3次元紀行

手ぶらで地球にやって来ました。生きていくのはたいへん。そんな日々を標本にしてみました。

歌はむつかしい

2007-12-24 19:31:45 | Weblog
23日のbamamanの以下のコメントに感想を述べます。

「どうも小生はインスツルメンタルに捉えてしまうのだぁ。
バラードなんかも物語なはずなのに…凄い抽象的になっちゃうんだなぁ。
言葉だとか文脈みたいなのを読むのが 病的に苦手で その響きから勝手にイメージが出て来て 自分の中の遠い処に行ってしまう。
これは 一種の病気かもしれないなぁ????

小生が持つ曲想は 風であったり、それにそよぐ光や木の葉くらいで どうも そこから先の具体的な言葉とかモノには行き着く事が出来ないのだなぁ。
もっとも、音楽としての表現力はかなり低いもんだから、何を言ってんだかねぇ。(笑)
あああ、表現…一体全体、この世でなにを表現したら良いのか?
僕はなにものであろうか?
詩情という事を ひょっとしたら母親のお腹の中に忘れて来たのだろうか???
とかなんとか、ほざいてみたかったのさ。」

歌はね、あれ、サーカスみたいなものだと思うんだ。
自分自身が楽器だろう?
ベルカントの歌手は、たとえて言えば、ブランコの上で逆立ちしながら次のブランコに飛び移っているようなものさ。高い音、低い音、出すのは難しい。いくつかの音階を飛び跳ねたりころがるように上下に移動するのも難しい。さらにそれを人が聞いて心地よく感ずるかどうか、これもまた難しい。
そこをある程度クリアしないと、catmouseのような気の小さい生き物は歌で自分の心の中にあるものを表現しようなんてとんでもハップンなのであります。
ヴァイオリン弾いていたときは、多少、自分の感情を楽器にぶっつけました。歌詞がないものは音だけがメッセージですからね、自由に解釈できます。
ところが、あるところまでいくと、技術が感情表現に追いつかず、不完全燃焼をおこして遠ざかりました。ここがcatmouseのだめなところですね~。
でも歌はもっと駄目でした。ヴァイオリンのほうがまだましだったです。
でも歌は手軽なんですね。お茶碗洗いながらでもできますから。
ヴァイオリンはたいへんですよ。ケースから出して、弓を締めて松脂塗って、調子笛で調子あわせてからおもむろに、ですから。それにひいている途中、お茶碗が洗えません。

ちょっと話がテーマからだんだんずれてきたんですけど、つまり、catmouseにおいて、こころの中を音楽によって表現しようという欲求は、ヴァイオリンにせよ、歌にせよ、技術不足によってまだ満たされていないと、こういうわけなんです。

bamamanの心の中は「風であったり、それにそよぐ光や木の葉」なのですか。catmouseは実はストルム・ウント・ドランクなんです。だからヴェルディのレクイエムでは怒りの日なんてのがけっこう好きなんです。
それはともかく、詩よりも曲相から直接インスピレーションを受けるタイプのbamamanはヴォカリーズなんかいいんじゃないんですか。あと、オンブラマイフなんておすすめです。

ところで、じゃあ、catmouseがもし歌がうまくなってなんでも歌えるとしたら、何が歌いたいか。bamamanからの問題提起で考え込んでしまったのですが、実は本当に歌いたい歌、好きな歌は独唱曲のなかになかなか思い当たらないんですね。考えてみたらオペラなんて18禁じゃないですか。曲がものすごく質の高いのに比べ、歌の文句はけっこう演歌とかわらなかったりしてね、曲と歌の文句との間に隔たりがあるんですよね。その中でもトスカの「歌に生き、恋に生き」はいいほうだと思うのですが、それより、合唱曲の「水のいのち」の詩なんてずっと格調がたかいですぞ。
うん、それでちょっとわかったことがあるんですが、要するに、catmouseが合唱をやっていてやめないのは、合唱の歌の中にこそ、人間の高度で複雑な心を歌い上げるものがあるとかように感じているからなのでありますね。
ただね、合唱は自分の感情をそのままぶつけるわけにはいきませんね。なにしろ大勢で歌うのですからね。


最新の画像もっと見る

9 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
PIANOは阿呆だ! (bamaman)
2007-12-25 12:50:32
<<ヴァイオリン弾いていたときは、多少、自分の感情を楽器にぶっつけました。歌詞がないものは音だけがメッセージですからね、自由に解釈できます。>>
うん、成る程!とても分り易いことばでやすねぇ。
歌詞があるとその歌詞にどうしても引きずられちゃいますねぇ。
伴奏してると やはり伴奏譜の善し悪しがあって インスツルメンタルが より一層の雰囲気を出す様なのは良いですね。
今年の夏は 薩摩忠氏作曲のシャンソンコミック”電話”を伴奏しました。感情の動きがピアノ譜に 色濃くあって良い曲でした。
ただただ、歌詞の添え物では やはり駄目でやすねぇ。

<<風であったり、それにそよぐ光や木の葉」なのですか。>>
うん、イメージし易いですよ♪
曲の性格もあったのでしょうが、ショパンのエチュードOP25-nr1"エオリアンハープ”の曲想を創る時には 窓の上の木の葉が風に揺らぎ、光がキラキラとする様を見ながら 風を感じていましたよ。月や星や太陽でも そのものを描く事は難しいよねぇ。その時の気温やら大気のゆらぎみたいなものの方が音楽的な感じがするので 多分そうなっちゃうのでしょうか。

<<うん、それでちょっとわかったことがあるんですが、要するに、catmouseが合唱をやっていてやめないのは、合唱の歌の中にこそ、人間の高度で複雑な心を歌い上げるものがあるとかように感じているからなのでありますね。>>
うん、なにやら分るなぁ♪
合唱は3声4声5声なんて次元でやすよね。ピアノで3声てぇのがざらにありますが、右手にソプラノとテノールがあったりするんですがね、音質を変えてもしれたもんです。その点合唱はそのものの音質が違うので掛け合いがほんまに掛け合いになる。
バッハもインベンション2声3声が有名でやすよね。
あれも音の高低と右手から左手に同じ音形が移って行く駆け引きが面白いのでやすがね、しかしぃ…これも所詮合唱と違って 同じ共鳴胴のなかからなっているだけで 立体的な音にはならない。空間を縦横無尽には駆け抜けにくい!

まぁ、そこの限界てぇのが あるから善くも悪くもあり、てぇ事にしときます。
返信する
<>内の文字消えちゃうのねぇ? (bamaman)
2007-12-25 13:00:00
<>1番目
ヴァイオリン弾いていたときは、多少、自分の感情を楽器にぶっつけました。歌詞がないものは音だけがメッセージですからね、自由に解釈できます。
<>2番目
bamamanの心の中は「風であったり、それにそよぐ光や木の葉」なのですか。
<>3番目
うん、それでちょっとわかったことがあるんですが、要するに、catmouseが合唱をやっていてやめないのは、合唱の歌の中にこそ、人間の高度で複雑な心を歌い上げるものがあるとかように感じているからなのでありますね。
ただね、合唱は自分の感情をそのままぶつけるわけにはいきませんね。なにしろ大勢で歌うのですからね。

以上でありましたぁ♪

ストルム・ウント・ドランク????聞いた事ありそうなことばだけど意味わかんないなぁ?
自由みたいな事?????

そうそう、ラフマニノフのヴォカリーズをチェリストとやり始めてます。カッコいい音ですが、譜読みでは 曲想が難しい。
まずはミッシャ・マイスキーあたりのCDを聴きこんでみようかいなぁ。
返信する
内の文字ってタグのこと? (catmouse)
2007-12-25 20:52:27
<>を半角にして、その中に文字を入れたの?
半角の<>、つまりタグを使うとタグごとその記述は消えちゃうよ。それのこと?

ストルム・ウント・ドランクっち言うのは疾風怒涛のこと。catmouseは本当は心の中にいつも嵐を抱え込んでいるんだよ。すきあらば荒れ狂いたいと思ってるんだけど、catmouseが繰り出せるのはネコパンチくらいのもんだから、気持ちをいつも押さえ込んでいるのさ。ヴァイオリンでもぶちかましたいけれど、嵐を発散させるのには高度なテクニックが必要だものね。

ラフマニノフのヴォカリーズ?あれ、ソプラノの歌だよね。月夜の夜空にしみとおるような、セイレンの魔女もかくやと思われるような。あれを歌いこなせたらいいなあ。
返信する
ヴォカリーズ (bamaman)
2007-12-26 16:26:31
あれは、初演は歌じゃぁなくてチェロとピアノ演奏だったとか!
そうか、catmouse)の言ってるヴォカリーズは曲名じゃぁなくて無意味音声楽てぇいうか、スキャットみたいな奴のジャンルを言ってたんでやんすね。ううむ、そういうのんはぁ結構好きかもしれません。ところでヴォカリーズてぇどんな語源なんでしょか。極単純にある一団の歌のグループとしか読み取れないのが 何故 ヴォカリーズとして特定の意味を持しゃうんやろか???

そう云えば伴奏法なるものがあるんと聞き及びましたが、なにしろ正規の音楽教育は一切うけとりまへんもんやからねぇ、音符をそのままピアノにしてるだけ…。
とにかく、何をやるにしても人より頭一つは抜け出しておきたい強欲の輩やさかいにねぇ、悩みは増える一方。
うんでもって 体重も増える一方。
忘年会シーズンなもんやから 無に帰しちゃってるんやけどねぇ、減量はじめましてんなぁ♪目標70kg…1割かぁ…フゥ~!!
なんやら瘠せるチョコレートてぇのがあるらしくて 試してみますわぁ。効果あれば ご報告させてもらいまっす♪
返信する
合唱曲 (bamaman)
2007-12-26 16:37:54
例えばベーやんの第九の最終楽章は 合唱でやしょうか?
オペラてぇのは どうしても物語性が強くて うんなもんだから台詞そのものが単旋律の歌の掛け合いみたいな構造になっちゃうんやろうかねぇ?!
それと観客が来てくれないと困るから とても庶民的で分り易い物語が必要になっちゃうのだろか?!
合唱曲は宗教的ニーズが元なんやろか?!だから、セイントに近づく…和声の神々しさ…なもんやから、合唱曲はどうしても3声4声5声になっていっちゃう。
どっちもポリフォニーなんやけど、ちょいと手法が違う様な気がすんにゃけんどねぇ???おいらには はっきりとは稚内!!

ピアノの2声3声はどちらかと言うとオペラ的かなぁ?!
返信する
オラトリオから (catmouse)
2007-12-27 23:14:58
オペラはオラトリオから派生したといわれてますね。
オラトリオというのはマタイ伝とか所謂キリスト教の物語を歌でつづった楽曲です。もともと西洋音楽はある神父様がお祈りを庶民にも覚えやすいため聖書の言葉にふしをつけたのが始まりなどといわれています。
合唱そのものはギリシャの時代からあって、神話の物語を語ったりしたのが始まり、つまりギリシャ劇のコロスです。
別ルートでアラビアのほうからギターなどの楽器とともに恋の歌が入ってきておりまして、オペラはそうした世俗の部分とオラトリオなどの聖なる部分が合体したものでありましょう。(間違ってないかな)
オペラやオラトリオで合唱はどう使われているかというと、物語の進行役だったり、世間の声だったり、主人公の心の声だったり、天上の啓示だったりします。

ベーヤンの第九はつまり、一番から8番までは人間の世界のもの、九番は神にささげるものといわれています。第九番シラーの詩の主題は「いままで厳しく分けられていたものが一つになる。その喜びを歌う」というもので、それゆえ、ベルリンの壁が壊されたとき歌ったんだそうです。
仏教的には悟りを得ると、嬉しくて踊りだしたくなるんだそうですが、第九はまさに神と人とがいったいとなったという悟りを得て、フロイデ!と歓びの声を上げるというわけで、原題は”An die Freude"歓喜の歌です。

それをね、なにか日本人は好きなんですよね。暮れになるとあっちこっちで第九をやっています。西洋では第九のコンサートなど毎年じゃないそうですよ。
返信する
第九のソプラノ (catmouse)
2007-12-27 23:24:14
実は世田谷区民合唱団ははじめ、第九を歌う会として招集され、歌い終わった後、このまま解散するのは惜しいとして合唱団が残ったのです。
だからか、けっこう毎年のように第九を歌っています。
ですがね、実を言うと、ソプラノをちゃんと歌える人というのは少ないんですよ。
何をかくそう、このcatmouseもAの17拍、つづきません。Bのフラットは声が出ません。
プロも第九の合唱部分はいやがります。
じゃあなんでベートーベンはこんなものを書いたのか。
ソプラノのパート部分、実はイメージは天上の音なんだそうです。最高音のところは宇宙的な音という注文がつきます。
鶏が絞め殺されそうな声なら出ますが、宇宙的というのはなんじゃいな、というわけで、出ません。無理です。
それを指揮者の田中先生は「無理しなくていいよ。あそこはヴァイオリンもなっているから、無理して硬い声を出さないで、何度息継ぎをしてもいいからやわらかく歌って」といいます。
これもまたむつかしいんですよね。ソプラノの最高音はお腹に力を入れて息を強く出さないと出ないんです。弱くすると出ない、もしくはかすれた声になります。てなわけで、これがまともに歌えるソプラノは世田谷区民合唱団ではごくわずか。
catmouseはできていません。
返信する
あ、そうそう (catmouse)
2007-12-27 23:41:02
なんでベートーベンがあんなものを書いたのか。

ネットなどで調べると、ベートーベンはいろいろ悩んでいたんだそうですね。言わずもがな。人生は苦悩に満ちていますから。
ところが、田園交響曲を書いたあたりから悩みから抜け出始めた、悟りを得つつあったというのです。
そして、最後に多分、空海なんかが開いた悟りと同じようなものを悟ったんでしょう。
宇宙即我というような。
生きとし生けるもの、ばらばらになって互いに奪い合ったり争ったりしているが、もともと一つのものであったということ、神からの分け御霊であるということを悟ったとたん、喜びにつつまれ、それを音楽にした、とこういうわけなんだそうです。シラーの詩には「これがわからんやつは泣いて去れ」という一節もあります。
で、下3声は人間の声。ソプラノは天上の声。
それでソプラノは人間離れをした声を要求されるわけです。多分。
返信する
べーやんの苦悩と (bamaman)
2007-12-28 02:54:50
悪魔のモーツァルト。
うん、こんな表題は如何?!

ベー様とモウちゃまが とある公園を散歩することになりましたとさ。
モウちゃまが”この公園を一周する間に 森からヒントを得て曲をそれぞれつくろうじゃぁないか。”とね。
一廻りしたとさ…モウちゃまは シンプォニ-3曲程発想されまして一方のべーやんは シンフォニーの最初の一音を発想されました。

べーやんの苦悩は理解できそうな気がしますねぇ。
その苦悩の行き先に【音!】があり、【空即我!】の境地。そして行き着く【天上のしらべ!】それは 荘厳の美。それは 余りにクリアーなAであり、C majorの宗教的な迄の響き。

モウちゃまは 悟りみたいなプロセスが吹っ飛んでいて いきなり音を鷲掴み出来ちゃう。それは 悪魔さえも踊りだす 快楽的でさえ有る軽快さ。気分を垣間見せる一瞬のminor。


モーツァルトの歌劇<魔笛>の”恋か女房があればいいが”の主題による12の変奏曲C major OP66 作曲べーやん … だから これは楽しいのであるぅ♪

なんの お話であったか???
そうなのだ!音という抽象的なものが 空間を創り出して そこに歌詞と融合して行く。少なくともクラシックてぇのは そういう昇華されるまでの手続きを取った音楽なのであろうなぁ?!

踊り 酒 恋 祖国 母なる大地 宇宙 太陽 空気 水の戯れ 風の舞 … 人間をとりまく 形而上、形而下…その全ての 総称が 音楽へと向かって行く様な…
ところがでんなぁ、小生には 神がいないのだなぁ!
神は滅んでしまった…ではなく、もともと 居なかったんだなぁ、小生には。
仏は 居そうなんだけどねぇ、だけど 音楽は 小生にはお供えものに ならんし、そうした宇宙的歓喜には 至らないんだす。
極めて現世的 そう、悲しいかな お酒の芳醇な味わいに留まってしますんだす。

ー酒か、涙か、ララ波止場が 滲む。
   夜霧の晩に 怪しい空気に ララ 不思議小僧が 踊りだすー

返信する

コメントを投稿