その男の目は、そう、幼いころ小川で捕まえた小魚(アカンベイと村人は呼んだ)あの小さな円い目のようだった。身体は小太りで白く、腕と胸は毛深かった。白い豚のようなその男は、ふくらんだ頬の間の小さな口をとがらせて、あの魚眼のような目をきょろきょろさせながら虚ろに話した。
この男にわたしはなんの関心も興味もましてや「友情」など感じもしなかったが、ただ生来の人生を投げ出したような暇つぶしとでも言った関係でこの男に関わっていた。この男には、身寄りが無かった。
兄弟などいない独り者で、母親は男が中学生の時首をくくって死んだ。父親は例にもれず女をつくって暮らしていたが、病死した。父親の生命保険でも入ったのか、男は一時金回りが良かったが、そのカネも、やたらとそれをめあてにたかる悪友達と毎晩飲み歩いて、すぐに底をついた。
家は一軒家のみすぼらしい昭和三十年代に建てられたような破れた家に住んでいた。というより寝ていた。独り者だから掃除などしないし、ゴミだらけで、本をやたらと買い込んで床に積んでいた。たばこの吸殻を部屋中に投げ捨てて、足の踏み場も無いほどだった。大きなテレビを買って、ビデオなどという機器もそなえていたが、それもゴミだらけの部屋に埋まっていた。
男は中学を卒業すると、関西の都市の定時制に通ったらしい。私立大学の夜間部にも籍を置いていたが、卒業などするはずもなかった。すこしは若いころ「労働」をした経験があったのだろう。国道に一日中立って旗を振って車の誘導をしたこともあると語ってはいたが。
都会の生活をあきらめて田舎の自分の生家に一人住むようになったのだが、どこかで政治運動にかかわって、うまくこの地である政党の「専従職」の見習いのような地位を得た。地方の政党の活動家など、そんな男の掃き溜めのような、だれも相手にしないが風来坊のような連中がそのころはそんなところに「職」をもとめていたのだ。
わたしは大学を卒業して、この地で結婚し子どもをもうけ、その政党活動に没頭して、精神に異常を来たし、それでもなんとか妻と子どもと「幸福」な団欒を得て暮らしていた。そのころ身寄りの無いこの男と知り合ったのだ。
わたしはこの男になんの関心もないのだが、男の方は村の変わり者のわたしになにか寄る辺を感じたのか、それとも「友情」でも押し売りしたいのか、わたしの家にやってきて、酒を飲んであばれたり、こどもにジュースを買ってきてやったり、夜中にやってきて、ふろに入らせろと言って来た。
わたしの子ども達は幼かったのでなんの抵抗も無く男を受け入れていたし、妻はわたしの「交遊」など何の関心もなかった。
男はその政党の専従職の見習いをしていたが、ある日その地域の政党の長に生活態度をやり玉に挙げられて、追い出されて職を失った。どうせ嫌われ者だから「政党」などに受け入れられるはずも無かった。
職を失ってどうするのかと思ったが、男は一日中破れた家に閉じこもって、たばこの吸殻を投げ散らかして、たばこ銭が無くなれば、床からしけモクを拾って吸った。一日中寝ていたのだ。
もちろんわたしは「心配」して、なけなしのこづかいからカネをはたいて男の持ち物を買ってやったり、インスタントラーメンを箱ごと買って行ったりした。政党の町会議員にも電話して、男の生活をみてほしいと相談してやったりもした。
一ヶ月も二ヶ月もそんなふうに一日中寝転んでいたが、ある日散髪をしてきて「仕事に行く」と言った。男はそういうときには散髪をして身なりを整えたいと思ったのらしい。ところが一日働いて、翌朝にはもうすでに出勤する意欲を失って、もとの木阿弥。一日分の給料を握って、また家に閉じこもった。そんなことを何度かくり返して、まわりの者達も「あいつはダメだ」とみんなさじを投げた。
男はいま精神病院にいる。もう五十代の後半だろう。「死ぬときは餓死するつもりだ」とわたしに語っていたものだが、そんな勇気も無いのだろう。結局、政党の町会議員の手で生活保護の申請をして「ウツ病」ということで入院し、そのまま居場所を占めたのだ。もう何年もその男に会っていない。
******
ある夜、その男が「おまえは女を孕ませたからな。おまえの負けだ」とつぶやいた。「負けだ」と言われても、その男に女を孕ませるような勇気も相手も無いにきまっている。なんだ負け惜しみか。とその男の心中を思ったが、左翼革命家が「結婚(生殖)」しないのが一種のトレンドだという風潮を男はどこかで聞きかじっていたのだろう。
わたしは、ふとロシアのチェルヌイシェフスキーの小説「何をなすべきか」を以前に読んだことを思った。若いレーニンも読みふけったその小説には、二人の親友同士の革命家が登場し、一方のアメリカに渡った革命家の恋人(主人公)と、一方の親友が身を隠すために偽装してロシアの片田舎で同じ屋根の下で暮らす。だが二人は夜になると別々の部屋に寝るのだ。
革命家が「女を孕ませてはならない」という戒律は、19世紀ロシアの厳しい革命家の生活の中でナロードニキたちのあいだに発祥した伝説なのか。とわたしは思った。
そのころわたしは「山口泉」という作家の著書に入れ込んでいて、山口泉は「生殖」を絶対的に拒否する思想を展開していた。そんなことを男に話してもみたが、男はそんなことにはまったく気のない風だった。誰も相手にしてくれない天涯孤独の「白豚」の自分を認めたがらないこの男は、わたしよりも「上」だと、自己のプライドばかりは誰よりも主張する俗物だった。俗物にとって「自尊心」「優越感」「自分が一番」という信仰は自己をささえるただ唯一の心なぐさむ砦だった。
******
それにしても、わたしは「幸福」すぎたようだ。幼いやっと物心ついたころにはすでに、自分とまわりの幼少の遊び友達とはなにか「違っている」異常な意識をもった人間だと気づいてはいた。
二歳の時、近くの禅寺で開所された「託児所」にお隣の「美保ちゃん」と手をつないで通ったが、わたしは自分の家以外の環境では緊張してトイレに行く勇気もなかった。尿意をこらえられず、そのままズボンを濡らした。それがまた特に自分では恥ずかしいことのようで、半日寺の境内のかたすみで元気に遊ぶ友達を見つめて、じっとしているほか無かった。
似たような「恥ずかしい」体験は、三歳の時から通った保育園でも、小学校に上がった時からでも何度も体験した。ただ、わたしの異常な意識はまわりには気づかれなかった。母親も気づかなかったが、一度保育園の教師に「だいじょうぶだろうか」と気にかけてもらうように相談したことがあったが、保育園のベテラン教師も「だいじょうぶ」だと判断した。
パニック障害という名の病名があるのを知ったのは、大人になってつい最近のことだが、隣町に母親に連れられて買い物に出たときも、町にあった小さな映画館で大きなスクリーンと大音量のステレオ音響のなかにいたときも、小学校で時おり全校生を集めて行われる教導映画のときも、あの居ても立ってもいられない神経の暴走がやってきて、誰にも言わずに苦しみに耐えた。運動会の喧騒のなかでも、遠くに出かける遠足のときも。
しかし自分が普通ではない神経の持ち主であることをわたしは認めたくは無くて、ふつうに一人前の人間に成長したいと自分に願った。
というのもわたしは農家の長男で、名家とされる環境で育った。わたしの曾祖母はまだそのころ生きていたが、曾祖母の長男が二十四歳で戦争に行って、沖縄で戦死して、この家はながらく没落の過程にあったのだ。わたしは長男に生まれた者として暗黙の強い期待のなかで育った。だから、自分でも家の命運を背負って、立派に人生を歩まなければならないものだと、自分を偽った。
もし現代のような時代の大都会に生まれていたらどうだろう。わたしは精神的異常体質者として、子どものころから、いじめられ、精神的に虐待されることになるはずだ。おそらくそういう現実に苦しんでいる人たちは、社会の影で今このときにも痛切な悲鳴をあげているはずだ。
わたしはあまりにも「幸福」に生きてきた。
******
わたしに近づいてきた連中は、この「身寄りの無い男」だけではなかった。他にも似たような連中が関わってきた。ある人は、彼らのことを「人間のクズ」だとまで言ったのだが。
彼らには彼らで、わたしに近づいてくる理由があった。
もちろんわたしは、彼らに「生活」を立て直す術を説き伏せてみようとはした。しかしそんなことは無駄だった。馬の耳に念仏。口でいくら説いたところで、彼らはそんなことより、自分の人生観があり、生活観があり、そしてわたしとは違って幼少のころにすでに決定的に「絶望」しているのだ。
もちろん、彼らはわたしに「甘え」たのであり、わたしを「利用」したのであり、「傷つけ」たのではあるが。そんなことより、
彼らはわたしに助力を求めたのではなく、反対に彼らはわたしを教え諭そうというつもりだったのだ。それは彼らが知っていること、「世間」というものであり「世の中」とはこういうものだ、ということだ。
彼らから観たら、わたしはあまりにバカに見えたのだ。
わたしは本来、彼らとは別の道において「絶望」しており、「世間」だとか「世の中」だとかはまったく眼中に無いかのようだった。「成功」だの「金銭欲」だの「名誉」だの何がしかの「地位」だの、世間が当然視してまるでそれしか人間という「サル」には他に求めるものは無いかのごとく思っているそんなくだらないもののために、わたしはたった一回の生を生きようとは決して思わなかった。
能力もチャンスも条件もありながら、世俗的利益から遠く隔たろうとするわたしを彼らは諭そうとしたのだった。
******
三十年ほど前の春のことになるが、十八歳のわたしは大学受験を数週間後にひかえていた。「大学」などというものに行くべきかどうかは、判断に迷った。高校を卒業して就職すべきだとは思っていた。実際わたしは町役場の職員の採用試験を受けに行った。成績は良かったので、うまくいけば職にありつけたかもしれなかった。しかし、わたしは暗い「絶望」のなかにいたから、主体的な判断などいっさい拒否して、成り行きにまかせていたのだ。
大学受験をひかえていたわたしは、トロツキーの「わが生涯」という上下二巻の大部の本を高校の図書館で見つけて、読みふけっていたのだ。もちろん、両親は受験を控えてなにをしているのかと心配になり、高校の担任教師に電話する始末だった。
ロマンチックな革命家の生涯を達者な筆致で描くトロツキーの歩みに、わたしは自分の人生を重ねてみた。もちろんわたしの人生がそんな華々しいものになるはずもなかったが。
あれから三十年経って、ふとしたきっかけでトロツキーの「わが生涯」を手にした。なつかしくページをめくっていくうちに、ある個所で目を留めた。
そこには、ボルシェヴィキがあるイギリスの資産家に多額の資金を借りていたというくだりがあった。その資金はロシア革命の成就後、イギリスの資産家に返却されたとあった。
そうか、人類史に新たな段階を拓くと熱狂的に迎えられたロシア革命時のボルシェヴィキの権力奪取も「カネで買われたのか」。
それはわたしにとって軽い衝撃だった。
「革命」でさえカネで買われるのだ。
******
だがそんなことは「身寄りの無い男」がわたしに教えようとした世間の「常識」から言っても、理論的に言っても、当たり前のことではあった。K・マルクスでさえ分析しているではないか。「フランス革命」は、勃興する新興勢力であった市民階級、つまりはブルジョアジーの財力が背景にあった。援助資金がなくては、「革命家」にとって活動することはおろか、生きてもいられないのだ。
だとしたら、労働者階級の権力奪取、「社会主義革命」はありえない自己矛盾だったはずだ。ブルジョア市民社会において最も虐げられた階級として、マルクスはプロレタリアート、賃金労働者を最も革命的な階級として「発見」した。
だが生産手段を持たない階級とは、つまりは命を養うためのぎりぎりの生活費以外カネを持たない階級のことだ。そんな勢力がどうして「権力」に至りつくことができるというのだ。「社会的連帯」か「階級の団結と量」の問題か。
******
もしわたしがカネと権力の所有者ならば、その意志さえあれば、天涯孤独のみすぼらしい「身寄りの無い男」を助力できるだろう。
虐げられた者たちのために「革命」を起こしたければ、そして現在苦しんでいる者たちを助けたければ、直接に「カネ」と「権力」を。「自由」を得たければわたし自身が、富と権力にありつけばいいではないか。そのために生きて努力すればいいではないか。
だが、それは人生と人類史の永遠の「自己矛盾」だ。
******
身寄りの無いあの男の存在が、わたしにどんなに切実に問いかけてきても、わたしはそんなことのために生きようとは思わなかった。わたしは生まれてこのかた、世界のその根本の成り立ちを肯うことはできなかった。ただ、消極的に抗いつづけた。
******
長い抗いのはて、わたしはすでに自力では生きていけない身となった。
(面倒くさくなったのでとりあえず 完)
この男にわたしはなんの関心も興味もましてや「友情」など感じもしなかったが、ただ生来の人生を投げ出したような暇つぶしとでも言った関係でこの男に関わっていた。この男には、身寄りが無かった。
兄弟などいない独り者で、母親は男が中学生の時首をくくって死んだ。父親は例にもれず女をつくって暮らしていたが、病死した。父親の生命保険でも入ったのか、男は一時金回りが良かったが、そのカネも、やたらとそれをめあてにたかる悪友達と毎晩飲み歩いて、すぐに底をついた。
家は一軒家のみすぼらしい昭和三十年代に建てられたような破れた家に住んでいた。というより寝ていた。独り者だから掃除などしないし、ゴミだらけで、本をやたらと買い込んで床に積んでいた。たばこの吸殻を部屋中に投げ捨てて、足の踏み場も無いほどだった。大きなテレビを買って、ビデオなどという機器もそなえていたが、それもゴミだらけの部屋に埋まっていた。
男は中学を卒業すると、関西の都市の定時制に通ったらしい。私立大学の夜間部にも籍を置いていたが、卒業などするはずもなかった。すこしは若いころ「労働」をした経験があったのだろう。国道に一日中立って旗を振って車の誘導をしたこともあると語ってはいたが。
都会の生活をあきらめて田舎の自分の生家に一人住むようになったのだが、どこかで政治運動にかかわって、うまくこの地である政党の「専従職」の見習いのような地位を得た。地方の政党の活動家など、そんな男の掃き溜めのような、だれも相手にしないが風来坊のような連中がそのころはそんなところに「職」をもとめていたのだ。
わたしは大学を卒業して、この地で結婚し子どもをもうけ、その政党活動に没頭して、精神に異常を来たし、それでもなんとか妻と子どもと「幸福」な団欒を得て暮らしていた。そのころ身寄りの無いこの男と知り合ったのだ。
わたしはこの男になんの関心もないのだが、男の方は村の変わり者のわたしになにか寄る辺を感じたのか、それとも「友情」でも押し売りしたいのか、わたしの家にやってきて、酒を飲んであばれたり、こどもにジュースを買ってきてやったり、夜中にやってきて、ふろに入らせろと言って来た。
わたしの子ども達は幼かったのでなんの抵抗も無く男を受け入れていたし、妻はわたしの「交遊」など何の関心もなかった。
男はその政党の専従職の見習いをしていたが、ある日その地域の政党の長に生活態度をやり玉に挙げられて、追い出されて職を失った。どうせ嫌われ者だから「政党」などに受け入れられるはずも無かった。
職を失ってどうするのかと思ったが、男は一日中破れた家に閉じこもって、たばこの吸殻を投げ散らかして、たばこ銭が無くなれば、床からしけモクを拾って吸った。一日中寝ていたのだ。
もちろんわたしは「心配」して、なけなしのこづかいからカネをはたいて男の持ち物を買ってやったり、インスタントラーメンを箱ごと買って行ったりした。政党の町会議員にも電話して、男の生活をみてほしいと相談してやったりもした。
一ヶ月も二ヶ月もそんなふうに一日中寝転んでいたが、ある日散髪をしてきて「仕事に行く」と言った。男はそういうときには散髪をして身なりを整えたいと思ったのらしい。ところが一日働いて、翌朝にはもうすでに出勤する意欲を失って、もとの木阿弥。一日分の給料を握って、また家に閉じこもった。そんなことを何度かくり返して、まわりの者達も「あいつはダメだ」とみんなさじを投げた。
男はいま精神病院にいる。もう五十代の後半だろう。「死ぬときは餓死するつもりだ」とわたしに語っていたものだが、そんな勇気も無いのだろう。結局、政党の町会議員の手で生活保護の申請をして「ウツ病」ということで入院し、そのまま居場所を占めたのだ。もう何年もその男に会っていない。
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ある夜、その男が「おまえは女を孕ませたからな。おまえの負けだ」とつぶやいた。「負けだ」と言われても、その男に女を孕ませるような勇気も相手も無いにきまっている。なんだ負け惜しみか。とその男の心中を思ったが、左翼革命家が「結婚(生殖)」しないのが一種のトレンドだという風潮を男はどこかで聞きかじっていたのだろう。
わたしは、ふとロシアのチェルヌイシェフスキーの小説「何をなすべきか」を以前に読んだことを思った。若いレーニンも読みふけったその小説には、二人の親友同士の革命家が登場し、一方のアメリカに渡った革命家の恋人(主人公)と、一方の親友が身を隠すために偽装してロシアの片田舎で同じ屋根の下で暮らす。だが二人は夜になると別々の部屋に寝るのだ。
革命家が「女を孕ませてはならない」という戒律は、19世紀ロシアの厳しい革命家の生活の中でナロードニキたちのあいだに発祥した伝説なのか。とわたしは思った。
そのころわたしは「山口泉」という作家の著書に入れ込んでいて、山口泉は「生殖」を絶対的に拒否する思想を展開していた。そんなことを男に話してもみたが、男はそんなことにはまったく気のない風だった。誰も相手にしてくれない天涯孤独の「白豚」の自分を認めたがらないこの男は、わたしよりも「上」だと、自己のプライドばかりは誰よりも主張する俗物だった。俗物にとって「自尊心」「優越感」「自分が一番」という信仰は自己をささえるただ唯一の心なぐさむ砦だった。
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それにしても、わたしは「幸福」すぎたようだ。幼いやっと物心ついたころにはすでに、自分とまわりの幼少の遊び友達とはなにか「違っている」異常な意識をもった人間だと気づいてはいた。
二歳の時、近くの禅寺で開所された「託児所」にお隣の「美保ちゃん」と手をつないで通ったが、わたしは自分の家以外の環境では緊張してトイレに行く勇気もなかった。尿意をこらえられず、そのままズボンを濡らした。それがまた特に自分では恥ずかしいことのようで、半日寺の境内のかたすみで元気に遊ぶ友達を見つめて、じっとしているほか無かった。
似たような「恥ずかしい」体験は、三歳の時から通った保育園でも、小学校に上がった時からでも何度も体験した。ただ、わたしの異常な意識はまわりには気づかれなかった。母親も気づかなかったが、一度保育園の教師に「だいじょうぶだろうか」と気にかけてもらうように相談したことがあったが、保育園のベテラン教師も「だいじょうぶ」だと判断した。
パニック障害という名の病名があるのを知ったのは、大人になってつい最近のことだが、隣町に母親に連れられて買い物に出たときも、町にあった小さな映画館で大きなスクリーンと大音量のステレオ音響のなかにいたときも、小学校で時おり全校生を集めて行われる教導映画のときも、あの居ても立ってもいられない神経の暴走がやってきて、誰にも言わずに苦しみに耐えた。運動会の喧騒のなかでも、遠くに出かける遠足のときも。
しかし自分が普通ではない神経の持ち主であることをわたしは認めたくは無くて、ふつうに一人前の人間に成長したいと自分に願った。
というのもわたしは農家の長男で、名家とされる環境で育った。わたしの曾祖母はまだそのころ生きていたが、曾祖母の長男が二十四歳で戦争に行って、沖縄で戦死して、この家はながらく没落の過程にあったのだ。わたしは長男に生まれた者として暗黙の強い期待のなかで育った。だから、自分でも家の命運を背負って、立派に人生を歩まなければならないものだと、自分を偽った。
もし現代のような時代の大都会に生まれていたらどうだろう。わたしは精神的異常体質者として、子どものころから、いじめられ、精神的に虐待されることになるはずだ。おそらくそういう現実に苦しんでいる人たちは、社会の影で今このときにも痛切な悲鳴をあげているはずだ。
わたしはあまりにも「幸福」に生きてきた。
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わたしに近づいてきた連中は、この「身寄りの無い男」だけではなかった。他にも似たような連中が関わってきた。ある人は、彼らのことを「人間のクズ」だとまで言ったのだが。
彼らには彼らで、わたしに近づいてくる理由があった。
もちろんわたしは、彼らに「生活」を立て直す術を説き伏せてみようとはした。しかしそんなことは無駄だった。馬の耳に念仏。口でいくら説いたところで、彼らはそんなことより、自分の人生観があり、生活観があり、そしてわたしとは違って幼少のころにすでに決定的に「絶望」しているのだ。
もちろん、彼らはわたしに「甘え」たのであり、わたしを「利用」したのであり、「傷つけ」たのではあるが。そんなことより、
彼らはわたしに助力を求めたのではなく、反対に彼らはわたしを教え諭そうというつもりだったのだ。それは彼らが知っていること、「世間」というものであり「世の中」とはこういうものだ、ということだ。
彼らから観たら、わたしはあまりにバカに見えたのだ。
わたしは本来、彼らとは別の道において「絶望」しており、「世間」だとか「世の中」だとかはまったく眼中に無いかのようだった。「成功」だの「金銭欲」だの「名誉」だの何がしかの「地位」だの、世間が当然視してまるでそれしか人間という「サル」には他に求めるものは無いかのごとく思っているそんなくだらないもののために、わたしはたった一回の生を生きようとは決して思わなかった。
能力もチャンスも条件もありながら、世俗的利益から遠く隔たろうとするわたしを彼らは諭そうとしたのだった。
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三十年ほど前の春のことになるが、十八歳のわたしは大学受験を数週間後にひかえていた。「大学」などというものに行くべきかどうかは、判断に迷った。高校を卒業して就職すべきだとは思っていた。実際わたしは町役場の職員の採用試験を受けに行った。成績は良かったので、うまくいけば職にありつけたかもしれなかった。しかし、わたしは暗い「絶望」のなかにいたから、主体的な判断などいっさい拒否して、成り行きにまかせていたのだ。
大学受験をひかえていたわたしは、トロツキーの「わが生涯」という上下二巻の大部の本を高校の図書館で見つけて、読みふけっていたのだ。もちろん、両親は受験を控えてなにをしているのかと心配になり、高校の担任教師に電話する始末だった。
ロマンチックな革命家の生涯を達者な筆致で描くトロツキーの歩みに、わたしは自分の人生を重ねてみた。もちろんわたしの人生がそんな華々しいものになるはずもなかったが。
あれから三十年経って、ふとしたきっかけでトロツキーの「わが生涯」を手にした。なつかしくページをめくっていくうちに、ある個所で目を留めた。
そこには、ボルシェヴィキがあるイギリスの資産家に多額の資金を借りていたというくだりがあった。その資金はロシア革命の成就後、イギリスの資産家に返却されたとあった。
そうか、人類史に新たな段階を拓くと熱狂的に迎えられたロシア革命時のボルシェヴィキの権力奪取も「カネで買われたのか」。
それはわたしにとって軽い衝撃だった。
「革命」でさえカネで買われるのだ。
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だがそんなことは「身寄りの無い男」がわたしに教えようとした世間の「常識」から言っても、理論的に言っても、当たり前のことではあった。K・マルクスでさえ分析しているではないか。「フランス革命」は、勃興する新興勢力であった市民階級、つまりはブルジョアジーの財力が背景にあった。援助資金がなくては、「革命家」にとって活動することはおろか、生きてもいられないのだ。
だとしたら、労働者階級の権力奪取、「社会主義革命」はありえない自己矛盾だったはずだ。ブルジョア市民社会において最も虐げられた階級として、マルクスはプロレタリアート、賃金労働者を最も革命的な階級として「発見」した。
だが生産手段を持たない階級とは、つまりは命を養うためのぎりぎりの生活費以外カネを持たない階級のことだ。そんな勢力がどうして「権力」に至りつくことができるというのだ。「社会的連帯」か「階級の団結と量」の問題か。
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もしわたしがカネと権力の所有者ならば、その意志さえあれば、天涯孤独のみすぼらしい「身寄りの無い男」を助力できるだろう。
虐げられた者たちのために「革命」を起こしたければ、そして現在苦しんでいる者たちを助けたければ、直接に「カネ」と「権力」を。「自由」を得たければわたし自身が、富と権力にありつけばいいではないか。そのために生きて努力すればいいではないか。
だが、それは人生と人類史の永遠の「自己矛盾」だ。
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身寄りの無いあの男の存在が、わたしにどんなに切実に問いかけてきても、わたしはそんなことのために生きようとは思わなかった。わたしは生まれてこのかた、世界のその根本の成り立ちを肯うことはできなかった。ただ、消極的に抗いつづけた。
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長い抗いのはて、わたしはすでに自力では生きていけない身となった。
(面倒くさくなったのでとりあえず 完)