ちーろぐ

今日の出逢いに感謝を込めて

明けましておめでとうございます。

2007-01-01 11:53:17 | つれづれに
新年 明けましておめでとうございます



晴天の青空をのぞむ、素晴らしい新年を迎えました。
心晴れ晴れ!そんな風に深呼吸したくなるような
朝です。

まさしく今日は生まれいずる者の喜びに満ちた朝でした。

今年は亥の年、目標に向かってまっしぐらに
突き進むパワーをもって、今与えられたこの時を大切に
過ごしたいと思います。

皆様にはこれからも変わらぬご支援をいただきますよう
お願い申し上げます。

どうぞ、よいお正月をお過ごし下さいませ。

  

今日は母が作ってくれたおせちを家族みんなで頂きました。

一年の感謝を込めて

2006-12-31 23:48:36 | つれづれに
ちーろぐをご覧頂いた皆様、いよいよ迫った年の瀬
いかがお過ごしでしょうか?

6月にブログを開設して約半年、多くの方々との出逢い
を頂きながら、皆様に励まして頂きましたこと心から
感謝申し上げます。

自分の思いが言葉となって、私から離れたとたんに
誰かを傷つけたり、不快な思いを抱かせてしまっては
いやしないかと、不安でしかたありませんでした。

そんな不躾な私の言葉を受け止め、時にたしなめ、
時に励ましご愛読いただきましたこと、ほんとうに
ありがたく思っています。

来年は私にとって、勝負の年となりそうです。
大きく私の環境が変化するように感じています。

だからこそ、今まで以上に本質を見極め、根をはる
生き方を目指したいと思っています。

心からの感謝とともに、皆様の新しい年が恵み豊かな
年となられますよう心からお祈り申し上げます。



司馬遼太郎『二十一世紀に生きる君たちへ』その2

2006-12-30 13:42:43 | つれづれに
もし、私が未来の町角で、司馬遼太郎に出逢うことが出来たなら、
「司馬さん、あなたが導かれた未来の今をお話したいと
 思います。」
と言い、その後に何を言うだろうか、と考えました。

一人一人が、自分の損得を超えうる『自己』を確立し
それぞれの輝かしい未来のために、懸命に生きています!

このように答えられるか、と思うと途端にひっかかりを
覚えてしまいました。
もちろん他人にではありません。自分自身にです。

今年一年を振返っても、
 裏金事件、虚偽、殺人、虐待、いじめ、横領、脱税・・・
司馬遼太郎が、生涯書き綴った作品のテーマには、
到底ありえなっかた現実が、絶え間なく起こりました。

歴史小説を描きながら、2000年の時の中で、歴史上の人物と
時空を超えて、会話を交わした司馬遼太郎の世界で、
司馬氏自身が確立した『自己』。。。

それは、与えられた時を定めて生かされた人間が、
「いかに生きるか。」ということと
「何を残し、伝えうることが出来るか」
であったようにも思います。

司馬遼太郎が思い描いた「未来」で私は、どう生きるか。
また、多くの先人達が見つめ、託した「未来」に生きる
私自身が、またさらなる『未来』へ何を残せるのだろうか?

絶え間なく続く、時間の中で、この瞬間に生きる。
これに尽きるのではないか。と、やはり思うのです。

あれやこれやと理屈を並べ立てて、言葉を尽くしても
虚しいのは、私のあり方、生き様が空虚であるからなのです。

私という与えられた器に、ゆるぎない『自己』を注ぎ
いかなる時も選択は、己の損得を超えうる者になりたいと、
改めて願い、決意をしました。

小学6年生の子供たちに語ろうと、司馬遼太郎自身が、
書きながら心が高揚したのを感じます。

素晴らしいメッセージに心から感謝です。

司馬遼太郎『二十一世紀に生きる君たちへ』より

2006-12-29 02:53:36 | つれづれに
以前この文書の一節を耳にしました。

心に深く染み入るよな文体に静かな感動を覚えました。
今日ようやくその全文が収められた本に出逢いました。

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『二十一世紀に生きる君たちへ』 司馬 遼太郎


 私は、歴史小説を書いてきた。
 もともと歴史が好きなのである。両親を愛するようにし
て、歴史を愛している。
 歴史とはなんでしょう、と聞かれるとき、
「それは、大きな世界です。かつて存在した何億という人生
がそこにつめこまれている世界なのです。」
と、答えることにしている。
 私には、幸い、この世にたくさんのすばらしい友人がい
る。

 歴史の中にもいる。そこには、この世では求めがたいほど
にすばらしい人たちがいて、私の日常を、はげましたり、な
ぐさめたりしてくれているのである。
 だから、私は少なくとも二千年以上の時間の中を、生きて
いるようなものだと思っている。この楽しさはーーもし君た
ちさえそう望むなら ー おすそ分けしてあげたいほどであ
る。

 ただ、さびしく思うことがある。
 私が持っていなくて、君たちだけが持っている大きなもの
がある。未来というものである。
 私の人生は、すでに持ち時間が少ない。例えば、二十一世
紀というものを見ることができないにちがいない。
 君たちは、ちがう。
 二十一世紀をたっぷり見ることができるばかりか、そのか
がやかしいにない手でもでもある。

 もし「未来」という町角で、私が君たちを呼びとめること
ができたら、どんなにいいだろう。
「田中君、ちょっとうかがいますが、あなたが今歩いている
二十一世紀とは、どんな世の中でしょう。」
 そのように質問して、君たちに教えてもらいたいのだが、
ただ残念にも、その「未来」という町角には、私はもういな
い。
 だから、君たちと話ができるのは、今のうちだということ
である。

 もっとも、私には二十一世紀のことなど、とても予測でき
ない。
 ただ、私に言えることがある。それは、歴史から学んだ人
間の生き方の基本的なことでもある。

 昔も今も、また未来においても変わらないことがある。そ
こに空気と水、それに土などという自然があって、人間や他
の動植物、さらに微生物にいたるまでもが、それに依存しつ
つ生きているということである。
 自然こそ不変の価値なのである。なぜならば、人間は空気
を吸うことなくいきることができないし、水分をとることが
なければ、かわいて死んでしまう。 
 さて、自然という「不変のもの」を基準において、人間の
ことを考えてみたい。
 人間は、- ぐり返すようだが- 自然によって生かされ
てきた。古代でも中世でも自然こそ神々であるとした。この
ことは、少しも誤っていないのである。歴史の中の人々は、
自然をおそれ、その力をあがめ、自分たちの上にあるものと
して身をつつしんできた。
この態度は、近代や現代に入って少しゆらいだ。
ーー人間こそ、いちばんえらい存在だ。という思いあがった
考えが頭をもたげた。二十一世紀という現代は、ある意味で
は、自然へのおそれがうすくなった時代といっていい。

 同時に、人間は決しいておろかではない。思い上がるとい
うこととはおよそ逆のこともあわせ考えた。つまり、私ども
人間とは自然の一部にすぎない、というすなおな考えである。
 このことは、古代の賢者も考えたし、また十九世紀の医学
もそのように考えた。ある意味では、平凡な事実にすぎない
このことを、二十一世紀の科学は、科学の事実として、人々
の前にくりひろげてみせた。
 二十一世紀末の人間たちは、このことを知ることによって、
古代や中世に神をおそれたように、再び自然をおそれるよう
になった。
 おそらく、自然に対していばりかえっていた時代は、二十一
世紀に近づくにつれて、終わっていくにちがいない。

「人間は、自分で生きているのではなく、大きな存在によっ
て生かされている。」
と、中世の人々は、ヨーロッパにおいても東洋においても、
そのようにへりくだって考えていた。
 この考えは、近代に入ってゆらいだとはいえ、右に述べた
ように、近ごろ再び、人間たちはこのよき思想を取りもどし
つつあるように思われる。
 この自然へのすなおな態度こそ、二十一世紀への希望であ
り、君たちへの期待でもある。そういうすなおさを君たちが
持ち、その気分をひろめてほしいのである。
 そうなれば、二十一世の人間は、よりいっそう自然を尊敬
することになるだろう。そして、自然の一部である人間どう
しについても、前世紀にもまして尊敬し合うようになるのに
ちがいない。そのようになることが、君たちへの私の期待で
もある。

 さて、君たち自身のことである。
 君たちは、いつの時代でもそうであったように、自己を確
立せねばならない。
 -自分に厳しく、相手にはやさしく。
という自己を。

 そして、すなおでかしこい自己を。
 二十一世紀においては、特にそのことが重要である。
 二十一世紀にあっては、科学と技術がもっと発達するだろ
う。科学・技術が、こう水のように人間をのみこんでしまっ
てはならない。川の水を正しく流すように、君たちのしっか
りした自己が、科学と技術を支配し、よい方向に持っていっ
てほしいのである。
 右において、私は「自己」ということをしきりに言った。
自己といっても、自己中心におちいってはならない。
 人間は、助け合って生きているのである。
 私は、人という文字を見るとき、しばしば感動する。なな
めの画がたがいに支え合って、構成されているのである。
 そのことでも分かるように、人間は、社会をつくって生き
ている。社会とは、支え合う仕組みということである。
 原始時代の社会は小さかった。家族を中心とした社会だっ
た。それがしだいに大きな社会になり、今は、国家と世界と
いう社会をつくり、たがいに助け合いながら生きているので
ある。
 自然物としての人間は、決して孤立して生きられるように
はつくられていない。

 このため、助け合う、ということが、人間にとって、大き
な道徳になっている。
 助け合うという気持ちや行動のもとのもとは、いたわりと
いう感情である。
 他人の痛みを感じることと言ってもいい。
 やさしさと、言いかえてもいい。
「いたわり」
「他人の痛みを感じること」
「やさしさ」
 みな似たような言葉である。
 この三つの言葉は、もともとひとつの根から出ているので
ある。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけなければ
ならないのである。
 その訓練とは、簡単なことである。例えば、友だちころぶ。
ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、そのつど自分の中
でつくりあげていきさえすればよい。
 この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば
他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。
 君たちさえ、そういう自己をつくっていけば、二十一世紀
は人類が仲よしで暮らせる時代になるにちがいない。

 鎌倉時代の武士たちは、
「たのもしさ」
ということを、たいせつにしてきた。人間は、いつの時代で
もたのもしい人格を持たねばならない。人間というのは、男
女とも、たのもしくない人格にみりょくを感じないのである。
 もう一度くり返そう。さきに私は自己を確立せよ、と言っ
た。自分に厳しく相手にはやさしく、とも言った。いたわり
という言葉も使った。それらを訓練せよとも言った。それら
を訓練することで、自己が確率されていくのである。そして
‘たのもしい君たち‘になっていくのである。

 以上のことは、いつの時代になっても、人間が生きていく
うえで、欠かすことができない心がまえというものである。
 君たち。君たちはつねに晴れあがった空のように、たかだ
かとした心を持たねばならない。 
 同時に、ずっしりとたくましい足どりで、大地をふみしめ
つつ歩かねばならない。
 私は、君たちの心の中の最も美しいものを見続けながら、
以上のことを書いた。
 書き終わって、君たちの未来が、真夏の太陽のようにかが
やいているように感じた。

         (「小学国語六年下」大阪書籍)


大変ご無沙汰してしまい・・・

2006-12-27 23:14:33 | つれづれに
毎日継続を目指してブログを始めて、最初の関門がありました。
日々の仕事に追われ、風邪をひき、更新できない・・・

『継続こそ力なり』

この言葉の重みを、つくづくと感じた日々でした。

継続のコツは、とにかく貯めないこと。
このように教えていただいたことの真実をかみ締めています。

人間のあり様、生活、思い全てが常ならぬ。。。
まさに『無常』の世界のなかで、常になし続けることの険しさを
思っています。

にもかかわらず、毎日多数の方々がちーろぐにアクセス頂いて
おりましたこと、心から感謝申し上げます。

ちょっと(いや、かなり)振返りバージョンになりますが、
戻りつつ書かせて頂きたいと思っています。

ノロウイルスに風邪が大変流行っているとのこと、
皆様くれぐれもお体ご自愛くださいますようお願い申し上げます。






「奇跡やん!!」

2006-12-26 14:55:56 | つれづれに
児童福祉施設の先生が弊社においで下さいました。
昔からいろんなご縁で、長年お付き合いを頂いています。

私はこちらの先生方から、折に触れ、児童施設にやってくる
子ども達のお話をうかがいます。(もちろん匿名です)
3歳から18歳までが生活する施設。
そこで生活する子ども達が、背負ったものの大きさ、悲しさは
一言では語れません。

自分が背負ったものがどれほどのものであるかも、分からずに
懸命に生きる子ども達に、少しでもお役に立てたらと思い
学生時代、中学生の受験勉強のお手伝いをさせていただいて
いました。

義務教育を終えて、公立高校に入学できなければ、
彼らは施設での生活が出来なくなり、すぐさま社会に出なければ
ならないからです。
 何とか、高校に合格してほしい。私に出来る応援でした。
それでも、不合格と言う現実が突きつけられる事もしばしばでした。

このような過酷な現実は、今も変わりません。
さらに最近では、やってくるほとんどの子どもが虐待を経験
しているのですから、心が乾き、すさんだ子どもと向き合う日々
であると教えてくれました。

しかし、先生はいつもどんな場面でも、「奇跡」を探している
と仰いました。

それまでふくれっつらで、職員に心を開かなかった子どもが
おはようの挨拶でふと笑顔を見せたとき、先生は
「奇跡や~!!」と思うのだそうです。

そして、そんな小さな奇跡がそこら中に生まれると、信じている。
と熱く語っておられました。

当たり前に受けられるはずの親からの愛情を、受けられずに来た
しかし、愛情は別の形で与え続けられたことに気づけたら
「奇跡」は起こる。
だから、与え続ける。

この決意にも似た先生のあり方が、いつの日か子ども達の未来を
照らす光になると思いました。


『困難ひとまたぎの術』伝授

2006-12-25 14:38:51 | つれづれに
名づけて秘伝『困難ひとまたぎの術』

これは、青年塾の先輩山本さんがご自身のブログに書かれて
いたものです。
あまりにも、明快で豪快なので、私も伝授していただきました。

「人間、生きていたら必ず困難に出あう」
困難に出あった人間が、いかにそれを乗り越えるか。

これは、生きている中では最大にして、最難関の問いであると
いえると思います。
しかし、この難問を山本さんは、『困難ひとまたぎの術』で
乗り越えよと教えてくれたのでした。

この秘伝の奥義は、まず困難を当たり前のこととして受け入れよ
と言う事なのです。
そして、起こったまた、降りかかった困難をひらりとかわして
とにかく「先へ行け」というものです。
 言うならば、『起こったものは仕方ない、さっさと反省して
非は非として認めて、あまり掘り下げたりせずに、次に行くべし。』
との術です。

一見、無責任であるように見えて、過去に起こった困難に当てはめて
考えて見ると、結局、私が立ち直る事が出来た瞬間は、
「まぁ、これは私のここも悪かった。
 だから、仕方がない事だ。次はそうならないようにしよう」
と、自分自身のわだかまりを、払拭できたときである事を思い出します。

「何で、あかんかったんやろう・・・」
「あの人、わっかてくれへんかった・・・」

などと掘り下げるだけ掘り下げてみても、つまりは、自分以外に
責任があった事にしたいだけの、責任転嫁なのです。

言いかえれば「わが身に起こる一切の負は我にあり」

こう腹を据えるしか、ない。
この事を秘伝『困難ひとまたぎの術』は教えてくれました。

心が軽くなる秘伝!どなたでも伝授可だそうです。

クリスマス礼拝

2006-12-24 20:20:32 | つれづれに
街はまさにクリスマスイブ。
教会では、クリスマス礼拝が行われました。

クリスマスクランツに4本のろうそくが灯り、
厳かな緊張感の中に喜びを湛えたクリスマスの礼拝。



今年はお一人の方が、「洗礼」を受けられました。

聞きなれない言葉かもしれません。
「洗礼」とは、罪ある人間がキリストの十字架によって罪赦された
 ことを信じる信仰を受け入れたことを証する儀式です。

私の教会では、『浸礼』(しんれい)と言われる方法で
受洗者の頭に牧師先生が、3回水を浸した手を置かれます。

キリストによる救いは、私達のいかなる良い行いによるのではなく、
ただただ神の恵みによると信じられています。
だから、人間の行いが虚しいのではありません。

人間がどんなに拭おうとしても、拭いきれない罪の姿を
受け止め、赦しを与えたもう神により、人間が無限の可能性を
もって生きることができる。
ここに真の輝きが生まれると、そんな思いを抱きました。


今年は、24日が日曜日であったため夜の燭火礼拝も同日に行われました。


【浜寺教会のイルミネーション】


発想を広げること

2006-12-17 18:29:40 | つれづれに
問題に直面した時、また新たな提案を求められた時
その解決方法や、新規提案を生み出すのに、
『発想を広げて』『フレームをはずして』と言うのは
簡単なことです。

しかし、いかにすれば・・・というところから抜け出せない
のが現実ではないでしょうか?

そんな時いつも思い浮かべることをご紹介したいと
思います。



この9つの点を4本の線で全て通過出来るように作図してみると。。

これは、いかに発想を生み出すかという例として
リッツカールトン日本支社長の高野社長に教えて頂いたものです。

答えはこれです。


9つの点の枠を飛び越えたところに、ある一点を見出す
のだそうです。
そうすれば、難なくたった4本という限られた手段で
問題をクリアすることが出来る。

私は目からうろこが落ちるような思いで、このことを
伺いました。
この枠を超えたところ=これこそ与えられた問題の本質
であると思うと、軸からぶれずに考えられると教えて
頂きました。

迷路の中に迷い込んだように思っても、その中に解決の道が
有るのではなく、本質にこそ解決の光があることを肝に銘じ
ておきたいと思いました。

今年の漢字は『命』

2006-12-13 21:58:57 | つれづれに
平成18年の世相を象徴する「今年の漢字」に『命』に決まりました。
京都清水寺で書きおさめられたこの一文字に込められた思いは、
 秋篠宮家の長男、悠仁(ひさひと)さまが誕生した一方、
いじめによる自殺、虐待など痛ましい事件も相次いだことから
「一つしかない命の重み、大切さを痛感した」ことがらであった
とのことです。



私は住職の手から描き出される文字を見て、筆が含んだ墨が
滴り落ちる様子に、『命』が人間に与えられ、「生きる」中に
流される汗と涙を思わずにはいられませんでした。

命与えられた者が生きるには、時に世間は冷たい風を浴びせ
暗黒の闇に引きずり込むかのような試練を課します。
その辛さに耐えかねて、希望を失い、道をはずすこともあります。

でも、その苦しみの最中にも命ある者が救いとなる言葉を伝え
心暖められることもあるのですから、不思議です。

『命』が他の『命』を傷つけたり、軽んじたりすることのないように
願わくは、『命』が『命』を支えることを祈ります。