カトリック情報 Catholics in Japan

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1ドル158円!急速な円安

2024-04-27 17:40:09 | 時事
 円安があまりに急速に進んでいます。資産防衛をしっかりとしておきましょう。未対策の方は、金を買うくらいのことはやっておきましょう。

 外貨との金利差から、円安は進む一方です。世界中の投資家は、タダ同然の金利で日本円を借り、それを高金利の外貨に換えて運用すれば、金利分が丸儲けだからです。そのたびに日本円が売られていきます。


 かといって金利を上げると、0.2%強の利上げで日本銀行は債務超過になり、米国並みに5%にすると108兆円の債務超過です。中央銀行の巨額で長期的な債務超過は、通貨の信用を毀損し、高インフレを招く恐れがある為、日銀は踏み切れずにいます。

 要するに、どの道、高いインフレリスクがあるのですが・・・

 そういうわけで、今後も日本で生きていくなら、適切な資産防衛は必須でありましょう。






自分の子に残すべきもの 聖ヨハネ・クリゾストモ

2024-04-27 16:33:20 | 格言・みことば
もし、あなたが自分の子供たちに多くの財産を残したいと思うなら、彼らを神の配慮に委ねなさい。彼らに残すべきは富ではなく、徳と技術である。もし彼らが富を期待することを学ぶならば、それ以外のことは気にしなくなり、その豊かな富は、彼らの道の邪悪さを選別する手段を与えるであろうから。

聖ヨハネ・クリゾストモ




9-3-1 イギリスのピューリタン革命

2024-04-27 15:04:19 | 世界史

『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
3 イギリスのピューリタン革命
1 北方の王

 一六〇三年三月二十四日、処女女王エリザベスが没すると、スコットランド王スチュアート家のジェームズ六世が血縁によって、ジェームズ一世としてイギリス王を兼ねることになった。
 当時、王はすでに三十六歳、経験に富み、プロテスタントエリザベスの没後、大陸からのカトリック教徒侵入のうわさにおののいていた国民は、新王を歓呼して迎えた。しかし、期待に反した国王であった。
 ジェームズは、若いころ、長老派の神学者として有名なブカナン(一五〇六~八二)から教育をうけ、古典、近代語、哲学、神学につうじていたが、イギリスにきて、いちばんのみこみにくいものは議会の存在であった。
 スコットランドにも議会はあったが、無力で、王権の単なる道具にすぎなかったのである。
 このため、王は、エリザベスのようにじょうずに議会を操縦することができなかったばかりか、議会そのものを否定する王権神授説のような、イギリス人になじめず、危険とも思われる思想を唱えた。
 スコットランドにいるとき、王は『自由なる君主国の真の法』(一五九八)という論文を書き、君主はあらゆる制限から自由であり、地上における神の代理で、議会の唯一の権限は勧告することであると主張した。そしてイギリス王に即位後、一六○九年、議会でつぎのような演説を行なった。
 「王が神とよばれるのは正しい。そのわけは、王が地上において神の権力にも似た権力を、ふるっているからである。王はすべての臣民のあらゆる場合の裁き手であり、しかも神以外の何ものにも責任を負わない。」

 ジェームズ一世は神経質、臆病な性格だったが、理論上ではずいぶん気が強かったわけだ。
 この王権神授説に対して、イギリス人民は抵抗の理論をもっていた。
 王権神授説が外来の新しい理論であったのに対し、これはイギリス古来のコモン・ローの理論である。

 コモン・ローは「普通法」などと訳されているが、地方的慣習法に対する「一般的慣習法」を意味し、イギリス古来の慣習や判例によって発達した法律のことである。
 当時、最大の法学者で、コモン・ロー裁判所の首席判事であったエドワード・コーク(一五五二~一六三四)は、コモン・ローこそ国王や議会などに優越する最高のものであるという立場をとった。
 そして「法の優越」を主張し、君主が法の上に立つというジェームズ一世の考え方に、まっこうから反対した。
 こうしてジェームズ一世は王権神授説を、人民はコモン・ローをそれぞれよりどころとして対立し、議会は両者の正面衝突の場所となって荒れた。
 王は二十二年の治世のあいだに議会を四回ひらいたが、議会で攻撃をうけて、都合が悪くなるとこれを解散し、ときには反対するものを投獄することさえした。
 一六二一年の第三議会のときのことである。
 ジェームズは、外交政策上の批判をうけると、外交は王の大権事項であり、「議会の特権はわが祖先の恩恵に由来する」と称して、外交論議を封じようとした。
 議会ではコーダらが、「抗議文」を発表して、主張する。
 「議会の特権は、イギリス臣民の昔からの疑うべがらざる生得権であり、遺産である。
 国王、国家、国防、国教会にかんする事項は、議会で論議するにふさわしい問題である。」
 争いははげしくなり、ついに議会が解散させられた。激怒しているジェームズは、さらに議会の記録の提出を命じ、抗議文をのせた部分をずたずたに引き裂いた。
 こうしてステュアート朝の議会は、これまでのデューター朝の「従順議会」に対し、「荒れる議会」ともいうべきものであった。
 この傾向は、一六二五年、ジェームズ一世のあとをついだチャールズ一世の治世になっても、改まるどころか、ますますひどくなった。
 王は容貌もすぐれ、威厳に満ち、ファン・ダイクやルーベンスを宮廷に招くなど、美術を愛したが、感情的で偏見がつよく、気がよく変わった。
 王は即位の年、最初の議会で、予定の七分の一しか課税が承認されないと、これを解散した。
 その後は議会の承認なくかってに関税をとりたて、富豪に献金を強い、ロンドンその他の港市に沿岸防備のためと称して、船舶や船員を提供することを命じた。
 これが「船舶税」である。
 もっとも人民を憤慨させたのは公債を強制したことで、これに応じなかった富豪が、王の令状一本で監禁された。
 王は経費節約のためには、兵士を世帯主の承諾なく民家に無料宿泊させ、また軍法を軍人ばかりでなく、一般人にもおよぼし、いたるところで人権が侵害された。
 しかし強制公債の募集がうまくゆかなかったため、チャールズ一世はやむなく一六二八年議会をひらいたが、議会ではコーダらが中心となって「権利の請願」を起草し、議会の決議として王に提出した。
 これは「我々の至高の主たる国王陛下に対し、議会に召集された聖俗の貴族ならびに庶民はうやうやしく奏上したてまつる」という「請願」の形式をとり、古い権利の確認をもとめたもので、新しい権利の承認をもとめたものではない。
「一 今後何人(なんびと)も、議会制定法による一般的な同意なしにはいかなる贈与、公債、献金、税金そのほか同種の負担をなし、あるいはこれに応ずるよう強制されない。
 二 いかなる自由人も理由を示さずに、拘禁または拘留されない。
 三 陛下は陸海軍兵士を立ち退かせ、陛下の人民は将来かかる重荷を負わされない。
 四 軍法による裁判についての命令書は取り消され、無効とされる。」

 「権利の請願」は、財産や人権を守ることを企図したもので、中世の「マグナ・カルタ」、名誉革命のときの「権利章典」とともに、イギリス憲政史で有名なものである。



聖ジタおとめ    St. Zita V. 

2024-04-27 08:39:15 | 聖人伝
聖ジタおとめ    St. Zita V.                           記念日 4月 27日



 聖女ジタはイタリアのモンテセグラディ村出身の貧しい両親の子と生まれた。父は早く世を去ったから、忘れ形見を育てる責任は、全くか弱い母の肩一つにかかった訳である。しかし信心深い彼女は、自分の言行を以て子供等に鑑を示し、彼等に敬虔を教え込む術をよく心得ていた。「祈り、且つ働け!」とは、ジタが幼いときから、母に殆ど口癖のように絶えず言われて来た言葉であった。それでジタはこの一句を深く心に銘記して、生涯忘れる時なく、聖徳を積む基礎としたのである。

 12歳になると彼女はルッカという町のさる高貴な家へ女中奉公に住み込んだ。あまりに謙遜で信心深い彼女の振る舞いは、始めかえって人々の軽蔑の種となり、随分邪険な取り扱いも受けたが、彼女は克己抑制、よく一切を耐え忍んだ。その内にその篤信、その従順、その忠実、その職務への熱心は、彼女に最後の勝利をもたらさずにはいなかった。人々はやがてジタを聖女の如く敬愛するようになったのである。
 ジタは忙しい中からミサ聖祭にあずかったり、祈りを献げたりするひまを作る為に、毎朝まだ暗い内から床を離れた。御聖体を拝領した時には、必ず主人一家の為にも祈ることを忘れなかった。彼女は彼等が奉公人である自分にとって聖い天主の代理者であると、硬く信じていたからである。
 夕方女中の務めを終えると、彼女は好んで聖書や信心書の類を読んだ。そしてどんなに暇な時でも決して自分の娯楽を求めなかった。彼女の最大の喜び、彼女の最大の慰めは、天主との霊交の外に無かったのである。
 仕事に取りかかる前に祈るのは言うまでもなく、働きの最中に於いても、ジタは絶えず天主の事を思うに努め、その為出来るだけしばしば短い射祷を唱えた。かくて彼女はその忠実さと勝れた責任感とで、その家の召使い一同の模範となり、いかなる命令にも不平や反抗がましいことは一切言わず、よくそれを果たし、塵ひとつも主人の家の物を私せず、また主人一族に対する悪口讒言などを決して聞き逃すことはなかった。

 ジタは憐れな女中の身分ながら、貧しき者悩める者にはいつも慈母のようであった。自分の得る乏しい報酬は殆ど残らずこれを貧民に施した。そして困窮の者を救う為には主人の許しを得て、自分の食べ物を節したことさえある。また主人の家の人々の着古した物などがあれば、衣服に事欠く人たちを喜ばせる為に、その破れたるを継ぎほころびたるを繕う労を少しも厭わなかった。
 この博大な貧民への愛には、天主も叡感あったのか、奇跡を以て報い給うた事も一再ならずあった。ある日の事である、病み衰えた一人の乞食がその家の門前に立て、一口の葡萄酒を求めた。しかしあいにく葡萄酒は少しもなかったので、ジタが仕方なく一杯の清水を与えると、相手はいかにも嬉しそうに舌鼓打って飲み始めた。見れば清水はいつのまにか、高価な葡萄酒に変わっていたのである。

 ジタはルッカ家にあること四十八年、終始変わらぬ誠を以て主人の家の為に尽くしたが、ようやく体力衰えて病みがちになるや主人は一切の仕事を免じ、ひたすら静養を免じた。しかしあくまで勤勉な彼女は「私が何もせずに死ぬのは耐えられません」と答えて、及ぶ限り仕事をやめなかったという。
 いよいよ永遠の安息に入る日が近づくと、彼女は感ずべき敬虔な態度で御聖体を受け、1272年4月26日、60歳を以てその生を終わった。彼女の墓に於いては無数の奇跡が起こり、為に教皇インノチェンチオ12世は、1696年ジタ列聖の盛儀を挙げられた。彼女は今も一般召使い奉公人達に保護の聖人として深く崇敬されている。

教訓

 「祈り、且つ働け!」とは聖女ジタ生涯のモットーであった。我等も祈りと働きをもって、忠実に我等の義務を果たそう。聖女ジタはかつて「天主を敬い、従順で仕事を愛し、之を忠実に果たすのは、奉公人としてこの上なく聖いことです」と言ったことがある。之は総て他人に仕える者の踏むべき道と言ってよい。この諭しをよく守るならば、必ずやあらゆる被造物の仕えるべき生死の支配者たる主から、報酬として永遠の幸福を与えられるであろう。









聖グリニヨン・ド・モンフォール  英知修道女会創立者 

2024-04-26 00:00:05 | 聖人伝
聖グリニヨン・ド・モンフォール  英知修道女会創立者    記念日 4月 26日

 

 「私はよい牧者で、よい牧者は羊のために命をあたえる。」(ヨハネ 10-11) 聖グリニヨンの生涯はこの福音の生き写しであった。「よい牧者」として人々の為に絶え間なく祈り、勉強し。一般の冷遇を忍耐しながら、典礼をもって、人々の信仰の熱をあおった。また、御聖体、十字架、聖母に特別の信心をつくし説教、賛美歌、著書などでこれらの信心を広めた。

聖グリニヨン・ド・モンフォールは、1673年、フランス北西部ブルターニュのモンフォール町に生まれた。敬虔な特の高い両親に育てられ、のち土地のイエズス会の学校に学んだ。品行、学業共に優秀だったので、学期末ごとに表彰された。
 哲学を終了してパリのサン・スピルス神学校に入学したが、そのすぐれた徳行はたちまち学生の模範となった。司祭に叙階されると、彼は海外布教を志望し、カナダへ出発しようとした。その時の教皇クレメンス11世の勧めに従い、ヤンセニストの異端すなわち、キリストは全人類の為に死ななかったとか、人間は神のおきてを全部果たすために十分な恩恵を与えられていないし、内的恩恵に抵抗することもできないとか主張する誤った説を反駁しながら、フランス西部地方のいなかを巡回布教した。

 「私はよい牧者で、わたしの羊を知っている」と聖書にあるとおり、グリニヨンは受け持ちの信者の気質、傾き、志望、困難、誘惑などを知り、これを導き、助け、慰め、励ましていた。黙想会などの時、一人でもこれに参加しない信者があれば、さっそく自分でその家をたずね、説得してこれを教会に連れ帰ってきた。
 グリニヨンは好んで人生の目的、罪、死、審判、天国、地獄などの大真理をはじめ、信心生活の根源である御聖体、十字架、聖母に対する信心について語った。頻繁な御聖体拝領は霊的ぜいたくだという厳格なヤンセニストに対して、彼はしばしばの御聖体拝領をすすめ、御聖体に親しみ、これを崇敬するため数多くの賛美歌をつくった。その一つに「ああ、わが心は御身をあえぎ望む、主よ、いずれのときにか、われに臨み給う。御身いまさずしては、わが心はさびしさにたえず。来たり給え、わが最愛なる魂の浄配よ」とある。

 グリニヨンは十字架を愛して、いつも胸にかけ、各家庭にもこれを飾るようにすすめていた。黙想会が終わると、その記念として野外の丘や人通りの多い街角に十字架を立てさせた「悩める者よ、汝の避難所はここにあり。もろびとよ来たれかし、来たりて神のつきざる宝をここに得よ。とこしえにイエズスに栄えあれ。またその十字架に誉れあれ」とはグリニヨンのつくった十字架称讃の一節である。
 また聖母をあつく信心したグリニヨンは、ロザリオの祈りを奨励し、イエズスに至るには聖母を経て行くのが一番近道であることを教えた。「イエズスの怒りをなだめるためには聖母の御取り次ぎにすがるのが最もよい。聖母のたもとに隠れて『見よ、汝の母を』と叫べば、イエズスの御怒りはすぐにもなごむ」と彼は歌っている。

 そのうえグリニヨンは「聖母マリアに対する真の信心」「聖母の秘密」などの名著を著して聖母の信心を広めた。しかしこのような布教は当時としては革新的であったため、すぐにこれを聖会の精神にもとる運動であるかのように非難した者がいた。のみならずかれを聖務執行禁止の懲戒処分に付した教区もあったくらいである。
 こうした人々の讒言、脅迫などにくじけず、かえった彼は「み名のためにはずかしめられるのに足者とされたことを喜びつつ」(使徒行録 5-41)布教に専念した。

 また彼は自分の事実を永続させるために宣教を目的としたマリア宣教会と貧困救済を目指す英知の童貞会を創立し、1716年、43歳の働き盛りで帰天した。