真似屋南面堂はね~述而不作

まねやなんめんどう。創業(屋号命名)1993年頃。開店2008年。長年のサラリーマン生活に区切り。述べて作らず

内田「おじさん」的思考(2002年)&期間限定の思想―「おじさん」的思考〈2〉(同)から話は・・

2010-10-18 | 読書-エッセイ/小説etc
「おじさん」的思考
内田 樹【著】
晶文社 (2002/04/10 出版)

内田樹を読む(というサイトがあったのね)
「おじさん」的思考

期間限定の思想―「おじさん」的思考〈2〉
内田 樹【著】
晶文社 (2002/11/10 出版)

期間限定の思想 「おじさん」的思考〈2〉

仮に、「おじ的」、「おじ2」と略すとすれば(ナヌ?)、「おじ的」は
Sauve qui peut (ソーヴ・キ・プと読むんですか)
が見ておきたくて借りたもの。

「おじ2」は、「続編もあったのか」と知り、勢いで借りてみたもの。

背中が死んでいる人びと
前半は、以下にリンクするキリスト者であるという方が書き写しておられたのを発見。

ヒソカさん
「背中の死んでいる人」困難な時代を生きるために

うーん、どうなんでしょう。
内田氏は、「自分がweb上で公開している文章は著作権フリーとする。引用に限らず"自分の文章だ"といって使っても構わない・・・」と繰り返しておられるが、真に受けて実行するヒト発見?
上記ではどこが内田氏の文章の引用なんだか、どこからがご本人のご意見なんだか、見分けがつかないのは少なくとも困るぞ。
著者は許しても読者は許さん?

<閑話休題>
元の(内田氏の)文では、「男が外へ出れば七人の敵がいる」の間に、昔の人は背中に家紋を背負っていたので、それに恥じない行動をしようとの意識があったと指摘。
さらに、帯刀する武士の場合は、刀の鞘の先端にまで意識が行き届いている必要があった、と。

・・だから、私が街を歩いていて、「背中が死んでいる」という感じがする人は、おそらく年齢性別にかかわりなく、「大人」になる仕方を学ばずに来た人々なのである、と結ぶ。

わあ!よくぞ言ってくれましたという感じ。
通勤などで痛感するのは、後ろに全く意識がないヒトが如何に多いかということ。

リュック類(デイパック等)を背負ったまま電車に乗ることや、傘の先を後方に勢い良く振り出しながら駅の階段を昇る者などは論外であることはいうまでもない。
傘の持ち方がなっとらん!

この手を見るつど、彼ら/彼女らは「ジブンらはサムライの出ではありません」とアピールしているのだな・・・と思うことにしている。
そんなに懸命にアピールしなくても、皆分かっているよ。

幼稚園の砂場で何も学んでこなかった連中というほかない。

さらに、肩に鞄をかけている場合にも、横方向から見ると体前面には鞄が飛び出ていないが、背中方向には尖った鞄の端を20~30cmも突き出して狭い車内で突っ立っていたり、甚だしきはその体勢でくるりと180度転回したりする者が普通に見られる。
軌道間は広目だが車体は狭い地下鉄などでは最悪だ。

これらは皆、「背中が死んでいる」者たちであろう。

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