CELLOLOGUE

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大日方純夫著『唱歌「蛍の光」と帝国日本』を読んで

2023年08月15日 | 折々の読書


「蛍の光」は小学生の頃歌った記憶があります。中学では「仰げば尊し」だったか、その逆だったか記憶は定かでありません。いずれにせよ、両者ともに歌詞が異常に古文調で意味不明のまま卒業し現在に至っています。
「蛍の光」がスコットランド民謡であることは後になって知りました。卒業式の歌というよりも閉店の曲、船を下りる時にスピーカーから大音量で流れる曲という印象の方が強いです。
それはともかく。
今も親しまれている「唱歌」の中でも有名な「蛍の光」は、いくつかある唱歌の系統の中では外国産の曲に入ります。スコットランド民謡が原曲で、ロバート・ジョーンズが現地で採譜したものをジョージ・トムソンという出版者が改作し、1799年にスコットランド歌曲集の1曲として出版したとのこと。(当時、スコットランド・ブームであったらしく、ベートーベンも数曲を編曲していることはよく知られています。)
そして、この後、"Auld Lang Syne"は形を変えながら世界に広がっていくことになります。
新しく教育を行うことになった明治政府は、初めての西洋音楽の取扱に難渋し、1879年(明治10)文部省に音楽取調掛を設けました。中心になったのはアメリカ留学後、東京師範学校長になっていた伊澤修二で、早速、文部省と連携し、唱歌の作成に邁進します。

しかし、そこは手探りの時代、初めての国家、初めての軍隊、初めての音楽教育ですから、すんなりとは行かず、日本語歌詞はなかなか稟議がおりません。それもそのはず、富国強兵、忠君愛国に添う文言でなければ国が承知しません。教育とは強い国民を作り、強い軍隊を作り上げることでした。
1882年(明治15)4月に「蛍の光」はようやく、日の目を見ます。
歴史が示すとおり、日本は日清、日露戦争、そして太平洋戦争と帝国主義を強めていきました。今はない、歌詞の3、4番は日本の版図を歌い込んで、その広さを誇るもので、「九州から東北」が植民地増加に伴って「千島、沖縄」、そして「台湾、樺太」へと拡大していきます。その度に歌詞を改訂しなければなりませんでした。
また、植民地でも唱歌教育がそのまま行われました。台湾で唱歌教育を指導したのは、台湾総督府の学務部長となった伊澤修二でした。

ところが、太平洋戦争後期になると敵国の歌であると音楽界からも批判の声が上がり、1943年(昭和18)には蛍の光から愛国的な別の歌に変更されてしまいます。
外国の民謡をルーツに持ちながら、軍国主義に寄り添う歌となり、帝国の男子を育成すべく用いられた「蛍の光」が行き着いた先は昭和20年8月15日でした。
この本では、唱歌「蛍の光」の日本への移植と、その後の日本が歩んだ歴史の中で変化していく「蛍の光」が丁寧に説明されています。長く慣れ親しんでいる蛍の光ですが、また別の顔を覗いた気がしました。

大日方純夫著『唱歌「蛍の光」と帝国日本』(歴史文化ライブラリー558)吉川弘文館、2022年10月刊.

(ご参考)
蛍の光(ウィキペディア)
伊澤修二(ウィキペディア)
音楽取調掛(ウィキペディア)



スコットランドの雰囲気がよく伝わる動画です。
Auld Lang Syne | Highland Saga | [Official Video]

英語・和訳字幕版
【和訳付き】蛍の光 (スコットランド民謡) "Auld lang syne" - カナ読み有

学生コーラス版 こちらが多くの人が抱く「蛍の光」のイメージに近いかも知れません。
Auld Lang Syne - The Choral Scholars of University College Dublin  

【番外】映画『哀愁』で用いられた蛍の光(「別れのワルツ」)。
哀愁(映画)/ 別れのワルツ(蛍の光) Waterloo Bridge (film)/ Auld Lang Syne


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