今日は「電車の中--」の最終回を作って「食卓の向こう」の原稿をあらかた作ってブログを書いてそして昼食を取った。新聞を読んでいると産経新聞には大韓航空爆破事件の金賢姫さん(元死刑を言い渡されているが罷免で保釈された。しかしこの人も北朝鮮の政治の犠牲者と考えて金賢姫さんとしていく)
の記事が載っていた。
日本語を教えてもらった人は拉致被害者、今、家族会で兄と拉致被害者の子どもが家族会で拉致被害者救出の運動されている。
その人のの子どもが成人しているのを日本のテレビで見たと話し北朝鮮に拉致された母親が幼い子どものことを話して涙していたことを話していた。
このことは誰が考えても非情で犯罪としては残酷としてかいいようがない。
日本の当時の国家、主権はどうなっていたのかと問われる。
自分の子どもがある日、突然いなくなったらどうなるのか。
こんなことを1970年代に北朝鮮は工作員を使ってしていたのだ。
なんと悲惨なこと。
当時、私は日本国籍に切り替える準備をしていたのでまったく北朝鮮にも韓国にも関心がなかった。
しかし1970年の半ば、親戚と一緒に子どもたちを連れて日本海に海水浴に行ってくると父親は必ず言った。
「日本海に泳ぎに行くな。北朝鮮に拉致される」と。
まさか。「そんな嘘」と私は言った。3回、日本海に泳ぎにでかけて3回とも父親は厳しく忠告をした。
日本の会社でしがないサラリーマンをしていた父親にどうしてこんなことが分かるのか信じられなかったので「嘘や」と言った。
そしてそれから横田めぐみさんの拉致被害をとりあげた産経新聞、さらに韓国に脱北してきた人たちの証言で少しずつ日本人拉致がわかってきた。
また拉致した本人を通して克明なその拉致の模様の本も出版された。
北朝鮮に行った日本の国会議員にも秘密に拉致被害者のことが話されていた。
そして2002年10月15日、5人の拉致被害者が羽田空港に下り立った。24年ぶりの親との再会、ここからまた家族の苦闘が始まった。
こんなことがあっていいものかとテレビを見ながら思った。
そうしたことを考えると金賢姫さんも北朝鮮の政治の犠牲者なのだ。
韓国で幸せになってもらいたと願う反面、爆破事故で亡くなった家族の思いはいろいろとあるだろう。
分断国家の悲劇が戦後、63年経っても延々と続いている。
分断国家60年、今も分断されたままだ。
在日も韓国か北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の双方の政治に翻弄されてきた。私は42歳までどちらの組織とも関わらずにきた。父親がそうしたように娘の私もそうしてきた。
しかし日本の出版社で雑誌記者をしている中で「日本人のふりをして日本の記事を書きたくない」という葛藤に言葉と正面に向き合うことで何か道を探そうと思った。韓国語を習って見えてきたものがあった。
それが私の人生が180度変わって今日の生活になった。
そうしたものが今日の私なりのわずかだが知識になった。
まだ書きたいことがあるが夫が帰ってきた。このへんで。
の記事が載っていた。
日本語を教えてもらった人は拉致被害者、今、家族会で兄と拉致被害者の子どもが家族会で拉致被害者救出の運動されている。
その人のの子どもが成人しているのを日本のテレビで見たと話し北朝鮮に拉致された母親が幼い子どものことを話して涙していたことを話していた。
このことは誰が考えても非情で犯罪としては残酷としてかいいようがない。
日本の当時の国家、主権はどうなっていたのかと問われる。
自分の子どもがある日、突然いなくなったらどうなるのか。
こんなことを1970年代に北朝鮮は工作員を使ってしていたのだ。
なんと悲惨なこと。
当時、私は日本国籍に切り替える準備をしていたのでまったく北朝鮮にも韓国にも関心がなかった。
しかし1970年の半ば、親戚と一緒に子どもたちを連れて日本海に海水浴に行ってくると父親は必ず言った。
「日本海に泳ぎに行くな。北朝鮮に拉致される」と。
まさか。「そんな嘘」と私は言った。3回、日本海に泳ぎにでかけて3回とも父親は厳しく忠告をした。
日本の会社でしがないサラリーマンをしていた父親にどうしてこんなことが分かるのか信じられなかったので「嘘や」と言った。
そしてそれから横田めぐみさんの拉致被害をとりあげた産経新聞、さらに韓国に脱北してきた人たちの証言で少しずつ日本人拉致がわかってきた。
また拉致した本人を通して克明なその拉致の模様の本も出版された。
北朝鮮に行った日本の国会議員にも秘密に拉致被害者のことが話されていた。
そして2002年10月15日、5人の拉致被害者が羽田空港に下り立った。24年ぶりの親との再会、ここからまた家族の苦闘が始まった。
こんなことがあっていいものかとテレビを見ながら思った。
そうしたことを考えると金賢姫さんも北朝鮮の政治の犠牲者なのだ。
韓国で幸せになってもらいたと願う反面、爆破事故で亡くなった家族の思いはいろいろとあるだろう。
分断国家の悲劇が戦後、63年経っても延々と続いている。
分断国家60年、今も分断されたままだ。
在日も韓国か北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の双方の政治に翻弄されてきた。私は42歳までどちらの組織とも関わらずにきた。父親がそうしたように娘の私もそうしてきた。
しかし日本の出版社で雑誌記者をしている中で「日本人のふりをして日本の記事を書きたくない」という葛藤に言葉と正面に向き合うことで何か道を探そうと思った。韓国語を習って見えてきたものがあった。
それが私の人生が180度変わって今日の生活になった。
そうしたものが今日の私なりのわずかだが知識になった。
まだ書きたいことがあるが夫が帰ってきた。このへんで。
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