鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

2月23日(土)太陽が7時前から東の空から昇ってきた。

2013-02-23 08:08:34 | 直言!
付近の高円山などにまだ雪が積もっているところがある。

しかし太陽の日差しに春が感じられる。
今年の冬は寒かったとつい口にでてしまう。
ある男性は「年をとったから寒いと思うのかもしれない」といった。近くにいた若い女性は「若いけど私も寒いです」といったので電車のホームの待合室で待っていた何人かが大声で笑うほどの冗談とも本気ともつかない言葉で周りを和ました。
昔、田舎の駅で見た光景、老いも若きも一緒になって話していた頃のことを思い出していた。

今、朝6時に起きて朝食の支度をして夫の朝食を食卓に並べると私は大きい薬缶にお茶を沸かしながらベランダに出て洗濯を干すのが6時20分前後です。
市内循環のバス乗り場の前に建っていた家の住人が老人施設に入ったのでその家が取り壊されて駐車場になった。それでバスを乗るのに待っている人がベランダからよくみえる。
そこに19歳か20歳か、高校卒義して1年ほどなのか。
若い女性が南の方の住宅街から歩いてくる。
歩いてくるのを見るときもあればバス乗り場に待っているときもある。
夏の季節には思い出すことはないが冬になると自分の若い時代を思い出してしまう。
私はまだ実家にいてOL生活をしていたころだった。
大阪に関西線(今の大和路快速)で通勤していた。
近鉄線が早く大阪に着くが当時は上本町が近鉄大阪線の終点だった。
それと近鉄線は通勤時間の電車はラッシュだった。今のラッシュとは比べ物にならないほどの混んでいた。
国鉄(今のJR)で木津から奈良に出て歩いて近鉄線の油阪の駅に出た。
1つ向こうが始発の奈良駅で油坂からは座れなかった。
ラッシュのひどさもあったので私は関西線で通勤していた。
木津から乗るが亀山から来る関西線、多くの駅を通り好きでくる。
大阪に通勤圏の多かった大河原に笠置、加茂と多くの人がのってくるのでほとんど満席だった。若い私たちはずっと立って大阪までいった。
奈良線の奈良で乗り換えた。同じ年の者は奈良などの私学にいっていた人、中学は違ってもなぜか皆友だちになっていた。列車の隅っこにかたまって立って大阪まで通勤をした。天王寺でその人たちは降りた。
私はJR野田で降りて少し歩いてオフイスのあるビルに通っていた。
2時間半かかった。
木津から乗る電車はいつも6時10何分の列車だった。
5時半に起きて朝は急いで味噌汁でご飯を書き込んで身支度をして6時に家を出ていた。家から駅まで7分だった。
6時10何分の電車に乗ると冬だとまだ辺りは暗闇だった。
かすかに見える霜の降りた景色を見て心の中でよく歌を歌っていた。
「さぎりきゆる港えの船に白し朝の霜-----」と-----。
帰りは時々、高校時代の同級生とよく一緒になった。
当時は国鉄だったので国鉄に勤務していた同級生が多くいた。湊町の駅に勤務していた人とよくあった。
彼は笠置まで乗っていたが私は立ってよく話しをしていた。
当時、関西線は湊町から亀山まで各駅停車だった。
時間がかかったがのんびりとした生活空間だった。
今は交通至便になった。しかし生活は忙しくなって人の心に遊びの空間がなくなっている。

若い女性が早起きをしてバス乗り場に来て1番に並んでいる。
いつもどこに勤めているのかなと気になって見てしまう。
彼女がバス乗り場に来ると6時21分発のバスに乗るために何人かがやってくる。寒い暗闇の中を市内循環バスの案内の電光案内をつけて走ってくる。
こんなときにふと私の若かった時のことを思い出す。
朝、5時半に起きてOL生活をしていた頃を思い出している。

私の若い頃、木津駅で待っていたときはジーゼルになったばかりの列車だったが田舎の町をのんびり走ってきた。
それは昔を思う気のせいだろうか。
さてこれから身支度をして外出です。
少しでも早く郵送をしなければならない郵便物があるのでこれから身支度です。
また---。
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