さぁ、たまにはちゃんと、音楽評論家としての活動もご紹介しましょうね!
きょうは上野の東京文化会館の、音楽資料室に行って、
2月9日(土)の#ハンス・ロット祭り に備えて、こちらのCDを試聴してきました。
指揮:セバスティアン・ヴァイグレ
演奏:ミュンヘン放送管弦楽団
2003年録音
音楽資料室には、これしかなく、楽譜も見ることができなくてちょっと残念。でも、かなりこれだけでもくわしい解説がでていたので、非常に貴重な資料となりました。
以前私はこちらのパーヴォのCDも持っていたのですが、前の夫に、パーヴォのCDはすべて手放すようにといわれて、泣く泣く手放したのがこちらです。
指揮:パーヴォ・ヤルヴィ
演奏:フランクフルト放送交響楽団
2012年録音
どちらもすばらしい録音だと思いますが、たぶん9日・10日はパーヴォのこちらのCDが販売されると思うので、一応買ってみようと思っています。
試聴した結果、いろいろな感慨をもつことができました。また、NHK交響楽団から、2月号の「フィルハーモニー」がアップされましたので、併せてみなさまの9日・10日の鑑賞の手引きとして、こちらにもアドレスを掲載させていただきます。
なお、Aプログラムの解説は、広瀬大介さん(音楽評論家)です。
file:///C:/Users/User/AppData/Local/Microsoft/Windows/INetCache/IE/43SNIWVI/phil19Feb.pdf
<ハンス・ロットの交響曲第1番を聴く>
〇第1楽章:壮大かつ華麗なるファンファーレが始まる。随所に、ブルックナー・ブラームス・ワーグナーの影響がみられる。晴れやかな管楽器のメロディーがつづく。大変野心的な作風で、のびやかな個性が初々しく好ましい。しかし、さまざまな識者から「ワーグナー風」と言われたこともあったらしい。しかしながら、この気宇壮大な作風は、なんともすがすがしく、第1主題がダイナミックに演奏され、心地よい。
〇第2楽章:こちらも透明感あふれる美しいメロディー。まさに天上の音楽の名にふさわしい。あちこちに、とてもマーラー的な要素を感じる。8分25秒過ぎに、やはりちょっと変わった、美しいフレーズが流れる。
〇第3楽章:のっけからワーグナーの「ワルキューレ」的な展開になる。通常の交響曲なら、ここで緩徐楽章になるところが、ひたすら壮麗で雄大な音楽が展開する斬新さに驚く。華麗なワルツ風の3拍子が続き、エルガーの「威風堂々」を思わせる壮烈なメロディーが繰り広げられる。正直言って、大変新鮮かつ面白いし、パーヴォや川瀬賢太郎マエストロが夢中になって取り上げようとするのも無理はない!
ここで、ヴァイオリンの優雅なワルツ。すぐに打楽器と管楽器の合奏がある。優美なヴァイオリンの独奏が静かに流れる。若者の、理想に燃える姿が目に浮かぶようである。
6分30秒から7分にかけて、オーケストラが力強い演奏を展開する。スケルツォが壮烈である。徐々に迫力をましていき、フォルテシモとなる。管楽器が華麗に響き渡る。まったく退屈することなく、第3楽章のメインテーマが繰り返されて、終わる。
〇第4楽章:ここでもワルキューレ的な出だしとなる。ここでなぜか、緩徐楽章となる。不思議な転調がつづき、小休止が繰り返される。やや暗鬱な音楽となる。
4分33秒から5分58秒にかけて、壮大なフィナーレへ突入。悠然と大河を行くがごとき風格があるのにも驚かされる。華やかさと哀切さが交互に繰り返され、絶妙なハーモニーが生み出される。
8分25秒から、ブラームス交響曲第1番の第4楽章にそっくりなメロディーが流れる。ここまでリスペクトされたのに、ブラームスがロットの作品を酷評したのは、やはりある意味彼の存在を脅威に感じたためなのか。
16分33秒より、巨大な壁に立ち向かうような大音量が響き渡る。音楽の理想郷を求める、ハンス・ロットの姿が見えるようである。
18分56秒より、第1楽章の第1主題が繰り返される。さらにメロディは雄大なものになっていく。
そして、22分以降、静かに終わり、この華麗なる交響曲は幕を閉じる。深い森に迷い込んだかのような余韻が漂い、感動を呼ぶ。
・・・ずっと聴いていて、ハンス・ロットの生涯を解説で読んだのだが、明らかに晩年(といっても、この作品を発表した22歳のころのロットだが)のロットは、いわゆる「統合失調症」を発症していたようである。「極度の被害妄想による幻覚症状」があらわれていたというが、この「交響曲第1番」のとびきりの明るさからは、その暗い影は微塵もみえず、不思議な光を放っている。人間の精神のありようと、芸術とのふしぎな関わり合いを知って、深い感慨にとらわれる私である。
私自身、2002年に、実は統合失調症と診断されていた。(現在は、そううつ病と病名が変更となったが、治療は継続中である。)というわけで、パーヴォが今回、ハンス・ロットの世界観をこうした形で広く世に発表してくれることに、深く感謝している。また、パーヴォが私に対して、音楽療法を試みてくれ、私の症状が飛躍的によくなったことにも、深く感謝したい。
私が発病した当初は、劇評等の原稿を読んでみても、かなり切迫し、追い詰められた精神状態の中で書いていた。当時使われていた語彙も甚だ過剰であり、情緒不安定な様子がみてとれる。
しかし、ハンス・ロットにも、私の発病当時の原稿から見ても読み取れるのは、「絶望にみちた絶唱」ではなく、むしろ「明日への希望に満ちた、音楽や演劇へのあくなき理想の追求」であり、「若者の未来への気負い」である。
ハンス・ロットも発病当初、なにかとんでもない、「突発的なこと」があったのではなかろうか?でなければ、ここまで明るく、音楽の未来像を堂々と語れるだろうか。ロットを酷評したブラームスも、ほかの音楽家たちも、ロットのもつ、突き抜けた明朗さと、すがすがしさに、ある意味驚嘆し、「未知なるもの」への脅威を感じたのではないかと、私は思うのである。
ハンス・ロットの作品の評価がとだえていたのは、彼の抱えていた「病気」へのいまわしい<偏見>が、ロットの評価をゆがめていたのではないかと思えるほどである。
が、9日(土)のパーヴォと、川瀬賢太郎、ふたりの優れたマエストロが競演することで、その長い長い呪縛から解き放たれ、ハンス・ロットの音楽が、正当に評価され、さらに演奏の機会が増えることを切に希望するものである。