新・台所太平記 ~桂木 嶺の すこやかな日々~

N響定期会員・桂木嶺の、家族の介護・闘病・就職・独立をめぐる奮戦記を描きます。パーヴォ・ヤルヴィさんへの愛も語ります。

【思い出話、うちあけばなし】東宝 松岡功名誉会長の思い出(その1)。(感謝!)

2019-02-09 12:04:02 | とにかくVIPの思い出(^_-)-☆

私の「思い出話、うちあけばなし」、さまざまなご反響をいただいており、感謝しております。きのうの夜中にアップしたのですが、大変なアクセス数をいただき、このブログをご来訪いただいたみなさまに、本当に感謝申し上げます。

母にも、(その3)まで読んでもらいました。母にも、父にも、私のこの東宝を退社する件に関しては、本当に心配をかけ、苦労をかけてしまいました。また離婚したとはいえ、前の夫にも大変な思いをさせ、東宝の人事との交渉の窓口に立ってもらったので、家族の愛情と結束力をあらためて思い出し、感謝している次第です。

きょうは、やはり、(いままでだまっていましがが)この方との思い出話をきちんと話し、心の整理をしたいと思います。

松岡功(まつおか・いさお)東宝㈱名誉会長の思い出話です。

松岡名誉会長(以下、松岡会長としてお話をさせていただきます)は、まさに東宝の中興の祖であり、いまもなお、映画界・演劇界に大きな影響力をほこり、日本を代表する映画人であり、演劇人であり、まさに日本の実業界における「巨人」であります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E5%8A%9F

(Wikipedia より)

私が松岡会長のことを知ったのは、6歳のとき。帝国劇場に、母と祖母に連れられて、上月晃さん・宝田明さん主演の「風と共に去りぬ・第1部」を観劇したときのことでした。母がプログラムを買ってくれまして、そのときのプログラムの冒頭に、当時東宝の社長になられたばかりの、松岡会長が写真を載せ、一文を掲載されておられました。幼心に、その印象は大変鮮烈で、繰り返し、繰り返し、そのプログラムの文章を読み、「こんなにすばらしい舞台をつくったのは、この松岡功というひとなのか」と思いながら、想いを馳せておりました。

その後も、帝劇に幾度もお小遣いをためて観劇に行くたびに、松岡会長のプログラムのお言葉があったので、私はいつしか、まだ見ぬ松岡会長に親しみをおぼえるようになりました。まさか自分が十数年後、実際に東宝で働くことになろうとは思わずに・・・。

時は1990年夏にさかのぼります。22歳、立教大学の4年生だった私は、猛暑の中、連日就職活動に明け暮れておりました。時はバブル時代で、幾社か内定を頂いておりましたが、やはり、映画製作への想いは強く、東宝を第一志望として回っておりました。おかげさまで、最終試験まで進み、とうとう役員面接に至ることになりました。

東宝の旧本社の9階に、役員用の大会議室はありました。私達就職活動をする学生は、その隣にある、秘書室の打ち合わせ室に待機し、一人一人呼ばれて、役員のみなさまの面接を受けることになりました。私は、とても緊張していましたが、同期(のちにみな同期として入社しました)たちがワイワイとたのしくおしゃべりしていたので、比較的リラックスして過ごせました。

秘書室のM女史(のちに総務部勤務。女性初の秘書室長となる)が「あらきさん(私の旧姓です)、どうぞ次の面接にお入りください」とにこやかに声をかけてくださり、私は緊張しながら、ドアをノックしました。

「どうぞ。お入りください」と関西なまりの大きな声がきこえたので、ドアをあけると、そこには、ずらり!!!!と東宝の当時の役員の方々が居並んでました。私が就職活動でお世話になった、林芳信さん(のちに副社長。最後は顧問。故人)がむかって右端のほうで、ニコニコしながら「おーい、そこの威勢のいいの。覚えてるかい?」といったので、私は「ぎゃぁ~っ!!!この人、こんなに偉い人だったんだ!」と仰天しました。

※この方が、私の大変お世話になった恩人・林芳信 元東宝㈱顧問(スタジオ担当役員、人事・労政担当副社長を経て最後は顧問。故人)です。大変豪放な方でしたが、とてもやさしい方でいらっしゃいました。

というのも、話が横道にそれますが、最初に、東宝スタジオに行ったときに、就職活動で、立教の先輩ということでお目にかかったのが、林さんでした。私は東宝スタジオの担当役員であった彼に、大変とんでもない啖呵を切ってしまっていたのでした。

「東宝はねぇ、そんなにいま、映画をつくってないのだよ、あらきさん。君がいう緒形拳さんの映画『MISHIMA』だって、右翼が反対して、公開中止になってしまったしね。映画製作というのは難しいものなんだよ」

という林さんに向かって、

「林さん、そんなことでいいんですか!緒形拳さんはいまだにお怒りです!それに、右翼がこわくて映画が作れますか!日本映画はもっと世界戦略を練るべきです!」と大変な大見得を切ってしまった私だったのでした。

この言葉は、林さんが大変私を印象深く思ったそうで、以降、どの部署にいっても、偉い方から、「ながたさんは、右翼をもおそれない、まさに男勝りの豪傑だな。女性ながら、大変たのもしいね!」と言われた由縁でした。

・・・実際の私は、いたって気が小さくて、右翼の人なんて怖くてお話できないし、ましてや、啖呵なんて切れなかったのですが、若さゆえの放言なので、みなさまどうぞ、この言葉は忘れていただいて、お許しいただきたいと思います。

さて、林さんがニコニコしながら私に手を振ったのですが、私はもう万事休す、と思い込みました。林さんにと初対面のくせに、とんでもないことを言ってしまったし、こりゃもう駄目だ!と観念しました。あとは野となれ山となれ、といった心境になりました。

中央に座ったのは、松岡さんです。松岡さんは眼鏡の奥の目が大変大きく、ぎろりとし、顔も体格も大変大きく立派で、プログラムの写真などより、ずっとずっと迫力のある風貌でした。私は思わず内心「きゃぁぁぁ~っ、本物の松岡功さんだ!!!!」と叫びました。

松岡さんは、くりくりと、私の書いた履歴書をめくりながら、丹念にごらんになりました。そしてよく通るあの大きな声でこうおっしゃいました。

「あらきさんは、なんで秘書検定3級の資格をおもちなんでっか?」

私は松岡さんが意外なところをごらんになったので、ビックリしました。3次面接までの威勢のよさはどこへやら、すっかり借りてきた猫になっていました。

「一応・・・就職のときに役立つかとおもったのです。備えあれば憂いなしで」

と申し上げたら、松岡さんは、「わっはっはっは」と豪快に笑いました。

「そうでっか。ではもうひとつ質問をします。

・・あらきさんは、趣味が『似顔絵描き』となっていますが、これまたなんででっか?」

役員のひとたちが、みんなかんらかんらと豪傑笑いをしました。みんな、そういう意味では真の「カツドウ屋」ばかりだったのでした!私は、顔を真っ赤にしましたが、とっさにこう答えました。

「あ、いろいろな人の似顔絵を描くのが得意なんです。もしよかったら、社長(当時は松岡さんは社長でいらっしゃいました)の似顔絵も、描いて差し上げます!」

とびきりの笑顔で答えると、松岡さんと、役員の方々は「わーっはっはっはっは!」と大爆笑されました!

「そうでっか。ではいつかあなたに僕の似顔絵、描いてもらいまひょ。ごくろうさんでした。面接はこれで終わりです」

と松岡さんがニコニコしながらおっしゃったので、私は、「こりゃダメだぁ~💦💦」と、半分すっかりしょげて、役員会議室を出たのでした。

帰宅して母に、「もうダメだと思う~😢」とぼやきまくり、当時交際していた前の夫にも電話をし、「東宝、落ちたかもしれない。就職の相談にのってくれたのに、ごめんね~💦」と嘆いていました。すると、東宝の人事のSさん(先述の人事担当役員。当時は人事課長。のちに東宝舞台社長になり、最後は監査役を務められ、退職されました)から電話がかかってきました。

「おめでとう、あらきさん。あなたは内定がでましたよ!8月に東宝本社にどうぞお越しくださいね!」

私はビックリしました。たったあれだけで、なんで内定が出たんだろう?!ともあれ、無事に私は東宝マンとしての道を歩み始めることになったのでした。

(つづく)

 

 



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