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鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

6月5日(火)曇っていて雨が降りそうだ。

2012-06-05 08:27:07 | 直言!
病院からの後、行きつけの喫茶店で女友達と待ち合わせている。
昨日は弟が夜の8時半頃、夫婦で用事があって来た。
いろいろ話をしていると時計は11時半、夜中に近づく時間になっていた。
弟は父親が亡くなるまで一緒に暮らしていたのでいろんな話を聞いていたのでいろんなことを父親から聞いていた。
そしてその話しを私に話してくれた。
あの時あの日のこと-----。

ああそうだったのかと-----。
今になって知ることが多かった。
私は23歳で実家を離れて結婚している。
実家に行っても私に話しをすることは自分の会社員時代が多くて親戚関係は少なかった。しかし弟には親戚とのつながり、そして疎遠になっていった事柄を話していた。なるほど------。
分家との疎遠、余にも経済に差がついたことでそうさせたのか---。
父親の心の中は何があったのだろあう。
父親に生前、聞いておくものだったと今になって反省している。
父親に本家のプライドがあったのか。
覚悟してそうしたのか。

1960年、秋のこと----。父親が亡くなって弟に伝えられていた話、50年と少し経って聞くことができた。
なるほど------。父親の本心は経済格差に一番、悲しんでいたと思っている。
会社員だった父親、自営業で財をなしていた分家に対する何かのこだわりがあったのか。
財を成した分家に行かなかった父親の理由は何だったのか。父親が生きている時に聞いておけばよかったと思っている。
父親も心の中では葛藤していたと思っている。
だから高校生だった私に分家が財を成していったその経緯を詳細に私に話してくれた。

5歳で日本に来た父、日本語がわからなくて最初は苦労した。
京都市立陶化小学校の第1期生で入学している。
そして算数の引き算のテスト、零点を取って帰ってきた。
それを見た祖父の弟、父から見ると叔父さん、韓国語で私にいった。
「チャナブジ(韓国慶尚南道の方言で叔父さん、ソウル言葉ではチャグナブジ)がこんなのがわからないのかといわれて日本語がわからないから何もわからないといったらチャナブジが丁寧に教えてくれてそれでわかるようになった」と話していた。そのときの叔父が祖父の弟である。
後に父親は校区編成で京都市立東和小学校に行った。成績はクラスで1番だった。そして級長もして卒業していった。この自慢話を祖母から何度も聞いていた。
父親は生前、「おじいさんは先見の明があって金持ちになった」とよく私に話していたが、そのおじいさんが祖父の弟だった。

私が聞いていなかった分家とのつながり、また弟から聞くことになって本家の私の家と分家とのつながりと疎遠になった深い訳を知った。
なるほどあの頃、祖父のことで家がもめてゴタゴタしていた意味が50年と少し経ってやっとわかった。
だけど父親のことを私は何もいう気にならない。
父親なりの考えがあったのだろうと-----。
それでも本家と分家は先祖が合わしている。
私の祖父の墓から分家筋の墓を見下ろす位置にある。
誰が考えたわけでもないのに自然の流れでそうなった。
分家は財をなしたその富を祖父に見せるようになったのか-----。
これは天のみに知ることである。
私の叔父、父親の弟は「自然にそうなっているのが先祖の縁の不思議」と話していた。

ただ私は仕事の中で分家筋の長男家族と会う機会があってもけっして名刺交換をしなかった。ある人を介して旧名の通名を聞きにこられたが名刺交換をしなかった。それは父親が通して意地というものを何かしら見えないもので私の心を制していた。理屈ぬきで私の心はそうなっていた。
そして父親が亡くなってから心がほぐれるように分家筋の人とも名刺交換がすんなりとできるようになった。父親はあの世にいって祖父と祖父の弟が仲良くしている光景を見ているのだろうか。私もすんなりと名刺が渡せるようになったのもそんなことがあるのだろうか。心の変化にこれは何を意味するのかと思っていたがなるほど父親が亡くなくなるまで見えない何かが押さえていたということを知った。
これも人生の生き様である。
ここに深い内容は書くことができはないがここに書いて私の心の記憶にしておこう。病院に行く身支度です。
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