3次元紀行

手ぶらで地球にやって来ました。生きていくのはたいへん。そんな日々を標本にしてみました。

ニューイヤークラシックコンサート

2007-12-20 16:48:05 | コンサート
新年にお届けする、
世田谷区民による世田谷区民のためのクラシックコンサート。
今年はBeethovenの交響曲第九番を、迫力ある(?)演奏と歌声でお楽しみください。

これは来年の1月13日に行われる世田谷区主催のコンサート、ニューイヤークラシックコンサートのキャッチコピーです。【(?)は筆者加筆による】
このコンサートは毎年1月、世田谷フィルハーモニー管弦楽団と世田谷区民合唱団によるコンサートで、今年はオペラ椿姫(抜粋)を行いました。もちろん、ソリストは二期会のプロフェッショナルに依頼しました。

さて、来年の第九、指揮は東京芸術大学の田中良和氏。ソロを務めるのはソプラノ:納富景子、メゾソプラノ:菅家奈津子、テノール:角田和弘、バリトン:折江忠道。
今回の演奏が例年と違うところといえば、楽譜をBreitkopfからBärenreiterにかえたというところです。
では変えて、どこが違ったかというと一番おおきなところは練習番号331番Allegro assai vivaseのところ付点四分音符=84だったのが付点二分音符=84になったことです。
これは、ベートーベンの書いた楽譜どおりにもどったということです。それまで、ベートーベンの楽譜はいろいろな人が「ベートーベンはこう書いているけど、これは違うのじゃないか、インクのしみではないのか」などといったりしてアレンジしており、定番としていちばん出回っていたのがBreitkopf版だったわけです。
それが、「いや、これはベートーベンの元の楽譜に戻るべきだ」と主張する人が出てきて、最近もとの楽譜に近い楽譜Bärenreiter版が使われ始めたのです。
その流れをくみ、今回、それを使用して演奏が行われます。

なにしろ演奏者は世田谷フィルハーモニー管弦楽団と世田谷区民合唱団ですから、なるほど、ベートーベンの言いたかったことはこうだったのか、というような、めざましい説得力に欠けるきらいはありますが、とりあえず、ベートーベンの第九演奏史上、新しい試みであるということはいえるのであります。

演奏は2008年1月13日(日)14時開演。会場は昭和女子大学人見記念講堂。
合唱指導は金川明裕。で、あります。


ちょっと休暇を

2007-12-14 22:13:19 | Weblog
年内、会社を休みます。
休みをとって、梟おじさんの介護をする予定でした。
ところが梟おじさんは肺炎で入院してしまいました。
入院するなら、猫の手はいらなかったのかなあ、とも思いましたが、急遽、病院通いに切り替わったと考えればいいのかな。

少し、時間に余裕ができるでしょうか。
そしたら、何を?何をしようか…創作?歌の練習?ひょっとしてヴァイオリン?
やりたいことはいっぱい。あっちをかじり、こっちをかじりしているうちに休暇はおわり、結局時間だけが過ぎたということになったりして?子供時代の夏休みみたいに…

映画「コーラス」について ・2

2007-12-10 00:26:20 | 映画
映画「コーラス」に観る、天使の仕事

音楽家をめざして音楽家になれず、寮の舎監になったものの、その職も失った先生は失意で学校を後にする。学校から一番近いバス停でバスを待っていると学校のほうからかけてくる子供がいた。
ペピノだった。ペピノは学校では最年少の子供。眠るときはクマのぬいぐるみを抱いて寝る。そのペピノが、小さなバスケットを下げて、クマのぬいぐるみを抱いて一生懸命かけてきた。
「先生、ぼくも連れて行って!」
先生はは断った。
「それは無理だ。はやく、学校にお帰り。でないと罰を受けるよ」
先生はペピノを残して一人バスに乗った。バスは発車した。が、ペピノの顔が輝いた。発車したバスが止まって先生が降りてきたのだ。先生はペピノをバスにのせるとペピノと一緒に旅立った。
ナレーションがはいる。
「ペピノは正しかった。今日は土曜日だ」


音楽家をこころざして、音楽家になれなかった男。チビでハゲでデブ。歳も中年にさしかかった。しかもやっと探した舎監の仕事も失った失業者。
このとき、この先生は自分を敗北者だと思ったろう。
だが、この映画が2004年全仏の興行でトップの成績を収めたのは、実は彼が人生の敗北者などではないことを観る人が感じたからに違いない。
寄宿学校「地の底」に、もし、この先生が来なかったら生徒たちはどうなっていただろうか。もし、この先生がこの学校にこなかったら、生徒のうちの何人かはきっとすさんだ人生を送っただろう。犯罪者となるものも出たかもしれない。
天使の顔をした悪魔といわれたピエール・モランジュも、巷でよく見かけられるような女ったらしのチンピラになって身を持ち崩し、老年期は一人さびしく安アパートで薄い毛布にくるまってゴホゴホとしわぶいていたかもしれない。
が、ピエールは、先生に音楽の才能を見出され、音楽学校に進学してゆくすえ世界的な指揮者となるのだ。
土曜日になるといつも門の前でパパが迎えにくるのを待っていたペピノはやさしい先生をパパにした。そして先生がどんな仕事をしたかずっとそばで見ることになった。
この物語はそのペピノがピエールのもとを訪れ、先生の日記を通じて昔話をするという形式ですすめられていく。先生の日記はペピノをつれて寄宿学校を後にするところで終わっているが、その後のことはペピノが語った。
「あの学校をやめた後も、先生はずっと音楽を教え続けたんだ」

もし、先生の夢がかなって、先生が音楽家になっていたとしたら、先生は寄宿学校の舎監になって子供達に合唱を教えることもなかったろう。が、音楽家の夢がかなわなかったために、先生はどさまわりのようにして底辺の子供達に合唱を教え続けた。
しかし、そのおかげで救われた子供達がどれだけいただろう。
先生は天使の仕事をしたのだ。
が、現世に生きていると、地位や財力に目を奪われて、何が価値のある人生かはなかなかわからないものだ。


映画「コーラス」について ・1

2007-12-10 00:16:06 | 映画
映画「コーラス」が語るもの

「コーラス」という映画をレンタルDVDで観た。
この映画は合唱で歌う少年達と、合唱指導する先生との感動物語というよくあるパターンでありながら、2004年のフランス興行成績1位を記録した映画である。
この映画の見所は、このコーラスグループのソリストを務める少年の、美声を備え持つ美少年ぶりだろう。この少年は、合唱をしている3000人の少年の中から選ばれたという。そして、少年達が歌う歌声は、彼、ジャン=バティスト・モニエが所属する「サン・マルク少年少女合唱団」が受け持っている。

物語は、音楽家になることを夢見て夢破れた中年の男が、しがない寄宿舎舎監となってその学校「地の底」にやってくるところから始まる。
「地の底」とは、親がいないとか、親が子供の面倒を見られないなどのいろんな事情で寄宿生活を余儀なくされている子供達ばかりの学校だった。
門を通過するとき、扉の鉄の柵を握り締めてじっと外を眺めている小さな少年がいた。
「彼は?」ときくと「ペピノといいます。両親は亡くなっているんだけど、それを認めようとしないので、お父さんが土曜日に迎えにくるよ。と言ったんです。そしたら毎週土曜日、ああしてお父さんが迎えにくるのを待ってるんですよ」

そう、ここにいる少年達はみないつかは親が迎えにくるのを待っている子供達。そのさびしさを紛らわすため、子供達はしょっちゅういたずらをして問題をひきおこす。ところがもっと問題なのはこの学校の校長で、誰かがいたずらをすると、全体責任にして犯人が名乗り出ないと名簿から適当な子供をピックアップして罰を与えるという横暴な男だった。それなのに出資者である伯爵夫人に取り入って、勲章を貰おうとしているせこい男なのだ。こんなのが教育者でいいはずはない。
そのおかげで学校は荒れ放題、子供達のいたずらもエスカレートしていた。
新任の舎監と入れ違うようにしてやめていく教師が「ピエール・モランジュに気をつけな。天使の顔をした悪魔だ」と新任にささやいて去っていく。

ピエール・モランジュ。教室に座っているだけで、他の子供達とは一線を画すような美少年だ。いたずらといっても、授業中、校長先生をネタに悪意を込めた漫画をノートにいたずら書きするくらいじゃなかったかな。それでも校長に見つかれば罰の掃除当番だった。画面をみていると、ピエール少年は年中掃除をしたり、窓ガラス磨きをやっていた。
そんななか、新任の舎監は子供達に自分のもともとの専門である音楽を教えることを思いついた。この先生はチビでデブでハゲ。さえない中年男だが、心根のやさしい先生だった。自分にされたいたずらを校長先生にばれないようにかばってやったり、生徒の一人が用務員さんを傷つけたとわかると、校長先生には内緒で用務員さんの看護を命じて少年の良心をめざめさせた。
合唱指導をはじめると、少年達の生活態度が目に見えて変わっていった。そして、例の美少年ピエール・モランジュは最後まで合唱の列にくわわるのを拒否していたが、ほんとうは歌いたくて陰でかくれて歌ってるのを先生はきいた。その声は何万人に一人という天使の歌声だったのだ。
先生はさっそく、ピエールをソリストとすることで合唱の列に加え、さらに母親に少年を音楽の道に進ませるようアドバイスする。
「地の底」の少年達が合唱をしていることを聞きつけた伯爵夫人が、合唱を聞きにきた。総てが順調にいっているように見えた。
が、休暇で学校が空っぽになった日、学校は放火された。
放火は校長によって泥棒の濡れ衣をきせられて少年院送りになった少年による報復だった。

放火されたとき、無断で生徒とピクニックにいったという理由で、この音楽の先生は校長から首をいいわたされる。
本当は、校長はこの先生が気に入らなかったのだ。先生が合唱を通じて生徒たちの心をつかんだことがまず気に入らなかった。伯爵夫人には、合唱の手柄を自分のもののように吹聴していたが、伯爵夫人も評価したその仕事ぶりが目障りだったというのがもっと大きな理由だ。
悪魔は天使の存在そのものが気に食わないのだ。


奥田先生

2007-12-04 00:35:01 | 20世紀という梨があった
catmouseが5年生になった時、担任の先生から呼ばれた。
男子数名、女子数名。(何人づつだったか忘れた。2名づつのようだった気もするし、4名づつだったような気もする)
音楽室に行きなさいといわれた。
Catmouseたちはわけが分からないまま音楽室に行くと、各クラスから来た生徒たちが集まっていた。
そこに奥田先生が登場。
開口一番、「女の子は帰れ」
奥田先生とは奥田政夫。catmouseのいた小学校は上高田小学校という。
(こらこらbamaman、ウイキペディアを見ながら指おり数えてはいかんぞ)
上高田少年合唱団は当時、合唱コンクールで優勝をしまくり、その名は全国にとどろいていた。が、少年少女合唱団ではなく、男の子だけの少年合唱団だった。
そのわけは…
「どうしても練習が6時~7時に及ぶことがある。すると女の子の父兄からは苦情がでる。
また、厳しくすると、女の子はすぐ泣く。だから男の子だけでいい。女の子は帰れ」
てなわけで、catmouseは上高田少年合唱団のメンバーからもれたのであります。
まあ、catmouseもその先生の言い草を聞いて、当時は納得しておりましたな。catmouseは、小学生くらいのときは、電気がついてから帰ると、ママから締め出されてお家に入れてもらえませんでした。戸口で「ごめんなさい、もうしません」とさんざん泣いて、やっと入れてもらう有様でしたから、6時、7時まで学校にいるだなんて多分許されないだろうな、と即座に思いました。

今なら考えられませんね。いま、夜中まで小学生たちが塾に行くでしょう。それに先生に選ばれて有名合唱団に入れるなんていったら、親が目の色かえるでしょう。
でも当時はママに話したら「それでよし」という顔してましたからね。家庭で子供はどうあるべきものというのは今と違っていましたね。

6年生のとき、この奥田先生の指導で合唱する機会がありました。
あまりよく覚えてないのですが、いろいろな小学校が出場する合唱祭というようなものでした。コンクールではなかったと思います。
でも選抜メンバーだったような気がします。なぜなら当時、53~54人の学級が7組あったのですから、そんなにたくさん舞台に乗るわけがないからです。
2曲歌ったのですが、1曲しかおぼえておりません。「お江戸日本橋」
終わったとき、奥田先生は不満足そうでした。生徒に対して言ったのではなく、catmouseの担任の先生にこぼしていたのを横から聞いたのです。“左右がずれた”って。
これだから女を入れるのはいやなんだ、と奥田先生は思ったんじゃないかな、とその時catmouseは思いました。

ピアノが来た日

2007-12-02 10:31:11 | 20世紀という梨があった
小学校の時、ある日、担任の先生が言った。
「今日は体育館に行ってはいけません。なぜなら、ピアノがくるからです。なんでもそのピアノは日本に何台もない高価なものなのです。音楽室にあるのとは比べ物にならないほど上等なものなのです。ピアノが体育館にちゃんと納まったらみんなで見に行きますから、それまで体育館に行かないでくださいね」
担任の先生は男でしたな。
中学年までの音楽の授業は専門の音楽の先生でなく確か担任の先生がやったんじゃないかと記憶しておりますが、この担任は隣の組のちい子先生と協定をむすんでいまして、「音楽お願いできますか?かわりに体育を受け持ってさしあげますから」てなぐあいでした。
それで各教室にオルガンがありまして、音楽の授業になると、ブーブーブーブー、オルガンをならして歌をうたってました。
多分学芸大学かなんか出ていて、必須でピアノをやったんでしょうけれど、その程度ですからドミソ、ドミソ、ドファラ、ドファラくらいの伴奏だったと思います。
だから、担任の先生は、「日本に何台もない高価なピアノ」というものが、どんなものか先生自身も分からなかったんじゃないかと思いますじゃ。

私たちの胸は高まりました。「こわいものみたさ」いやちょっと違ったかな。
体育館のあたりにピアノを搬送するトラックがものものしくも来ていた様なのを、見てもじゃまになるかと思い、作業がおわるまで教室の中で息をひそめていました。そして頭のなかには「日本に何台もない高価なピアノ」というものはどんなものか、空想がふくらんでいました。
「例えば、真っ白で、そこに真っ赤なバラとか、青い花とか、色とりどりの花が描いてあるのかなあ。それとも、金で縁取りがしてあって、幾何学模様がはめ込まれた貝殻で描かれてるのかなあ。はたまた、電飾がついていて、鍵盤を押すたんびに電飾が色変わりでピカピカ光るのかなあ」

そしていよいよ、ピアノとご対面となりました。
各クラスの生徒が担任の先生につれられて、順番にゾロゾロ、ゾロゾロと体育館に入って行きました。
さて、私たちの番。
「?」
catmouseは思いました。(これが?どこが?日本に何台もないって?)
ピアノはただただ真っ黒の塊で、鮮やかな真紅のバラも、象嵌の幾何学模様も、電飾もなにもありませんでした。
多分、みんなもそう思ったんじゃないかな。
でも、そんなこと口にするものは誰もおりませんでした。
「ほうほう、これが日本に何台もないピアノ」
「確かに、すばらしいですな」
「黒光りしておりますな」

catmouseは思うよ。昔の子供にはさ、大人を傷つけない配慮というものがあったように思う。昔のことを言い出したら、年寄りになった証拠と思うけどさ。

で、あんまり拍子抜けしたから、そのピアノがどんなものか、おぼえていないんだけれど、まさかスタンウエイが小学校にあるわけないよね。
河合かヤマハか、多分グランドピアノだったんだと思う。

蛇足ながら、5年生になって、音楽の時間は音楽室になった。
先生は奥田先生とかいったかな。はじめてピアノの本格的な伴奏で歌を歌ったときの感激をわすれられない。なんてすてきなハーモニーなんだ。音楽室に行くたんびに、「また先生、ピアノをひいて歌わせてくれないかな」といつもそう願っていたっけ。