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長崎の信徒発見記念日  BeataMaria Virgo de inventione christianorum

2024-03-17 21:49:39 | 聖人伝
長崎の信徒発見記念日  BeataMaria Virgo de inventione christianorum  記念日 3月 17日


 聖母マリアは世界各国の中でも、殊更我が国を愛し、その国民のため天国に於いても、特別の配慮を以て御子イエズスに執り成し給うのではなかろうか。我等はそう信じたい。そしてそう信ずる理由もあながちない訳ではないのである。

 400年前聖教がはじめて日本に伝来して以来、我が国民は始終聖母に対し絶大な尊敬を献げて来た。禁教時代の歴史を見ると、信者達が殉教の場へ臨むにはいつもロザリオを爪繰ったり、聖マリアのれんとうを唱えたり、或いは聖母が御自ら口にし給うた「マグニフィカト」を歌ったりしながら歩みを運んだと記してある。之によっても当時のカトリック信者が聖母マリアに対していかに深い信心を有していたかが察せられるであろう。

 フランシスコ・ザビエル師渡日この方、幾多宣教師の努力に依り、僅々五六十年間に百万の信者を得て、旭日昇天の隆々たる教勢にあった切支丹衆も豊臣秀吉に始まり徳川氏の治世に至って益々猛烈を極めた迫害の嵐に、殆ど跡形もなきまで殲滅され、三百年の久しきに及んだが、19世紀に至り教皇グレオリオ16世の命を奉じて勇敢な公教宣教師達は日本への再布教を試みるべく渡来した。しかし我が国の禁教は依然として堅く、上陸は絶対に許されなかったので、彼等はやむなく琉球の島に止まり、遙かに日本の空を眺めて空しく脾肉の嘆を漏らすより外はなかったのである。その時最初に派遣された宣教師フォカルド師がふと思いついたのは、この艱難の時に当たり聖母マリアに縋ってはどうかという事であった。そこで彼は聖母を日本の擁護者と仰ぐ事とし、その御心に六十余州を献げ、ひたすら御扶助を祈り求めたのであった。が、そのしるしらしいものは一向に現れず20年はいたずらに過ぎ去ったのである。

 ところが嘉永五年米使ペリーの黒船が浦賀に来てから徳川幕府の鎖国政策も破れ、安政三年に定められた通称条約により外人の信教の自由を認め教会堂の建築を許し、キリスト教侮辱を廃止する事になり、カトリック宣教師達もようやく素志を遂げて日本の地に上陸する事が出来るようになったのである。但し国民の切支丹宗を奉ずることは依然厳しく禁ぜられていたのであった。
 かくて慶応元年(西暦1865年)長崎の外人居留地に天主堂が建てられ、その2月19日落成献堂式が挙行されたが、越えて3月17日見物に来た人々の中から端なくも旧信者の子孫が発見されるという奇跡的な出来事が起こった。しかもその機縁となったのが天主堂の聖母像であった事も不思議ではないか。今当時の有様を偲ぶ為に、その頃の同天主堂主任司祭フランス人のプチジャン神父が、横浜駐在の教皇権代理ジラール師に送った報告書を以下に掲げて見たいと思う

 我が敬愛する師長足下
 余は謹んで師長に告ぐ、実に心の底より感謝し奉るべき事あり。余等の近傍に潜める日本の旧信者の子孫が不意に多く顕れたり。彼等は聖教の言い伝えを少なからずよく守れり。余は今その大要を記して足下に報ず。

 昨日正午十二時過ぎ、十四五名の老若男女聖堂の門に来たりしが、その様常の見物人とは思われず何やらん仔細ありげに見えたれば、余は直ちに門を開きて案内し、心ひそかに神の祝福を彼等の上に祈りつつ、中央祭壇の前に跪きて御聖体を伏し拝み、願わくは彼等の心を感動すべき力ある言葉を余の唇に与えて、この者らの中より主の礼拝者を得しめ給えと黙祷し、未だ主とう分一遍を唱え終わる隙もなく、四十歳あまりの婦人は余の傍らに来たりて跪き、胸に手を当て、壁にも耳あるを恐る恐る声をひそめて、ここに在る我等は皆貴師と同じ心なりとささやけり。余は此の言葉を聞きていたく驚き、まことか、卿等はいずこぞや、と問いしに、彼女は答えて、我等は皆浦上の者なり、浦上はおおむね皆我等と同じ心をもつと言い、続いて、聖マリアの御像はいずこに在りやと問いぬ。之を聞ける余の驚きと喜びとはいかばかりぞ。さては昔の信者の子孫なるか、天主の恵みかたじけなしと、深く心に謝し奉り、やがて聖母の御像の前に導けり。此の御像は足下が先にフランスよりもたらし給えるものに係る。彼等はその前に跪きて祈念する様子なりしが、余りの喜悦にや堪えざりけん。たちまち声を揚げて、げにげに聖マリアなり、見よ御子イエズスを抱き給えるぞ、と互いに叫び、その中の一人は進んで余に向かい、我等は霜月の二十五日に御主イエズスの誕生を祝う、御主イエズスはこの日の真夜中に厩舎の中に生まれ、貧苦艱難の間に成長し、三十三歳にして我等の霊魂を救わん為に十字架に罹りて死去し給いしと、我等は祖先より聞き伝えたり。今は正にその悲哀の節に当たる。貴師もまたこれらの典礼を守り給うか、と語り且つ問えり。余は覚えずそのものの側に近づき、如何にも、我等は今日その四旬節の第17日目にあり、と答うれば、彼等はなおイエズスの養父と呼びて聖ヨゼフのこと等をも語り出でぬ。その瞬間突如として他の日本人等の入り来れる足音聞けり。彼等はにわかに余が傍らを離れ、知らざる様にして此処かしこ眺めおりしが、やがて再び戻り来たり、今来し人等も恐るるに及ばず、我等が同村の者にて、また同心の人々なり、と告げぬ。されど尚他の見物人の来るに妨げられ、心のままに彼等と相語ること能わざれば、余は彼等と再会を約して袂を別ちぬ。思うに彼等は祖先よりの言い伝えに依りて、十字架の聖像を尊び、聖母の取り次ぎを求める祈りをとなえるも、その詳しき理由を知らざるならん。
 いずれ彼等と再会の上にて委細の状況は更に報告申すべし。 敬具
                                             1865年3月18日
                                    長崎に於いて      
                                     宣教師 ベルナルド・プチジャン

 かようにはからずも旧信者の子孫を発見した時のプチジャン師の喜びはどれほどであったろう。それにしてもその発見の端緒となったのが聖母マリアの聖像であった事を思い合わせれば、先にかのフォカルド師が弘化元年(西暦1844年)5月1日琉球に於いて聖母に立てた誓願が実を結び、聖マリアのお引き合わせにより、事に至ったのであろうと、その御恩の程もかたじけなく思われる次第である。







マリアは避難所の町

2024-03-17 21:48:54 | 格言・みことば
マリアは避難所の町です。だからマリアに避難しなさい。モーセは、うっかり隣人を殺してしまった人のために、3つの避難所を設けたとを私たちは知っています。今、主は故意に悪を犯す者のためにも、マリアという憐れみの避難所を設けられたのです。マリアは罪人のために避難所と力を与えてくださるのです。

パドアの聖アントニオ






8-16-7 栄華のあと

2024-03-17 21:32:28 | 世界史


『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
16 オスマン・トルコ
7 栄華のあと

 トプカプ宮殿はメフメト二世以後、スルタンの宮廷や住居としてつかわれたが、十九世紀の中頃、ボスフォラス海峡沿岸に、ベルサイユ宮殿を模したドルマ・パフチェ宮殿がたてられ、スルタンはそこへ移った。
 かってのトプカプ宮殿のありさまを眼前に彷彿(ぼうふつ)させるには、ハレムとともに、その財宝や織物や陶磁器や武器などの陳列室をおとずれねばならない。
 そこには、領内の各地からの献上品、外国君主からの贈りものとして、あるいは掠奪品として、さらには商品として、スルタンの手もとに集められた目もあやなる品のかずかずがある。スルタンや寵姫や王子たちの衣服、日用品などがある。
 これらを眼前にしたとき、オスマン帝国の強大さとスルタンの栄華とについて、思いをあらたにすることができるであろう。映画「トプカピ」や「007危機一髪」を見た人びとは、その一端をかいま見られたはずである。
 しかも、かってのトプカプ宮殿は、今日のこっている建物だけからなっていたのではない。
 以前にこの宮殿のなかにあった数多くの宮殿や離宮は、もはや見られなくなってしまっているのである。
 マルマラ海沿岸の木々の緑のあいだに、大理石の円柱、亜鉛のドームを持った宮殿や離宮が、まるで宝石の首飾りのように点在し、そのドームに反射する日の光は、目がくらむばかりであったという。

 これらを取りまく庭園では、噴水がこころよい水音をたて、そのそばにはしゃれた造りのあずまやがあり、各国から取り上せられたさまざまの果樹、トルコ人の愛好してやまぬチューリップやバラ、さらに媚薬(びやく)としてもちいられた一種の果樹が植えられて、庭園にいっそうの色彩をそえていた。
 それぞれの建物のなかには、いろいろな部屋があって、当代よりぬきの布で飾られていた。
 床はイランやエジプトなとがら献上された絨緞(じゅうたん)でおおわれ、季節ごとに敷きかえられた。
 天井は金箔を張った幾何学文様・花文様・葉文様の絵画で飾りたてられ、そこから水晶製のシャンデリヤが下げられていた。窓や扉には、うるわしいビロードのカーテンがかけられ、部屋には各国からもたらされたグリスクル・ガラス、金銀製の各種の容器、ザクロ石やエメラルドや真珠をちりばめた調度品がおかれていた。
 しかし今日では、これらの宮殿も離宮の多くも、もはやない。
 いや、遺跡さえものこっていないのである。
 我々は、スルタンたちの栄華、かれらの美女たちとのただれた戯(たわむ)れのあとを、ただ、幸いにのこった宮殿と離宮とハレム、そしてかれらの遺品などから想像しうるにすぎない。
 このようにイスタンブールの宮廷生活は、ハレムを中心として、ビザンチン帝国の皇帝たちの、ササン朝ペルシアのジャー(皇帝)たちの、そしてアッバース朝のカリフたちの豪華にして絢爛(けんらん)たる生活を、すべて一堂に集めたかのような形でくりひろげられていった。
 そこからは、もはやスレイマン一世以前のスルタンたちのたくましい姿は、まったく想像できない。
 スルタンたちがみずからイェニチェリ軍団を指揮せず、宮廷やハレムにとじこもる端緒をひらいたセリム二世以後、完成されたイスラム帝国、オスマン帝国が瓦解(がかい)していったとしても、不思議ではない。
 イスタンブールの宮廷の栄華は、そのなかに凋落(ちょうらく)の種子を宿していたのである。