3次元紀行

手ぶらで地球にやって来ました。生きていくのはたいへん。そんな日々を標本にしてみました。

消えたもの3  -- 花のコーラスその2 --

2007-12-30 00:00:18 | 20世紀という梨があった
NHK名古屋放送局「花のコーラス」についてNHKに問い合わせたところ、以下のような回答をいただいた。

いつもNHKのニュース・番組をご覧いただき、ありがとうございます。
お問い合わせの件についてお答えします。

NHK名古屋放送局に保存されている資料の中を調べましたら、次の記載がありましたのでご連絡させていただきます。
・「NHKラジオ年鑑」
<ラジオ番組時刻表>
昭和24年9月11日~28年度まで
名古屋放送合唱団「花のコーラス」
毎日曜日朝9:45~10:00(全国放送)
・「名古屋放送局60年小史」
昭和16年に結成された「名古屋放送合唱団」による、「花のコーラス」が昭和24年9月から全国放送となり、CK制作ラジオ番組として全国に絶大な人気を誇ることとなる。
白いロングドレスでの“花のコーラス”、指揮はあの派手なジェスチャーの内本実さん。
などの記載がありました。

今後ともNHKのニュース・番組をお楽しみいただくとともにご支援よろしくお願いいたします。

NHK名古屋放送局 広報部 メール係

内本実という名前をGETした。
この指揮者で指導者のことをおばはなんと呼んでいたか思い出そうとしていた。
「きうっちゃん」だったかな。それで木内というキーワードでむなしい検索を試みていた。
そうか、内本実なんだ。
じゃ、「うちもっちゃん」だったかもしれない。
内本実で検索してみた。
たくさんの校歌を作詞・各務虎雄とともに作曲していた。
岐阜県立緑ヶ丘中学校、岐阜市立岐阜商業高等学校、岐阜県斐川町立久瀬小学校、岐阜市立三輪北小学校、養基(ヤギ)小学校養基保育所組合立養基小学校(岐阜県唯一の組合立の小学校だそうです)、岐阜県立大垣桜高等学校、岐阜県の私立聖マリア女学院高等学校…

活動の場は岐阜県だったようだ。
「歌と語りによる宮澤賢治の音楽」というCDを販売するホームページがあった。歌手の眞野美佐子さんのプロフィールに故西内静、故内本実、故上浪明子女史に師事という文字が見えた。眞野美佐子さんは国立音楽大学声楽科卒業。大垣女子短期大学教授。岐阜県で活動している方だ。

故内本実。亡くなっている。当然かもしれない。ひろみももうこの世にいないのだから。
内本実は1930年代に声楽家として多数のレコードを出している。全国中等学校優勝野球大会行進歌などという歌もうたっている。

浅草オペラが終焉した後、1927年から1937年まで放送オペラというものをラジオで放送した時期があった。たいがいスタジオからの放送だったが、1931年10月9日に放送されたものは、日本楽劇協会が日比谷公会堂で行なわれた演奏会を中継放送したものだった。出し物は山田耕筰の「あやめ」。新交響楽団、指揮:山田耕筰。そこに出演者として影の歌:内本実の名前がある。
日劇のメモリアル・ホームページ「昭和レビュー狂時代」では、昭和11年ごろ、日劇の声楽担当スタッフとして内本実が記録されている。

昭和11年は西暦でいうと1936年。
NHKは国民歌謡という番組を1936年から1941年まで放送した。国民歌謡とはラジオで放送するために新しく作られた曲で、月曜から土曜の午後0時35分から5分間放送したそうだ。そしてそのはじめの年、1936年の5月17日、JOBK大阪放送局は新歌謡曲という番組を8時15分から20分間、歌手内本実、四家文子で全国放送した。

戦争が終わって数年たった1949年(昭和24年)。
NHK名古屋放送局で「花のコーラス」が始まった。指揮指導は内本実。
名古屋放送局60年小史のわずかな記述のなかに、指揮はあの【派手なジェスチャーの】というフレーズがくわえられている。それがどのようなニュアンスを持つものなのか。
花のコーラスは1953年(昭和28年)で終了した。
「アメリカ公演という話もあったんよ」とひろみはいう。
「だけどつぶれた。つぶれたんは、多分、花のコーラスが名古屋やったからやわ。東京やったらいってたと思う。それからうちもっちゃんな、NHKのお偉いさんから変な人と思われたんや」

内本実。ネットを検索しても没年が出てこない。ウイキペディアにはかろうじて名前がUPされていたが、「この項目編集中」であった。しかし、内本実とのつながりからも、花のコーラスに関しては一行も見つけることができなかった。足跡が消えつつある。

緊急 -- 人を探しています --

2007-12-28 19:39:41 | Weblog
友達から以下のメールが届きました。

夜分失礼します・
知人から協力をお願いされました。メールをなるべく多くの友達に送ってとのことなのでよろしくお願いします。内容は下記のとおりです。
【友人のお子さん(神奈川県・都筑区民)が行方不明だそうでご協力 お願いします。岩田和輝(いわたかずき)君。150cm、45kg、NIKEトレーナー(カーキ)ベージュズボン、黒スニーカー、adidasウエストポーチ。12/ 6(木)午後1時半頃自宅から行方不明。岩田さん〓09014687141都筑警察〓0459490110まで情報提供をお願いします。もし見つけたら 「お名前は?」ではなく「いわたかずきくんですか?」と聞いてあげてもらえますか?「お母さん来てくれるからね」と言えば落ち着いて待つそうです。公開捜索しているらしく、他の人にこのメールを転送しても構わないそうです。もしかしたら電車に乗った可能性もあるらしいです。外出時気にしてください。発達障害があって徘徊癖もあって、雨風をよける知恵とかもなくって公園のベンチとかにいることが多いらしいです。中学1年で昨日新聞に載ったそうです。ご協力お願いしますとの事。
※都筑警察に問い合わせたところ12/23 宮前平付近で見かけたという情報あり。ご協力 宜しくお願い致しますm(_ _)m】

以下は神奈川県警のホームページです。いわたかずきくんの写真が載っています。

http://www.police.pref.kanagawa.jp/ps/93ps/93mes/93mes002.htm

消えたもの2  -- 花のコーラス --

2007-12-26 10:13:15 | 20世紀という梨があった
消えてしまったある合唱団の足跡を探している。
その名は「花のコーラス」。NHK名古屋放送局に存在したものなのに、NHKのホームページを検索しても出てこない。

西暦2000年5月3日。「雪の降る町」「夏の思い出」などの作曲者として知られている中田喜直先生が亡くなった。
亡くなった年の7月24日、東京レディース・シンガーズは“そのお人柄と名曲の数々を偲んで” 第22回定期公演を中田喜直の作品集とした。
中田喜直は東京レディス・シンガーズの公演のときは、いつも決まった席に座ったというが、その日、その席には婦人がすわった。
中田喜直の作品に女声のための合唱曲集が数多い。その原点には昭和20年代に存在した「花のコーラス」があるという。
この日のプログラムにはこんな解説文が載った。
「戦後まだ5、6年しかたっていない頃、私は畠の中のバラックの家で、日曜日の朝、NHKの放送を聴いていた。「花のコーラス」という女性合唱(ピアノ伴奏)の番組である。
粗末なラジオだが、ふとんの中で聴いていると、それはとても美しく、素敵な声とピアノの響きであった。日本の女性のやわらかい声とピアノがよく合って素晴らしかったが、曲は編曲のものが多かった。この番組に関係していた私の友人のすすめで、新作を書くことになった。最初から女声合唱とピアノの組合せによるオリジナル作品である。」
ここから中田喜直の「夏の思い出」などを含む女性合唱曲集は生まれた。

「花のコーラス」のような合唱団をつくりたい。
中田喜直がそう思い、その思いが実現した東京レディース・シンガーズは発足当時、東京芸術大学の声楽出身者によって結成された。メンバーは一人ひとりがソロ活動が出来るほど技術力が高い。というか実際、団員はそれぞれソロ活動もしている。そして、透明なアンサンブルと表現力の豊かさは最高レベルであると世界の評価も高い。
では「花のコーラス」にはどのようなメンバーがいたのだろう。

NHK名古屋放送局の募集に応じて集まった女の子たちの中にひろみという少女がいた。
ひろみは四国の坂出女学校を卒業した。兄が名古屋に職を得て、両親を呼び寄せたので、嫁入り前だったひろみも両親とともに名古屋に移り住んだ。そして、NHK名古屋放送局の「合唱団員募集」の広告を目にしたのである。
決められた日時に行くと、集まった少女たちは待合室で「どこそこの先生はどうで、どこそこの先生はどうした」などとひろみにとってはまるで別世界のような話をしていたという。まず、並んで発声練習をさせられたとき、審査員は後ろを通ってそれぞれの声を確認していた。一人ひとり別室に呼ばれて、歌わされもした。面接もあった。
「歌はどなたに習いましたか?」
この話をするとき、おばは必ず赤面した。
「あれは、どなたに師事したのかって、きかれたのよね。音楽家は必ず、自分が師事した先生を自分のプロフィールとして話すのね。ところがわたしったら…」
「○○先生です」
審査員は怪訝な顔をした。
「はて、その方はどちらの先生ですか?」
「坂出女学校の音楽の先生です」
それでもひろみは採用された。
忙しかったそうだ。
水曜日、手書きの楽譜を受け取る。それを手書きで写して木、金、土で音取りと練習。日曜日には本番で生演奏だった。

(NHK名古屋放送局「花のコーラス」に関する記述は、幼少時のcatmouseの記憶によるもので、記憶に誤りがあるかもしれません。確かめたいとは思いますが、もと団員だったおばはもう亡くなっております。もし、「花のコーラス」についてなにか情報をお持ちのかたがいらっしゃいましたら、コメント等にお便りをお寄せください。よろしくお願いいたします)

消えたもの

2007-12-25 09:37:41 | 20世紀という梨があった
NHK全国学校音楽コンクールのアーカイブをひもといて、以下の記述を拾い出した。

第30回(昭和38年度)3位東京都立明正高等学校。
第33回(昭和41年度)優良(3位相当)東京都立明正高等学校。
第36回(昭和44年度)優秀(2位相当)東京都立明正高等学校。

このとき、catmouseはこの学校にいた。でも合唱部には所属していなかった。
友達が合唱部に所属していた。すみれちゃんというたいへんかわいいなまえだった。親友だった。夏休みは一緒に自衛隊の体験入隊なんかに行ったりもした。
だけどcatmouseは合唱部には入らなかった。今思うと、入ってやっとけば良かったと思う。あのときやっておけば、今もっと上手に歌えていたかもしれない。
が、当時のcatmouseはコーラスというものになんとなく興味がわかなかった。
その他大勢だなんて…
Catmouseは演劇部にいた。
顧問の先生は、あまり部活に顔も口も出さなかった。部員数は少なく、女ばっか。でも男役の手当ては不思議とその都度ついた。
「女鳥王」の隼別王子、「おふくろ」の英一郎、catmouseがこれと目をつけた男の子を口説きに行って落とした。もちろん、主役はcatmouse。
が、catmouseのキャパシティもそれまでだった。
卒業と同時に高校の演劇部と縁が切れた。というか、catmouseは受験に失敗して、それどころではなかったのだ。
一方、すみれちゃんたちの合唱部は現役東大生を出すなど、受験でも戦果をあげていた。
都立明正高等学校の名前は昭和44年を最後にNHKの学校音楽コンクールから姿を消す。が、それは顧問の今西先生が異動してしまったからだ。なにしろ都立高校だから、先生の転勤がある。合唱というのは優れた指導者の手腕に負うところが大きく、先生がいなくなるとすたれてしまったりするのだ。
が、合唱部員たちは連絡を取り合い、交流を続けていたのだろう。後年、今西先生を核として今西楽友会を立ち上げ、合唱活動を継続したのだから。
2007年世田谷区民合唱団の定期演奏会の日、今西楽友会のちらしを持ち込んだ人がいた。Catmouseは思わずその人に駆け寄った。当然だと思うが、見覚えのない人だった。
「最初は、明正高等学校のOBでつくったんだそうですけどね、今はいろんな人がはいっていますよ。私も違うし」
「すみれちゃん、て名前の人、いますか?」
「さあ、ちょっとわかりません」
今西楽友会。パソコンで検索をすると出てくる。
が、母体となった都立明正高等学校は、実はもうこの世に存在しない。
都立高校の統廃合によって、2学区から明正高校と千歳高校が消え、千歳高校の跡地に統合された新しい高校が出来た。都立芦花高等学校という。
一つ疑問に思うことがある。明正の前身は青年学校である。一方千歳の前身は府立第11中学校である。ナンバーのついた旧府立中学からの歴史を持つ千歳高校。名前が消えることに反対運動はなかったのだろうか。しかも、場所はもともとの自分の場所である。明正が千歳高校という名に統合されてもいいはずであった。が、芦花高校と名前を変えた。千歳高校のOBが、偏差値は格下の明高生といっしょにされるのをさけたかったのか。
真偽のほどはわからないが、このあいだ、明正高校の跡地に行ってみた。そしたら、昔catmouseたちの校舎のあったあたりが国士舘大学のものになっていた。
国士舘大学ならびに国士舘高校は烏山川を隔てた丘の上にあった。国士舘高校といえばバンカラでならした校風で、兵学校を模した制服の丈をぞろりと長くし、肩で風をきって歩く様は「男組」からぬけでてきたようであった。
夏ともなれば、開け放した窓から、国士舘生応援団のならす太鼓と雄たけびが聞こえてきた。しかしこんなに隣接した高校同士でありながら、ここの生徒たちとの悶着は一切なかった。伝え聞いたところによると、「明高生には手を出すな」という不文律らしいものがあったとかで、だから、もし、国士舘生とトラブルになるようなことがあったら「明高生だ」と言えば助かるといわれていたくらいである。が、これも真偽のほどは定かではない。
消えたものは明正高校ばかりではなかった。
バンカラな国士舘生など、もうどこにもいない。
今の国士舘生は、チェックのズボンにブレザーとネクタイというしゃれたスタイル。女子もいて、校舎は全館冷暖房、学食つきの、いまどきの私立高校に変身していた。
そして、明正ミシシッピーとよんでいた我等の烏山川も消えた。川は緑道で蓋われ、人口の清流を伴った歩くのに気持ちのいい遊歩道に姿を変えていた。その日、自転車で烏山川緑道を通ってみた。人口の清流には鴨が数羽浮かんでいた。なんと白鷺もやってきた。猫のたむろする一角もあった。沿道の民家からせり出したみかんの木には黄色い実が光っている。
ある歌を思い出した。
「青い空 その青を見よ」
その歌は、かつて明正高校合唱部が全国大会に出て行ったときの課題曲だった。
その歌を教えてくれたすみれちゃんは、今頃どうしているだろうか・・・

歌はむつかしい

2007-12-24 19:31:45 | Weblog
23日のbamamanの以下のコメントに感想を述べます。

「どうも小生はインスツルメンタルに捉えてしまうのだぁ。
バラードなんかも物語なはずなのに…凄い抽象的になっちゃうんだなぁ。
言葉だとか文脈みたいなのを読むのが 病的に苦手で その響きから勝手にイメージが出て来て 自分の中の遠い処に行ってしまう。
これは 一種の病気かもしれないなぁ????

小生が持つ曲想は 風であったり、それにそよぐ光や木の葉くらいで どうも そこから先の具体的な言葉とかモノには行き着く事が出来ないのだなぁ。
もっとも、音楽としての表現力はかなり低いもんだから、何を言ってんだかねぇ。(笑)
あああ、表現…一体全体、この世でなにを表現したら良いのか?
僕はなにものであろうか?
詩情という事を ひょっとしたら母親のお腹の中に忘れて来たのだろうか???
とかなんとか、ほざいてみたかったのさ。」

歌はね、あれ、サーカスみたいなものだと思うんだ。
自分自身が楽器だろう?
ベルカントの歌手は、たとえて言えば、ブランコの上で逆立ちしながら次のブランコに飛び移っているようなものさ。高い音、低い音、出すのは難しい。いくつかの音階を飛び跳ねたりころがるように上下に移動するのも難しい。さらにそれを人が聞いて心地よく感ずるかどうか、これもまた難しい。
そこをある程度クリアしないと、catmouseのような気の小さい生き物は歌で自分の心の中にあるものを表現しようなんてとんでもハップンなのであります。
ヴァイオリン弾いていたときは、多少、自分の感情を楽器にぶっつけました。歌詞がないものは音だけがメッセージですからね、自由に解釈できます。
ところが、あるところまでいくと、技術が感情表現に追いつかず、不完全燃焼をおこして遠ざかりました。ここがcatmouseのだめなところですね~。
でも歌はもっと駄目でした。ヴァイオリンのほうがまだましだったです。
でも歌は手軽なんですね。お茶碗洗いながらでもできますから。
ヴァイオリンはたいへんですよ。ケースから出して、弓を締めて松脂塗って、調子笛で調子あわせてからおもむろに、ですから。それにひいている途中、お茶碗が洗えません。

ちょっと話がテーマからだんだんずれてきたんですけど、つまり、catmouseにおいて、こころの中を音楽によって表現しようという欲求は、ヴァイオリンにせよ、歌にせよ、技術不足によってまだ満たされていないと、こういうわけなんです。

bamamanの心の中は「風であったり、それにそよぐ光や木の葉」なのですか。catmouseは実はストルム・ウント・ドランクなんです。だからヴェルディのレクイエムでは怒りの日なんてのがけっこう好きなんです。
それはともかく、詩よりも曲相から直接インスピレーションを受けるタイプのbamamanはヴォカリーズなんかいいんじゃないんですか。あと、オンブラマイフなんておすすめです。

ところで、じゃあ、catmouseがもし歌がうまくなってなんでも歌えるとしたら、何が歌いたいか。bamamanからの問題提起で考え込んでしまったのですが、実は本当に歌いたい歌、好きな歌は独唱曲のなかになかなか思い当たらないんですね。考えてみたらオペラなんて18禁じゃないですか。曲がものすごく質の高いのに比べ、歌の文句はけっこう演歌とかわらなかったりしてね、曲と歌の文句との間に隔たりがあるんですよね。その中でもトスカの「歌に生き、恋に生き」はいいほうだと思うのですが、それより、合唱曲の「水のいのち」の詩なんてずっと格調がたかいですぞ。
うん、それでちょっとわかったことがあるんですが、要するに、catmouseが合唱をやっていてやめないのは、合唱の歌の中にこそ、人間の高度で複雑な心を歌い上げるものがあるとかように感じているからなのでありますね。
ただね、合唱は自分の感情をそのままぶつけるわけにはいきませんね。なにしろ大勢で歌うのですからね。

エリカのコンサート面白かったよ 

2007-12-22 11:00:11 | コンサート
スタジオジブリ名曲集よりと題した第三ステージでは、学生指揮者とピアニストがトトロに扮して出てきました。
耳付きのフードをかぶり、胴体はトレーナーを改造したものを着ただけなのですが、なかなかうまく出来ていました。
歌はユニットに分かれた小グループが、それぞれ扮装をこらして「さんぽ」「やさしさに包まれたなら」「もののけ姫」「人生のメリーゴーランド」「時には昔の話を」を、最後に全員で「君をのせて」「となりのトトロ」などを歌いました。

エリカの活動には慰問なども含まれているそうですが、こんな格好で来てくれたら、さぞかし喜ばれるだろうなと思いました。「もののけ姫」では、なんと米良美一顔負けのカウンターテナーが登場。「時には昔の話を」という歌は、もともと学生時代を何年か前に終わった人が昔を思い出して歌う歌ですが、その真っ只中にいる人たちが将来に自分をおいて今を歌っているといった状況で、どこか錯綜した感じなのですが、なぜか胸にせまってくるものがありました。

エリカ混声合唱団は首都大学東京の同好会です。一時は団員90名ほどいたそうですが、2002年、団員数が0になって、いったん活動を完全停止していましたが、2003年、3~4人が集まって、活動を再開したそうです。そしてだんだん団員を増やし、今回のコンサートは復活後の第一回演奏会でありました。
かつて、エリカはなやかなりしころは木下牧子に3曲ばかり委嘱曲を贈られたそうで、木下牧子といえば、合唱をする人なら誰でも知っており、またあこがれの作曲家ですが、その木下牧子さんから贈られたという歌のひとつ、「鴎」がアンコールで演奏されました。

まあ、コンサートの感想を述べるのに、第三ステージとアンコールから入るというちょっと横のドアから入った感じですが、もちろん、第一ステージも第二ステージも第四ステージもよかったですよ。
合唱というと大人になるとたいてい友達がやってるから、身内がやってるからと、義理がらみで行き、半分はあくびをかみころしながら付き合っているというのが本当のところのようなものですが、エリカのコンサートは合唱の楽しさが伝わってきて、実のところ身内はだれもステージに立っていなかったのですが、楽しむことができました。
第二ステージは日本民謡をやったのですが、松下耕の『北へ』は宮城県民謡・大量唄い込み、青森県民謡・俵積み歌、青森県民謡・津軽山歌、北海道民謡・ソーラン節といずれも東北北海道の歌で、そのせいか色調は物悲しく、東北の暗い空のような色合いを感じさせました。ただただ物悲しく、きれいだったのは、唄っているのが学生さんだからでしょうか。褌のおじさんだの、子を生んだ嬶たちは歌の中には出てこなかったように思いました。
第四ステージは谷川俊太郎作詞・三善晃作曲「木とともに 人とともに」もっとも学生さんらしい合唱曲でしたね。
最後になりましたが第一ステージは、宗教曲集「Victoria」
感想はちょっと辛口になります。この種類の歌はクリアーな音色が要求されます。プラスアルファでは勝負できない曲です。今後の団員の方たちの研鑽を期待しております。(ゴーストのでる世田谷区民合唱団のメンバーが何を言うかという感じですけど)


今日、エリカ混声合唱団公演

2007-12-21 12:59:10 | Weblog
エリカ混声合唱団とは首都大学東京の合唱同好会です。
そのエリカ混声合唱団が、本日南大沢の文化会館で「エリカ混声合唱団演奏会2007」を開催します。
開催時間は18:30.
実は、このエリカ混声合唱団と世田谷区民合唱団は、浅からぬ関係があります。
合唱団員同士はさほどお互いを認識していませんが、世田谷区民合唱団の音楽監督で常任指揮者の金川明裕先生のお弟子さんである津久井康明氏がエリカ混声合唱団の指揮者なのです。そして、世田谷区民合唱団のヴォイストレーナーで、定期演奏会の時にはソリストを務める神谷明美先生がエリカ混声合唱団のヴォイストレーナーも勤めているのです。
そんなわけで、catmouseは今日、八王子くんだりまで出かけようと思っております。なんかすっごくおもしろいらしいですよ。詳しくは…
http://erikachor.fc2web.com/tokusetsu.html

ある新聞の切り抜き

2007-12-21 11:01:14 | コラム
起き上がる。とにかく朝にすることをする。
体を動かしているあいだ、総ての後ろめたさが消える。私は働いていると思えるから。だから病気は辛かった。自分を責める思いばかりが浮かんでくるからだ。
とりあえず起き出して、未処理の郵便物をかたずけた。そのなかからすっかり忘れていた新聞の切抜きを見つけた。切り抜きに日付がなかった。資料には日付を必ず書くものだということは充分わきまえ、実行もしていたのだが、その切り抜きは日付を書くまでもないとでも思ったのか。
切り抜きは詩人高野喜久雄さんの訃報が書かれていた。
「今月1日」とある。今年であることは間違いないと思うが、何月だったんだろう。ある日の読売新聞の編集手帳である。
記事を読み進んだ。作曲家高田三郎さんの合唱曲「水のいのち」の作詞家だとある。私も歌ったことがある。歌ったことがあるどころではない。大好きな歌だ。今もそらんじることができる。確か、高田三郎さんも故人ではなかったか。ところで、私は作曲家は覚えるが、あまり作詞家は覚えない。覚えている作詞家は谷川俊太郎、星野富弘、くらいだ。星野富弘さんは作詞家というより、画家と言ったほうがいいかもしれない。富弘美術館が群馬県みどり市にある。だが、星野富弘作詞・新実徳英作曲の合唱曲「花に寄せて」も好きな歌の一つだ。そういえば「さっちゃん」「犬のおまわりさん」をコンサートで歌ったことがあるが、その直後だかなんかどなたかが故人になったなと思い出した。覚えていたのは大中恩さんという名前のほう。この方はやっぱり作曲家で、いまだご健在。亡くなったのは作詞家のほう。阪田 寛夫さんのほうだった。
話がそれたが記事を読み進む「数年前から、日本で少年たちに向けた作品集を出したいと考えていた」が、詩集はあまり売れないと、扱う出版社が少ないことを悲しんでいたという。
「おお ふり注ぐ、燦々と降り注ぐ 何処にいても 私の上に あなたは私の道の行く手に」記事は高野喜久雄さんの詩を一部引用し、「今日は『母の日』だ」と続く。
そうか、高野喜久雄さんは5月1日に亡くなった。この新聞は5月1日のものなんだ。と思い、試しにウィキペディアをひいてみた。
没年は2006年(平成18年)5月1日。
昨年だったんだ。その切抜きは今年ではなく昨年のものだった。
宇都宮農林学校卒(現在宇都宮大学)。神奈川県立の高等学校で数学を教えていた。ご子息は国立情報学研究所教授。次世代への責務も立派に果たされている。
私はその高野喜久雄さんのことを書かれた記事に心ひかれ、切り抜いたまではよかったが、惹かれた心は毎日の中に埋没し、忘れられていた。
それが、今日、うずもれた紙束のなかから、ぽろりとこぼれ出た。


せつくもの

2007-12-21 09:00:51 | Weblog
明け方、自然に目が覚めた。頭は痛くなかった。
風邪がなおったらしい。体力も回復してきた。慢性的だった睡眠不足も解消してきたようだ。しっかりしなきゃ、と、寝床の中で繰り返し思った。昨日、ちらりと新聞の中に知人を見たのだ。そして昨日まるまる一日、こしかたを思い浮かべその知人とのへだたりを感じていた。そのことが私の中に多少のあせりを生じさせた。
この十数年、「今はまだそのときにあらず」と自分をあまり磨かなかった。今も「まだそのときにあらず」と着手を控えている。
「そんなこと言ってる場合か?」私の中で何者かが言う。
ところが別のやつが言うのだ。
「今まで過ごしてきた年月より少ない年月で、おまえは総てのものを手放し、行かなければならないところに行く。おまえのあせりなど笑止ではないか?」
時は覆いかぶさる。松柏くだかれ薪となり、旧墳すかれて畑となる。
「でも」
と先述の何者かが言う。
「その消えてなくなるまでの時間、精一杯自分を輝かせているやつって、美しくないかい?」




今はまだ

2007-12-21 08:08:01 | Weblog
今はまだ、老いを語ることはできない。
直面したばっかりだから。
その人は日本人としては体の大きい人だった。一見、外国人のような風貌もしていた。
この人には四国徳島・阿波女の血が流れている。
四国松山出身の軍人・秋山好古も時折日本人には見えないといわれた。
土佐の坂本竜馬は身長が高く、背中にたてがみの様な体毛があったといわれる。
四国人にはどんな血が混ざっているのだろう。

その人のワイシャツは大きくて、丈は当時、私のワンピースより長かった。
「がしんたれだなあ。好き嫌いばかりするからだ」
その人は愛情表現のつもりで言ったのかもしれない。
だが、万事記憶はあまり良くない、“がしんたれ”の私の心に不満とともに深く残った。
「そんなことがあったかなあ」
もし、その話を持ち出したら、少し前のその人なら、苦笑しながら「忘れた。覚えていない」とでも言ったろう。
が、今、その人は、そんな普通の会話も出来ないほど、病んで、老いている。
その人は誤飲性の肺炎で先週入院した。みるみる老いは深まり、言葉もあまり明瞭でなくなった。痰の吸引に苦痛をあらわし、「かえろう」とつぶやくような声で訴える。
しかし、私になにができるだろう。
入院の2~3日前は食事もほとんど進まなくなり、のまなければならない薬も飲み込めず、手でつまんで出した。私は脱水症状を心配した。
病院にいれば、とりあえず点滴で水分が補給される。酸素吸入で呼吸も確保されている。
かつて、私を育て、励まし、困っているときは助けてくれたこの力強いかいなを持っていた人に、今、私はいったいなにができるのだろう。