『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
16 オスマン・トルコ
5 トルコ軍の花形
オスマン勢力の強大な軍事力の秘密は、どこにあったのだろうか。
こうして疑問をいだいたものが、すでに、いまから五百余年のむかしにあった。
イタリア人フランチェスコ・フィレルフォである。
かれは、オスマン・トルコの脅威におびえるコンスタンチノープルの城壁の一角にたたずんで、その思いにふけっていた。
オスマンの軍隊をこれほど強力にしたものは、いったい何なのか。――これが、かれの解こうとしていた謎であった。
そのあげく、かれは、解答をイェニチェリ軍団のなかに見い出した。
オスマン軍は、ごくはじめには騎兵だけから成っていた。
それがバルカン半島に進出すると、都市の攻撃や占領地域での駐屯、国境の警備などにあたる常備の歩兵軍団が必要になってきた。
そこで一つの方法として、ヨーロッパで征服した地域のキリスト教徒の子弟を、定期的に強制徴集してイスラムに改宗させ、厳格な軍事訓練をほどこした。
こうしてスルタンに絶対忠誠をちかう兵士にしたてあげたのち、スルタンの親衛隊に編入した。
これが、トルコの各種の歩兵軍団のうち、その精鋭をほこったイェニチェリ(新軍)軍団である。
徴集にあたっては、家柄がよくて健康、しかもハンサムで、うぶな独身者がえらばれた。
シラクモやタムシ(どちらも皮膚病)などの病気もちや、大都市に住んだことのあるすれっからし、商人の子弟などは除外された。
イェニチェリ兵は、スルタンの親衛兵であるだけでない。
身分としては奴隷で、スルタンの身辺の雑事をもおこない、一定の給与を支払われた。
この制度は、オスマンの軍隊を強化念せ、キリスト教臣民のイスラム化をおしすすめただけでなく、征服地のキリスト教徒をオスマン政権につなぎとめておく役割をも果たした。
なんとなれば、イェニチェリ兵は一種の人質でもあったからである。
イェニチェリ制は、キリスト教徒から「悪魔の思いつき」「人間税」として非難された。
しかし、その兵士はいろいろの特権をあたえられていた上に、宮廷にはいって高官につくものもあらわれたため、みずからすすんで子弟を提供するものもあった。
イェニチェリ軍団は、コンスタンチノープルの占領、エジプトの征服、ヨーロッパヘの遠征などに多くの武勲をたて、まさに、数あるオスマン軍団のなかでも、その花形であった。
しかし、それもせいぜい十七世紀前半までのことであった。
本来の選抜規定が守られなくなるにつれて、無頼の徒がこれに加わり、スルタンの廃立や政策に干渉し、反乱や紛争の種子(たね)をまくことが多くなってきたからである。
これは、忠実な働き蜂がひとたび狂いだすと、手に負えなくなるのに似ているともいえようか。
一八二六年、革新の意気にもえるマフムト二世がこれを廃止したのは、けだし当然の処置であった。
現在のトルコ語で「大鍋をひっくりかえす」というと、「反乱する」ことを意味する。
これはイェニチェリ軍団が、つねに野戦料理につかう大鍋を連隊旗がわりにもち歩き、不平不満がつのると反乱をおこして、この大鍋をひっくりかえし、大きい木匙(きさじ)でこれをたたいたことに由来している。
聖ルイズ・ド・マリアック修道女 St. Ludovica de Marillac, Vidua 記念日 3月 15日
カトリック教会はいつの時代にも、貧民病者その他救済を要する人々の間で、慈善のために働くことを人類の福利に資する己が事業中の珠玉と目して来た。かかる不幸な人たちに対するこの愛は、天主の浄配たる教会が、その聖なる創立者から、結納として贈られたものである。この博愛の活動は始め幾世紀の長い間、どちらかと言えば個人の手で多く行われたのであったが、後次第にこの方面の活動を旗印とするいろいろな信心会が出来、ついにはそういう修道会まで起こるに至ったのであった。
17世紀には聖ヴィンセンシオ・ア・パウロが博愛の姉妹会と称する、病者看護の大規模な一つの会を創設した。その協力者として大なる功労のあったのが、1934年3月11日ピオ11世教皇に列聖された、ルイズ・ド・マリアックである。
ルイズ・ド・マリアックは1591年、フランスのパリに生まれ、まだ幼い子供の頃、信心深い母親を失った。その内に父親は後妻を娶ったけれども。ルイズには深い愛情を示し、しっかりした教育を受けさせた。彼女の最も望むところは、我が身を全く天主に献げることであったが、指導司祭の勧告を容れて父の希望に添い、22歳の時王妃メディチのマリアの秘書官、アントニオ・ル・グラ伯の許に嫁ぎ、それから12年の間忠実に妻の務めを果たし、わけても夫が重病にかかり危篤に陥った折りなどは、誠意からその為に尽くした。そしてそのねんごろな介抱も甲斐なく伯が死ぬと、ルイズは即日教会に行って、告解・御聖体両秘跡を受けた後、余生を貧民救護に献げることを誓ったのであった。
その頃フランス全国の巡回説教に活躍していた聖ヴィンセンシオ・ア・パウロがは、旅行中さまざまの悲惨を目撃したところから、多くの都市にも田園にも、その教区教区の主任司祭の許可を得て、慈善事業の会を設けたが、それらの会を巡察保護するのに、ルイズ・ド・マリアックこそは天主から遣わされた打ってつけの人と彼は認め、これにその任を託した。
その内乙女でルイズの同志に加わる者も増えたので、自然と一つの修道会が出来上がった。これは「愛の処女」会と名づけられ、パリの大司教の認可を受けた。ルイズは会員たる乙女たちの慈愛深い母であった。それは聖ヴィンセンシオ・ア・パウロが彼女等の霊魂上の指導者であり父であったのと同様である。ヴィンセンシオは毎日彼女達の許へ拾った捨て子を連れてきたり、貧民病者を寄こしたりした。ルイズがこの世を去ったのは、1660年3月15日のことで、享年69歳であった。
今は愛徳姉妹会と呼ばれているその会は急速にフランス全土に広まり、またフランス大革命の時には多く国外に逃れなければならなかったので、他の国々にも広まった。かようにして今では約三千六百の修道院と約三万五千人の会員とを擁している。
かかる事業は、天主を蔑する共産主義が「神とあらゆる宗教の打倒」を旗印としている現代において特に、貧民や病者に対する真の愛は、之を扇動使嗾するところあらずして、之を愛し、犠牲を厭わず保護するところにあることを世に示す、重大な使命を持っているのである。
教訓
我等も聖女ルイズが困窮者のために博大な愛をもって尽くしたその働きに、些かなりとも倣うよう努めよう。何となれば聖ヤコボも言っている通り、真の宗教は「孤児寡婦をその困難に当たりて訪問すること」(ヤコボ1-27)であるからである。
カトリック教会はいつの時代にも、貧民病者その他救済を要する人々の間で、慈善のために働くことを人類の福利に資する己が事業中の珠玉と目して来た。かかる不幸な人たちに対するこの愛は、天主の浄配たる教会が、その聖なる創立者から、結納として贈られたものである。この博愛の活動は始め幾世紀の長い間、どちらかと言えば個人の手で多く行われたのであったが、後次第にこの方面の活動を旗印とするいろいろな信心会が出来、ついにはそういう修道会まで起こるに至ったのであった。
17世紀には聖ヴィンセンシオ・ア・パウロが博愛の姉妹会と称する、病者看護の大規模な一つの会を創設した。その協力者として大なる功労のあったのが、1934年3月11日ピオ11世教皇に列聖された、ルイズ・ド・マリアックである。
ルイズ・ド・マリアックは1591年、フランスのパリに生まれ、まだ幼い子供の頃、信心深い母親を失った。その内に父親は後妻を娶ったけれども。ルイズには深い愛情を示し、しっかりした教育を受けさせた。彼女の最も望むところは、我が身を全く天主に献げることであったが、指導司祭の勧告を容れて父の希望に添い、22歳の時王妃メディチのマリアの秘書官、アントニオ・ル・グラ伯の許に嫁ぎ、それから12年の間忠実に妻の務めを果たし、わけても夫が重病にかかり危篤に陥った折りなどは、誠意からその為に尽くした。そしてそのねんごろな介抱も甲斐なく伯が死ぬと、ルイズは即日教会に行って、告解・御聖体両秘跡を受けた後、余生を貧民救護に献げることを誓ったのであった。
その頃フランス全国の巡回説教に活躍していた聖ヴィンセンシオ・ア・パウロがは、旅行中さまざまの悲惨を目撃したところから、多くの都市にも田園にも、その教区教区の主任司祭の許可を得て、慈善事業の会を設けたが、それらの会を巡察保護するのに、ルイズ・ド・マリアックこそは天主から遣わされた打ってつけの人と彼は認め、これにその任を託した。
その内乙女でルイズの同志に加わる者も増えたので、自然と一つの修道会が出来上がった。これは「愛の処女」会と名づけられ、パリの大司教の認可を受けた。ルイズは会員たる乙女たちの慈愛深い母であった。それは聖ヴィンセンシオ・ア・パウロが彼女等の霊魂上の指導者であり父であったのと同様である。ヴィンセンシオは毎日彼女達の許へ拾った捨て子を連れてきたり、貧民病者を寄こしたりした。ルイズがこの世を去ったのは、1660年3月15日のことで、享年69歳であった。
今は愛徳姉妹会と呼ばれているその会は急速にフランス全土に広まり、またフランス大革命の時には多く国外に逃れなければならなかったので、他の国々にも広まった。かようにして今では約三千六百の修道院と約三万五千人の会員とを擁している。
かかる事業は、天主を蔑する共産主義が「神とあらゆる宗教の打倒」を旗印としている現代において特に、貧民や病者に対する真の愛は、之を扇動使嗾するところあらずして、之を愛し、犠牲を厭わず保護するところにあることを世に示す、重大な使命を持っているのである。
教訓
我等も聖女ルイズが困窮者のために博大な愛をもって尽くしたその働きに、些かなりとも倣うよう努めよう。何となれば聖ヤコボも言っている通り、真の宗教は「孤児寡婦をその困難に当たりて訪問すること」(ヤコボ1-27)であるからである。