
としちゃんと、
としちゃんよりもまだ五つ上のよし姉ちゃんは先に風呂に入らされ、
湯をかける音が聞こえた。
この家の人を観察している間におれは、
「帰る」という言葉を言い損ねてまだごそごそしていた。
というよりこの家の人は、
おれのことには全くかかわりなくいつもの順序で夕飯にありついたのだ。
「茂君、どうするんじゃ。まだかえらんでも叱られんのか。」
と、おばさんが言った。
帰りそこねたおれは、
まるでまだとしちゃんと遊んでいる続きのようなふりをしていた。
「帰る。」
と言ってぞうりをはきかけた。
するとじいさんが、
「飯う食うて帰るか。」
と言った。
おれは、もじもじして
「いらん。」
と言った。
「まあ、食うて帰れ。」
と、またじいさんが言った。
おれは困って、もぞもぞした。
その時、
「食うて帰れ、食うて帰れ。」
と岩さんが強く言った。
まったく有無を言わせないような調子だ、
でも不思議と少しも無理強いという感じがしない。
疲れた体に力をこめて岩さんが呼ぶのに引き寄せられ、
おれは箸を持った。
岩さんは、
心から満足そうな顔をした。
「今日は、どこらへんを歩いたんなら。」
と、じいさんが岩さんに話しを向けた。
「布原を行きょうたら、知ったもんにおうてのお。」
と岩さんは答えて、
首を振りながら今日一日あったことをひとしきり話して聞かせた。
じいさんも、おばさんも、
合い槌を打ちながら耳をかたむけた。
おれは、
岩さんが今日のうちにどんなに遠くまで行ってきたのか、
話しを理解しようと一心に耳をそばだてた。
おぼろげにしか分からなかったが、
それはおれがまだ行ったことも見たこともない新鮮な世界の話だった。
「銭じゃ、銭がなけらにゃあいけん。土地やら物たあ、銭じゃ。」
と岩さんは、
岩さんらしく単純明解な結論をあたえた。
「人間は動かにゃつまらん。動いただけが銭じゃ。」
細い体に力を込めて話す岩さんを頼もしそうに眺めて、
おばさんも、じいさんもうなずいた。
岩さんは、
馬車ひきで儲けた金を貯めて新しい納屋を建てた。
それが岩さんの誇りだった。
一通り話しおわると、
岩さんは話しをおれの方に向けた。
「茂君は、まっちゃんの子どもかのお。なんぼうになるんなら。」
「六才。」
「とし子よりゃ、三つこめぇんじゃ。」
と、おばさんが言った。
「子どもにゃ罪はねぇけぇのお。」
とみんなを見まわして、
岩さんは言った。
晩酌が効いてきて、
岩さんの口もなめらかになっていた。
じいさんはおれの方をちらっと見て、
「そうじゃ、そうじゃ。」
と岩さんに合わせた。
おれはその言葉の意味を探ろうとしたが、
よくのみこめなかった。
今度は調子をかえて岩さんが言った。
「上田淵のばあさんにゃ世話になったけぇのお。」
まるでおれに教えているようだ。
おれは、ひいばあさんのことだと思った。
これにはじいさんも、
文句なく同意した。
おれのひいばあさんはよく自家製の豆腐を作った。
幼いおれの手をひいてあの柿の木のある道を下って岩さんの家へお裾分けをした。
そのことをおれは思いうかべた。
その頃ひいばあさんは、
病気で入院していた。
おれはうれしさをこらえて、
黙って飯を食った。
おかずは、
村の小売店で買ってきたあり合わせのものが多い。
岩さんは、文句も言わず食べた。
「上田淵の兄さんは、戦争でお国のために戦死したんじゃけえのお。」
と岩さんが遠くを見るような目で言った。
ひいばあさんの一人息子のことだ。
「むかしゃ、何でもねえことでじきに死にょうたんじゃ。結核どもなりゃじきじゃ。今なら助かるがのお。」
眉にしわを寄せて岩さんが言った。
後でおれの母親に聞いたところ、
岩さんの母親は若くして結核で亡くなったらしい。
その上じいさんが連れてきたお妾さんも、
結核で亡くなったらしい。
戦後間もない頃のことだ。
「うちゃあ、病院がでい嫌れいじゃ。」
とおばさんが言った。
「入院するぐれい馬鹿げなこたあねえ。患うぐれえなら死んだほうがましじゃ。」
と岩さんが言った。
たぶん岩さんの口癖だろう。
おれはなぜこんなことを言うのかと悲しかった。
じいさんはつづけて、
よい機嫌で戦争の話しをした。
岩さんのおやじは戦争に行って、
生きて還った古参兵だ。
岩さんは、
じいさんの自慢話を誇らしそうに聞いた。
「戦争は、するもんじゃあねえ。」
とじいさんは言った。
おれは、感心した。
その時、
としちゃんとよし姉ちゃんが風呂場から出てきた。
「出たか、はよ着かえて飯う食え。」
と岩さんが言った。
「あれ、シイ君まだおったんか。」
と、としちゃんが言った。
としちゃんは、
うれしそうに膳についた。
岩さんは娘を眺めて、
あれを食えこれを食えと言った。
岩さんが機嫌がよいので、
としちゃんはいっそう嬉しげにした。
いったいどうしたのか、
という顔だ。
じいさんも、おばさんも食べおわって、
岩さん一人機嫌よさそうに晩酌をした。
飯はそこそこにして、
「もう一杯。」
と長い腕をおばさんの方に伸ばした。
おばさんは、飲み過ぎだと怒った。
けちって出ししぶったが、
渋々戸棚から一升瓶を出して一杯だけ注いだ。
晩酌一杯を楽しみに仕事をしているのだ、
と言い張った。
大きな声をするなと、
おばさんがたしなめた。
おれはそろそろ帰り時と思って、
玄関を出た。
暗くなった道をひとり走って帰った。
「食うて帰れ、食うて帰れ。」
と言った岩さんの真顔が、
とうぶんおれのまぶたからはなれなかった。
あれからまた、
もう一度だけ岩さんの家で夕飯を食べた記憶がある。
としちゃんは、
おれがいると岩さんの機嫌がよいからと、
おれにまた夕飯を食べろと言った。
岩さんは、身を粉にして働いた。
日曜日は馬車を牽かない代わりに、
田んぼに出てごそごそせわしなく動いた。
おれはこんなに働いて、
いったい岩さんは報われることがあるのだろうかと考えた。
たぶん報われないだろうと思った。
しかし岩さんは、
報われることを疑ってもみない様子だった。
納屋を建て直したのが、
岩さんの自信になったのだろう。
だが、納屋がどうしたというのだ。
岩さんは、それ以上に身を削って働いているのだ。
やはり報われてはいないのだとおれは思った。
それならばおれが岩さんのために、
何か喜ぶことをしてやれないか。
そうだ大きくなったら岩さんのことを小説に書こう。
そう思うと、
おれは秘な喜びを感じた。
中国山地の静かな村の夕暮れ、
赤とんぼの群れもとうに消えて、
冷たい頬に夕日が赤く射す頃、
岩さんの馬車は勢いよく村の石ころ道をゴトゴトいわせて帰ってくる。
「とし子ちゃんのお父ちゃんじゃ!」
どんなに遊びほうけても、
子どもたちはかならず馬車に駆けよっていく。
「おう、乗れ!」
と岩さんは、
しわくちゃの顔のなかの白い歯をおれたちに向けた。
おれは、としちゃんの横に乗って、
快い疲れと振動に身をまかせた。
おれの家の西側に、
夏には涸れてしまう小さな谷水が流れていた。
谷をへだてた向う側に高い柿の木が何本かあり、
小枝の間を夕日がなごりおしそうに射した。
その柿の木の下をくだっていくと、
一本の梅の木と小さな池があって川亀と、魚が何匹か泳いでいた。
ここが岩さんの家だ。
岩さんの家はおれの家よりも小さく、
いろりの上の煙り抜きも小さかった。
土曜日の午後、
おれは三つ上のとし姉ちゃんとおはじきをして遊んだ。
一遊びすると、
としちゃんはおれの知らぬ間に庭先を出て、
道の遠くの方を見つめている。
「どうしたん。」
とおれが尋ねると、
「馬の音がしたような気がしたんじゃ。おとうちゃんが帰ってくるころじゃがなあ。」
と気になってしかたがないようだ。
おれはまだ日が高いじゃないか、
と西の空を見上げた。
としちゃんは、
「おとうちゃんはまだかなあ。」
とおばさんに聞いている。
「時計を見てみい。まだ三時じゃ、もうすぐしたら帰る。」
とおばさんが答えた。
としちゃんは安心してまたおれとおはじきを始めた。
夕暮れも遅くなって、
としちゃんが本気でそわそわしはじめると、
馬の蹄の音と一緒に岩さんは帰ってくる。
「お父ちゃんじゃ!」
ととしちゃんは大きな声をあげた。
としちゃんの顔がうれしそうに緊張した。
だが、
今度は庭を出ていかない。
何やらごそごそ手伝いのまねを始めた。
おばさんは先から、
夕飯の用意や風呂の用意でいそがしそうだ。
家中の者がいっぺんにばたばたと動きだした。
みんな、
岩さんの機嫌をうかがっている。
岩さんは、ちらっと玄関をのぞいたが、
おれの方ににかっと白い歯を見せてすぐ馬小屋へ行った。
「とうちゃん、茶を飲みんせえ。」
とおばさんが声をかけるが、
「ええ、後じゃ。」
と言って、
岩さんはかたくなに断る。
体中に一日の疲労を漂わせながらも、
岩さんはいこじになったように馬の世話をして、
片時も休まない。
みんなもそれに合わせたように動く。
おれはぽつんと取り残され、
家の中でじっとしている。
ゆっくり休めばよかろうにと思う。
しかしこの家の人たちは、
忙しそうにする中で家族のつながりを確かめているのだ、
と思った。
やっと夕飯の用意ができ、
おばさんは茶碗を並べている。
としちゃんと、
としちゃんよりもまだ五つ上のよし姉ちゃんは先に風呂に入らされ、
湯をかける音が聞こえた。
この家の人を観察している間におれは、
「帰る」という言葉を言い損ねてまだごそごそしていた。
というよりこの家の人は、
おれのことには全くかかわりなくいつもの順序で夕飯にありついたのだ。
「茂君、どうするんじゃ。まだかえらんでも叱られんのか。」
と、おばさんが言った。
帰りそこねたおれは、
まるでまだとしちゃんと遊んでいる続きのようなふりをしていた。
「帰る。」
と言ってぞうりをはきかけた。
するとじいさんが、
「飯う食うて帰るか。」
と言った。
おれは、もじもじして
「いらん。」
と言った。
「まあ、食うて帰れ。」
と、またじいさんが言った。
おれは困って、もぞもぞした。
その時、
「食うて帰れ、食うて帰れ。」
と岩さんが強く言った。
まったく有無を言わせないような調子だ、
でも不思議と少しも無理強いという感じがしない。
疲れた体に力をこめて岩さんが呼ぶのに引き寄せられ、
おれは箸を持った。
岩さんは、
心から満足そうな顔をした。
「今日は、どこらへんを歩いたんなら。」
と、じいさんが岩さんに話しを向けた。
「布原を行きょうたら、知ったもんにおうてのお。」
と岩さんは答えて、
首を振りながら今日一日あったことをひとしきり話して聞かせた。
じいさんも、おばさんも、
合い槌を打ちながら耳をかたむけた。
おれは、
岩さんが今日のうちにどんなに遠くまで行ってきたのか、
話しを理解しようと一心に耳をそばだてた。
おぼろげにしか分からなかったが、
それはおれがまだ行ったことも見たこともない新鮮な世界の話だった。
「銭じゃ、銭がなけらにゃあいけん。土地やら物たあ、銭じゃ。」
と岩さんは、
岩さんらしく単純明解な結論をあたえた。
「人間は動かにゃつまらん。動いただけが銭じゃ。」
細い体に力を込めて話す岩さんを頼もしそうに眺めて、
おばさんも、じいさんもうなずいた。
岩さんは、
馬車ひきで儲けた金を貯めて新しい納屋を建てた。
それが岩さんの誇りだった。
一通り話しおわると、
岩さんは話しをおれの方に向けた。
「茂君は、まっちゃんの子どもかのお。なんぼうになるんなら。」
「六才。」
「とし子よりゃ、三つこめぇんじゃ。」
と、おばさんが言った。
「子どもにゃ罪はねぇけぇのお。」
とみんなを見まわして、
岩さんは言った。
晩酌が効いてきて、
岩さんの口もなめらかになっていた。
じいさんはおれの方をちらっと見て、
「そうじゃ、そうじゃ。」
と岩さんに合わせた。
おれはその言葉の意味を探ろうとしたが、
よくのみこめなかった。
今度は調子をかえて岩さんが言った。
「上田淵のばあさんにゃ世話になったけぇのお。」
まるでおれに教えているようだ。
おれは、ひいばあさんのことだと思った。
これにはじいさんも、
文句なく同意した。
おれのひいばあさんはよく自家製の豆腐を作った。
幼いおれの手をひいてあの柿の木のある道を下って岩さんの家へお裾分けをした。
そのことをおれは思いうかべた。
その頃ひいばあさんは、
病気で入院していた。
おれはうれしさをこらえて、
黙って飯を食った。
おかずは、
村の小売店で買ってきたあり合わせのものが多い。
岩さんは、文句も言わず食べた。
「上田淵の兄さんは、戦争でお国のために戦死したんじゃけえのお。」
と岩さんが遠くを見るような目で言った。
ひいばあさんの一人息子のことだ。
「むかしゃ、何でもねえことでじきに死にょうたんじゃ。結核どもなりゃじきじゃ。今なら助かるがのお。」
眉にしわを寄せて岩さんが言った。
後でおれの母親に聞いたところ、
岩さんの母親は若くして結核で亡くなったらしい。
その上じいさんが連れてきたお妾さんも、
結核で亡くなったらしい。
戦後間もない頃のことだ。
「うちゃあ、病院がでい嫌れいじゃ。」
とおばさんが言った。
「入院するぐれい馬鹿げなこたあねえ。患うぐれえなら死んだほうがましじゃ。」
と岩さんが言った。
たぶん岩さんの口癖だろう。
おれはなぜこんなことを言うのかと悲しかった。
じいさんはつづけて、
よい機嫌で戦争の話しをした。
岩さんのおやじは戦争に行って、
生きて還った古参兵だ。
岩さんは、
じいさんの自慢話を誇らしそうに聞いた。
「戦争は、するもんじゃあねえ。」
とじいさんは言った。
おれは、感心した。
その時、
としちゃんとよし姉ちゃんが風呂場から出てきた。
「出たか、はよ着かえて飯う食え。」
と岩さんが言った。
「あれ、シイ君まだおったんか。」
と、としちゃんが言った。
としちゃんは、
うれしそうに膳についた。
岩さんは娘を眺めて、
あれを食えこれを食えと言った。
岩さんが機嫌がよいので、
としちゃんはいっそう嬉しげにした。
いったいどうしたのか、
という顔だ。
じいさんも、おばさんも食べおわって、
岩さん一人機嫌よさそうに晩酌をした。
飯はそこそこにして、
「もう一杯。」
と長い腕をおばさんの方に伸ばした。
おばさんは、飲み過ぎだと怒った。
けちって出ししぶったが、
渋々戸棚から一升瓶を出して一杯だけ注いだ。
晩酌一杯を楽しみに仕事をしているのだ、
と言い張った。
大きな声をするなと、
おばさんがたしなめた。
おれはそろそろ帰り時と思って、
玄関を出た。
暗くなった道をひとり走って帰った。
「食うて帰れ、食うて帰れ。」
と言った岩さんの真顔が、
とうぶんおれのまぶたからはなれなかった。
あれからまた、
もう一度だけ岩さんの家で夕飯を食べた記憶がある。
としちゃんは、
おれがいると岩さんの機嫌がよいからと、
おれにまた夕飯を食べろと言った。
岩さんは、身を粉にして働いた。
日曜日は馬車を牽かない代わりに、
田んぼに出てごそごそせわしなく動いた。
おれはこんなに働いて、
いったい岩さんは報われることがあるのだろうかと考えた。
たぶん報われないだろうと思った。
しかし岩さんは、
報われることを疑ってもみない様子だった。
納屋を建て直したのが、
岩さんの自信になったのだろう。
だが、納屋がどうしたというのだ。
岩さんは、それ以上に身を削って働いているのだ。
やはり報われてはいないのだとおれは思った。
それならばおれが岩さんのために、
何か喜ぶことをしてやれないか。
そうだ大きくなったら岩さんのことを小説に書こう。
そう思うと、
おれは秘な喜びを感じた。
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