鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

また1つの青春が消えた。

2007-01-19 07:50:19 | 直言!
そんなにもハンサムではなかったが歌の上手い人だった。当時はまだ1963年か64年だった。東京から大阪間に新幹線が走り始めたときだった。
それでも京都府の郡部に住む私は東京という所ははるかに遠いところだった。
高校を卒業するころ近くのおばさんが私の就職先として「東京のある家のお手伝いさん」の話だった。東京都と言う地名に私は憧れたが父は即座に断った。
娘は手元に置いて嫁に出すものだと思っていたので断った。
そして当時、また近所の在日同胞との結婚話も持ち上がっていた。けれど私はお金があってもどうしても好みの合わないタイプだった。
後に私でなくてよかったと思った。他の人がこられてさらに家業を繁栄させたので私でなくてよかったとこれは今も安堵している。
またしばらくして北朝鮮を支持する在日同胞からの話もあった。ここも裕福な家庭だった。学歴もある男性なのにこれも父は即座に断った。
父は当時はもうすでに双方の民族団体から遠ざかり日本社会の会社員で生きていた。親戚が集まっても「北」か「南」かということで口論することも父親は嫌っていた。民族団体の偏りを嫌った。
しかし民族気質はしっかり持っていた人だったので民族から離れて暮らすことは父親にとって自分との葛藤だったとこの年になってきて気がついている。

井沢八郎さんの歌が流行ったころは皆大人たちは日本が戦後復興のために朝早くから夜遅くまで働いた。
このころ父親はインドに輸出する布地のプリント柄を作ったことを自慢していたことを覚えている。
私の小学校のころは日本で使う布団柄のプリント柄を彫っていたが輸出製品を作るところまできたと父は夕食の時に子どもたちの私たちに話していた。
意味がわからなくても黙って聞いていたが今になると父親の世代は日本の経済構築のために寄与した1人だと分かるようになった。

井沢八郎の訃報に私が高校を卒業する前の18歳当時のことを思い出していた。
東京はまだまだいけそうにもない憧れだった。「ああ上野駅」の歌を聞いて東京を想像した。
そしてこの歌はまた東北からの集団就職をした人たちの励みの歌だと言うことも何年もしてから知るようになった。
そしてこの時、流行った歌が「東京の灯をいつまでも」の歌に東京を想像した。またこのメロデイーが良かった。
そして私と同じ年の荒木一郎の「空に星があるように」「今夜は踊ろう」の歌に東京生まれの荒木一郎、現代風の曲に東京に憧れた。

それが今は往復3万円で奈良から東京を3時間で行けるようになった。
ビジネスマンは新幹線で出張というのも普通になった。
どんどん日本の生活圏は変わった。
便利になったが女性の働きが多くなり家庭放置という家族構成に今、聞くに耐えない事件に震撼している。どうすればいいのか。
なす術を早く見つけて問題解決に取り組まなければならない。
それには身勝手な人たちが多く乗る電車のマナーも口やかましく言う必要がある。個人で言うのは限りがあり不都合である。やかましい広告宣伝よりこうしたマナーを公的機関がしてほしい。切羽詰った問題である。ぜひしてもらいたい。
「大衆」と「自分」という世界の区別が分からない現代を生きる若者たちにまず「大衆」の中の「自分」とのかかわり、「責任」「気配り」というナマーを教えないといけないだろう。
「自分」と「大衆」の区別がつかない人がどんどん増えていると私は考えている。

井沢八郎の訃報で「ああ上野駅」の歌った時代を思い出した。
貧しかった日本の若者たちだったがまだ「大衆」と「自分」の区別を知っていた。
「ビートルズ」が日本にやってきた。アメリカの大スターだった。大衆とフアンが一帯になった。アメリカ文化やアメリカの外資系産業の進出に日本の若者たちの思考が変わっていった。
これが団塊の世代である。その団塊ジュニャたちが引きこもりニートという言葉が生まれた。
私のような世代は理解ができない。
なにがこうなったのか理解できないが電車の中でのマナーの悪さはこの団塊ジュニャということになると私は考えている。
ベビーブームに生まれた世代、学校も社会もどこにいても競争の社会にいた。ここから人間の心がすさんでいったのだろうか。周りを蹴落としてでも生き延びる個人主義の処世術が日本の現代の世相になった。
井沢八郎の訃報に当時の私と世相を思い出した。
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