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9-2-7 ラ・ロシュフコー著作、肖像(ポルトレ)と箴言(マクシム)

2024-04-21 05:03:54 | 世界史

『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
2 ブルボン王朝余話、フランスの大政治家リシュリュー
7 ラ・ロシュフコー著作、肖像(ポルトレ)と箴言(マクシム)

 ラ・ロシュフコー公爵フフンソワ六世は、一六五八年、自分の肖像(ポルトレ)を書いている。
 これは当時のサロンで流行した一種の知的遊技であり、人物の容貌、性格などを機知にとんだ筆致で、簡潔に書いたもので、いわば文章による肖像画、自画像である。
 彼はまず自分の容貌をしるしたのち、気質といえば憂うつな性分(しょうぶん)だ、「三、四年このかた、私が笑ったところを、世間の人は三、四回見たことがあるか、ないかというところである」と書いている。
 それから、遠盧なくいって自分には才知がある、しかしその才知は憂うつの情によってくもっている、私をもっとも喜ばせる楽しみの一つは、教養ある人びとと会話することだ、また読書もすきだ、とつづけている。
 また彼は、自分は女性たちといっしょにいるとき、たいへん礼儀正しいことや、女性たちとの「一種の甘さがただよう」会話の楽しさや、「恋という偉大な感情のなかにある、あらゆる繊細で強力なもの」に対する共感などを語っている。
 こうしていかにもサロンの士にふさわしいラ・ロシュフコーは、たとえば午前中をマクシム(箴言=しんげん)の執筆にあて、やや早目の簡単な昼食をすませると、草稿をもって、なじみのサロンを訪れるのであった。
 マクシムは、当時のサロンの人士がポルトレとともに愛好したもので、人間の心理を分析し、それによって人間性を追求した結果を、簡潔な文章にまとめあげたものだ。
 それは心理主義的な傾向がつよいフランス文学史のなかにあっても、とくに生彩を放っている。
 ラ・ロシュフコーが一六五〇年代後半から六〇年代にかけて、とくに足を向けたのはサブレ夫人(一五九九~一六七八)のサロンであった。
 「なかばは信心深く、なかばは色気たっぷりな」この夫人は、ランブーイエ邸にも出入りしていたが、夫の死後、一六四〇年代からポール・ロワイヤル修道院にほど近い邸宅をサロンとして開放していた。
 そしてラ・ロシュフコーとラ・ファイエット夫人(一六三四~九三)との有名な交際は、一六五五年ごろから始まったといわれる。
 「毎朝、手紙をほしがるような人ならば、たとえ恋人でも私は関係をたってしまいます」
といったほど、手紙ぎらいであるにもかかわらず、実際上の用件にかんしては驚くほど筆まめな夫人、ラ・ファイエット伯というれっきとした夫がありながら、これと合意の別居生活をおくりつつ、ラ・ロシュフコーとの親交をつづけた夫人……。
 彼女の親友セビニエ夫人(一六二六~九六)は、つぎのように伝えている。
 「ラ・ファイエットさんはおからだが弱く、いつもお部屋にひきこもり、町を散歩なさることもめったにありませんでした。
 ラ・ロシュフコー殿も同様に、人なかへ出ないでお暮らしでした。
 こうしたわけで、お二人はたがいになくてはならぬものになったのです。
 お二人の友情の魅力と信頼とにくらぶべきものは、なにもありません……。」
 ともかく長い交際のあいだ、ラ・ロシュフコーは「真実なお方」とよんだこの夫人の邸宅を、しばしば訪れ、ともにモンテーニュを読み、パスカルを語り、夫人が執筆中の『クレーブの奥方』(一六七八)に助言をあたえ、自分のマクシムにそれをもとめたのである。
 二人の関係は恋愛とも、あるいはただの友情ともいわれる。
 今日という今日も、ボジラール街のはずれに馬車をとめた公爵は、痛風で不自由な身を杖にたくし、おちついた足取りで静かに歩をはこんでゆく。
 晩秋の日ははやかたむきはじめ、おりふしの冷たい北風が、公爵の足もとにサラサラと落ち葉を舞わせている……。
 ラ・ロシュフコーの代表作――というよりも、この一作をもって彼はフランスのみならず、世界の文学史に不朽の名をとどめているのだが――『箴言集(マクシム)』は一六六五年初版をだして以来、著者によって加筆、修正されながら、七八年第五版が刊行されるにおよび、決定的な形をとるにいたったといわれる。
 そして一六八〇年三月、ラ・ロシュフコーは六十六年余の人生を終えた。
 彼はかずかずのマクシムを整えるにあたり、サブレ夫人やラ・ファイエット夫人のみならず、サロンに集まる才芸豊かなオンネジトーム(紳士)やプレシューズ(淑女)たちの批判をも仰いだのであろう。
 そうすることによって、内容や表現も変わっていったことであろう。
 つまり『箴言集』は、サロンがうんだ作品ともいえよう。
 それから少し引用してみたい。
「我々の美徳は、まずたいてい、仮装せる悪徳にすぎぬ。」
「太陽と死は、じっと見つめられぬ。」
「人間の幸不幸は、運にもよるが、その人の気質にもよる。」
「沈黙とは、自信なき者のもっとも安全な手段なのである。」
「気の弱さ、こればかりは、どうにも直しようのない欠点だ。」
「人は、ふつう、誉(ほ)めてほしいから、誉めるのだ。」
「美徳は利害のなかに消え失せる。あたかも、河川が、大海のなかに消え失せるように。」
「一人の人間を知るより、人間一般を知るほうが、まだ楽なのだ。」
「人間、お互いにだまされ合っていなければ、この世に長く暮らしてはいけまい。」
ラ・ロシュフコーは老年に対して痛烈だ。
「女の地獄、それは老年だ。」
「老いを、弁(わきま)えている人は、少ない。」
「老いてますます盛んとは、狂気の沙汰だ。」(吉田浩氏の訳による)

 以上、目につくままに引用したが、その数六百をこえ、こうした痛烈で皮肉にとんだ言葉をつらねている『箴言集』に対して、「これは人間心情の機微(きび)を論じたもので、今日(こんにち)まで空前のものといいえよう」という当時の批評がある。
 これは現在でも、ある意味では通用するかもしれない。
 一方、当時から『箴言集』の著者はエゴイズムしか信じないと、批判された。たしかにそういう見方(みかた)もできよう。
 しかし著者は人間心理について、仮借のない分析を行ない、人間性の悪、弱さ、醜さをギリギリのところまで認識し、そしてうわべの人工的なものをのぞきさり、人間の純粋なものを見とどけようとしたのかもしれない。
 ともすれば美化されがちな人間性の現実を暴露することによって、人間の真の理解に近づこうとしたものともいえよう。
 こうした作家をフランス文学史上、とくにモラリストとよぶ。
 十七世紀ブルボン王朝下のフランスでは、コルネイユ(一六〇六~八四)、ラシーヌ(一六三九~九九)、モリエール(一六二二~七三)などの古典主義の劇作家や、デカルト(一五九六~一六五〇)、パスカル(一六二三~六二)らの思想家たちがあらわれている。
 しかしここでは十七世紀フランス貴族の一つの典型であり、サロン文化の一面を具現しているラ・ロシクフコーについて書いてみた。



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