『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年
8 楚辞の世界
1 楚の国の盛衰
南方にあった楚の国は、春秋から戦国の時代を通しての大国であった。
春秋時代のはじめごろは、中原にくらべて文化もすすんでおらず、中原の人々からは、未開の異民族とみなされていた。
しかし前七世紀の末、荘王が立つにおよんで、その勢力は中原を圧し、ついに覇者(はしゃ)となった。
それより北の晋(しん)とならんで、南の楚は、天下の覇権をわけあった。
やがて江南の地に呉と越がおこり、新興のいきおいをもって、楚を圧迫する。
それも前五世紀のはじめに呉がほろび、ついで越もおとろえると、楚はふたたび勢力をもりかえした。
そうして戦国の時代となった。いぜんとして楚は、南の強国であった。
しかし、あらたに西方の強国として登場してきたのが、秦である。
楚をはじめとする六大国は、ともに連合して秦にあたるか(合従)、もしくは秦とよしみを通じて、自立をはかるか(連衡)、そのいずれかをえらばねばならなくなった。
しかし楚の国が、東方の強国として発展しつつある斉とむすぶときは、秦にとっても、あなどりがたい勢力となるであろう。
これを秦はおそれた。なんとかして両国の仲をさこうと、それこそ虚々実々の外交をくりひろげた。
このとき活躍したのが、張儀であった。
前四世紀の末、楚では懐(かい)王が立っている。
秦の使者として楚におもむいた張儀は、たくみに説いて、懐王をあざむき、楚と斉との同盟をやぶらせた。
そうして秦は、斉をうった。あざむかれておこった懐王は、秦を攻めたが、かえって敗れた。
またも張儀は楚におもむき、またも懐王をまるめこんで、楚と秦との和をむすばせた。
このとき屈原(くつげん)は、張儀をころすことを進言したという。
しかし、すでに張儀は去ったあとであった。
やがて秦の昭襄王は、楚に使者をおくって、会盟をしようと申しいれた(前二九九)。
懐王はでかけようとした。このときも屈原は、王がおもむくことに反対したという。
しかし懐王は、いさめを聞かなかった。かえって末子の子蘭(しらん)のすすめにしたがい、みずから秦へおもむいた。
それなり懐王は、もどらなかった。秦の兵にとらえられ、四年ののちには秦の地で死んでしまったのである。
楚の国では、やむなく太子を立てた。これが頃襄王(けいじょうおう)である。
末弟の子蘭(しらん)は、令尹(れいいん=楚の宰相)に任ぜられた。
屈原は、懐王の悲運をなげき、子蘭をにくんだ。
子蘭もまた、屈原をうとんじて、あしざまに王へうったえた。
ついに屈原は都から追われ、江南の地へ流された。
8 楚辞の世界
1 楚の国の盛衰
南方にあった楚の国は、春秋から戦国の時代を通しての大国であった。
春秋時代のはじめごろは、中原にくらべて文化もすすんでおらず、中原の人々からは、未開の異民族とみなされていた。
しかし前七世紀の末、荘王が立つにおよんで、その勢力は中原を圧し、ついに覇者(はしゃ)となった。
それより北の晋(しん)とならんで、南の楚は、天下の覇権をわけあった。
やがて江南の地に呉と越がおこり、新興のいきおいをもって、楚を圧迫する。
それも前五世紀のはじめに呉がほろび、ついで越もおとろえると、楚はふたたび勢力をもりかえした。
そうして戦国の時代となった。いぜんとして楚は、南の強国であった。
しかし、あらたに西方の強国として登場してきたのが、秦である。
楚をはじめとする六大国は、ともに連合して秦にあたるか(合従)、もしくは秦とよしみを通じて、自立をはかるか(連衡)、そのいずれかをえらばねばならなくなった。
しかし楚の国が、東方の強国として発展しつつある斉とむすぶときは、秦にとっても、あなどりがたい勢力となるであろう。
これを秦はおそれた。なんとかして両国の仲をさこうと、それこそ虚々実々の外交をくりひろげた。
このとき活躍したのが、張儀であった。
前四世紀の末、楚では懐(かい)王が立っている。
秦の使者として楚におもむいた張儀は、たくみに説いて、懐王をあざむき、楚と斉との同盟をやぶらせた。
そうして秦は、斉をうった。あざむかれておこった懐王は、秦を攻めたが、かえって敗れた。
またも張儀は楚におもむき、またも懐王をまるめこんで、楚と秦との和をむすばせた。
このとき屈原(くつげん)は、張儀をころすことを進言したという。
しかし、すでに張儀は去ったあとであった。
やがて秦の昭襄王は、楚に使者をおくって、会盟をしようと申しいれた(前二九九)。
懐王はでかけようとした。このときも屈原は、王がおもむくことに反対したという。
しかし懐王は、いさめを聞かなかった。かえって末子の子蘭(しらん)のすすめにしたがい、みずから秦へおもむいた。
それなり懐王は、もどらなかった。秦の兵にとらえられ、四年ののちには秦の地で死んでしまったのである。
楚の国では、やむなく太子を立てた。これが頃襄王(けいじょうおう)である。
末弟の子蘭(しらん)は、令尹(れいいん=楚の宰相)に任ぜられた。
屈原は、懐王の悲運をなげき、子蘭をにくんだ。
子蘭もまた、屈原をうとんじて、あしざまに王へうったえた。
ついに屈原は都から追われ、江南の地へ流された。