新・台所太平記 ~桂木 嶺の すこやかな日々~

N響定期会員・桂木嶺の、家族の介護・闘病・就職・独立をめぐる奮戦記を描きます。パーヴォ・ヤルヴィさんへの愛も語ります。

【思い出話、うちあけばなし】なぜ、私が東宝をやめることになったか。(終章)(長文です)

2019-02-09 12:08:46 | 体調のこと。

しかし、実際に、私は髙橋専務へのメールをおくるのをやめることができませんでした。夜中になると、非常に不安感が襲いました。メンタルクリニックからいただいているお薬の中に、眠剤があったのですが、それを飲むと、なんだか気分がへんに高揚して、専務にメールを送りたくなってしまうのでした。

ところが、専務に送ったメールは、情報システム室が自動的に、人事のS重役に転送するように、仕組みを作っていたのでした。すると、S重役が大変立腹して、「ながた!診療所の会議室にきなさい!」といって、長時間にわたって、私を怒鳴り、説教しました。

広報業務にも当然支障をきたし、I総務部長も、Tさんも、「ながたさんはどこへいつもいってるの?」と、きくばかりでしたが、私は当然この二人には事情を打ち明けられませんでした。

家族はといえば、前の夫も、冷たい状態が続きました。髙橋専務と私のことを疑っているようでした。前の夫は、このころから、したたかに酒を飲んで酔って帰宅するようになり、私にときどき暴力を働いたりしました。そして、私は、専務にメールを送ってしまうのでした。地獄でした。

S重役は、ずっと私をどなっていました。私は、彼の怒鳴り声が大変なストレスになりました。ストレスがたまると、薬を飲み、酒をしたたかに飲み、そして、薬のせいで気分が高揚して、また専務にメールを送ってしまうという悪循環が生じました。(これは退職後までずっとつづきました。メールを送らないですむようになったのは、お医者様を変えて、新しい主治医になって、薬を全部変えてからでした。薬の怖さを思い知ったのもこのときでした!)

S重役は、とうとう私にこういいました。「このままでは君を広報室においておくことはできない。異動することも覚悟しておくように」そして、「統合失調症」と書かれた診断書を私に主治医から提出させました。

私は、もうしかたあるまい、と思いました。非常に精神的に疲弊していましたし、I総務部長との確執もうまれていました。I総務部長は私を「髙橋派」とおもって、『宝苑』の編集会議で、私のやることなすことに攻撃をしてきたのです。もう八方ふさがりでした。

そこで、・・次の異動先、NHK大河ドラマの衣装部に異動することになったのでした。私は、「ぜひ興味があるのでやらせてください!」といいましたが、内心、大好きな広報業務から離れ、髙橋専務とお仕事できなくなるのが、悲しくて悲しくて仕方ありませんでした。連日夜、酒を飲み屋で飲んでは泣き、泣いては、酔いつぶれる日々でした。

髙橋専務に、一応私なりにご報告をしました。専務は「そうだったか。辛かったね。ちょっとながたさんとお話しよう」といって、ふたりでお茶をしにいきました。

「ながたさん。今回の人事は、君にとってつらかったと思う。でもね、体調をととのえて、頑張って新しい仕事に取り組んでほしい。僕は君とおなじ39歳のときに、渋東シネタワーの支配人になったのだけど、そのときも曽雌副社長(当時)から、『君、つらくないの?』と言われて、笑顔で『はい、新天地でがんばります!』とこたえて、頑張ったのだよ。君も、周囲には笑顔で答えているから、偉いとおもっているんだよ。だから君もがんばるんだよ」

そう励ましてくださいました。そして、やさしくこうおっしゃいました。

「でも、NHK大河ドラマの衣装部に出向する人事、しかも女性の管理職が行くのは初めてのケースだからね。なにが起こるか、僕も心配なんだよ。だからSに言って、君の立場を、『人事部勤務』にすることにしたよ。」

私は「部勤務!人事部のそんな要職につけていただけるのですか?」とビックリしました。

※部勤務とは、東宝独自の人事の職制です。事実上の次長待遇です。役員、部長に連なる重要なポジションであり、通常は、大変東宝に功績があり、かつ偉い方がなるポジションでした。

※それを当時弱冠39歳だった私が「部勤務」になるということは、異例中の異例、女性社員としては大抜擢の人事だったのです!全社はもちろん、映画業界でも大変話題になったくらい、この髙橋専務の人事構想は画期的なものでした!

髙橋専務は静かに答えました。「そう。つまり人事担当役員でもある僕、そしてその下には、S(部長兼任の役員でした)、そして、すぐ下は部勤務の君というわけで、次長のBは君の下の職制にする。Bは君より先輩だがね。(Bさんはその後、東宝の人事担当役員になりました)東宝コスチュームの社長のK君も、君の下に置く。そうすれば、なにか困ったとき、すぐ僕に直接、君が報告できるだろう?そうすれば、君も悩まずに、安心してNHK大河ドラマの衣装部で働けるだろうと思う。・・・しばしの辛抱だが、がまんできるかね?」

私は笑顔で答えました。「ハイ、サラリーマンはがまんが必要で、時間を待つことが大切なのですね」

髙橋専務は初めてニッコリしました。「そうだよ。僕もそうやって我慢したけど、なんとかここまでたどり着いた。君もまだまだ東宝人生長いのだから、がんばって!」

私は「ハイ!」と元気よくお返事をしました。髙橋専務の目に涙がきらりと光ったのを、私はみてビックリしたのでした。

髙橋専務がおっしゃいました。

「みんな、ながたさんみたいな社員ばかりだといいのだけどね・・」

・・・・そして、歓送迎会で、私は笑顔で髙橋専務や総務部のみなさんに見送られ、NHK大河ドラマの衣装部に出向にいったのでした。でも、最後は花束贈呈をされて、やっぱり泣いてしまって・・・。髙橋専務も、ずっと涙をこらえているようでした。

そして、いろいろあって、2010年8月に、私は結局、療養休職を命ぜられ、休職期間満了に伴い、東宝を退職しました。

でも「篤姫」や「坂の上の雲」「風林火山」といった名作に携わることができ、最後は幸せな東宝マン人生だったと思います。

その後・・。髙橋専務のことは、私はすっかり忘れて、毎日を楽しく生きておりました。

髙橋専務とは、1年前、ばったり、東銀座の歌舞伎座近くでお会いしました。髙橋専務は、現在、東宝サービスセンターの社長として活躍され、「午前十時の映画祭」のプロデューサーとしても大活躍。すっかりロマンスグレーになり、すこしやせられたようでしたが、万年映画青年としての颯爽とした様子は変わりありませんでした。

※向かって左側が髙橋昌治・元東宝㈱専務取締役。右は盟友・中川敬さん。

※中央が髙橋昌治、元専務(現・東宝サービスセンター社長)。向かって左が武田和プロデューサー(現・川喜多財団)。

「ながたさん!元気なの!?」ととっても嬉しそうに私と話をしてくださいました。もうわたしから話しかけても全然大丈夫でしたし、専務にメールをお送りすることはなくなりました。

「どっこい、僕もなんとか生きてるよ!とても元気そうだね!安心したよ!」と満面の笑顔。専務時代はきっととても大変だった思うのですが、いまは、また大好きな興行マン人生を歩めて幸せそうでした。

私が、劇評活動も充実していたり、「実はNHK交響楽団の首席指揮者の、パーヴォ・ヤルヴィさんと知り合いになったんですよ」とお話したら、専務はクラシックも大好きなので、「ほんとなの?!すごいじゃない!やっぱりながたさんは、すごい人脈をもってるね!さすがだね!」と、自分のことのように喜んでくださいました。

「僕は君に『サラリーマンはがまんしろ』と偉そうにいったけれど、ながたさんは、やっぱり自分で自由に羽ばたいて、評論活動や表現活動に邁進したほうがいいんだな。僕は応援しているよ!」と笑顔で話してくださり、本当にうれしかったです。

東宝人生で、最も私が影響を受け、尊敬申し上げ、信頼申し上げているのは、やはり髙橋専務です。実直であり、東宝一の紳士であり、つねに誠実であり、映画と演劇をこよなく愛し、仕事をこよなく愛しておられるからです。その人生に対する姿勢は、本当にすばらしいと思いますし、私が「にぃにぃ」とあだなをつけたら、大変によろこんでくださったのですが、やさしいお兄さんのような若々しさをもつ、髙橋専務、いつまでもお元気でいていただきたいと思います!

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いま、私は長い長い、東宝の思い出話を書き綴りました。19年間にわたる会社員人生でしたが、いまは、一点の曇りも、悔いもありません。大変な経験もしたけれど、全部自分の血となり肉となり、パーヴォや、NHK交響楽団のみなさんといった、新しい出会いへのきっかけになったと思い、いまでは出会った皆さんに感謝しています。

体調もよくなってきたし、これからも、希望をすてず、前だけを見て、自分の経てきた道に、闘病体験も自分の糧にして、頑張って生きていきたいと思います。

そのきっかけを作ってくださった、大好きなパーヴォに心から感謝します!

彼は最初に私に逢ったとき、私の病気に偏見をもたずに、「勇気をもつんだよ、チコ!」とはげましてくださったからです。そして、おなじく私の病気に、偏見をもつことなく、果敢に立ち向かってくださった髙橋専務、NHK交響楽団のみなさま、両親、前の夫、東宝のみなさん、出会った友達すべてに感謝したいと思っています!

 

 



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