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3-8-1 楚辞の世界

2018-09-03 01:28:36 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

8 楚辞の世界

1 楚の国の盛衰

 南方にあった楚の国は、春秋から戦国の時代を通しての大国であった。
 春秋時代のはじめごろは、中原にくらべて文化もすすんでおらず、中原の人々からは、未開の異民族とみなされていた。
 しかし前七世紀の末、荘王が立つにおよんで、その勢力は中原を圧し、ついに覇者(はしゃ)となった。
 それより北の晋(しん)とならんで、南の楚は、天下の覇権をわけあった。
 やがて江南の地に呉と越がおこり、新興のいきおいをもって、楚を圧迫する。
 それも前五世紀のはじめに呉がほろび、ついで越もおとろえると、楚はふたたび勢力をもりかえした。
 そうして戦国の時代となった。いぜんとして楚は、南の強国であった。
 しかし、あらたに西方の強国として登場してきたのが、秦である。
 楚をはじめとする六大国は、ともに連合して秦にあたるか(合従)、もしくは秦とよしみを通じて、自立をはかるか(連衡)、そのいずれかをえらばねばならなくなった。
 しかし楚の国が、東方の強国として発展しつつある斉とむすぶときは、秦にとっても、あなどりがたい勢力となるであろう。
 これを秦はおそれた。なんとかして両国の仲をさこうと、それこそ虚々実々の外交をくりひろげた。
 このとき活躍したのが、張儀であった。
 前四世紀の末、楚では懐(かい)王が立っている。
 秦の使者として楚におもむいた張儀は、たくみに説いて、懐王をあざむき、楚と斉との同盟をやぶらせた。
 そうして秦は、斉をうった。あざむかれておこった懐王は、秦を攻めたが、かえって敗れた。
 またも張儀は楚におもむき、またも懐王をまるめこんで、楚と秦との和をむすばせた。
 このとき屈原(くつげん)は、張儀をころすことを進言したという。
 しかし、すでに張儀は去ったあとであった。
 やがて秦の昭襄王は、楚に使者をおくって、会盟をしようと申しいれた(前二九九)。
 懐王はでかけようとした。このときも屈原は、王がおもむくことに反対したという。
 しかし懐王は、いさめを聞かなかった。かえって末子の子蘭(しらん)のすすめにしたがい、みずから秦へおもむいた。
 それなり懐王は、もどらなかった。秦の兵にとらえられ、四年ののちには秦の地で死んでしまったのである。
 楚の国では、やむなく太子を立てた。これが頃襄王(けいじょうおう)である。
 末弟の子蘭(しらん)は、令尹(れいいん=楚の宰相)に任ぜられた。
 屈原は、懐王の悲運をなげき、子蘭をにくんだ。
 子蘭もまた、屈原をうとんじて、あしざまに王へうったえた。
 ついに屈原は都から追われ、江南の地へ流された。


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