『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
2 曹氏の一家
4 建安の七子
建安二十三年(二一七)、疫病がはやって、たくさんのひとが死んだ。
そのなかには、王粲(おうさん)・陳琳(ちんりん)・徐幹(じょかん)・応瑒(おうとう)・劉楨(りゅうてい)の五人の文士がふくまれている。
曹丕は知人たちに、そのことをかなしむ手紙をおくっているが、この五人に孔融(こうゆう)・阮瑀(げんう)の二人をくわえたのが、建安の七子である。あるいは曹操の根拠地の鄴(ぎょう)の名をとって、鄴下の七子ともよばれる。
この七人はいずれも個性あふれ、いかにも建安期を代表する人びとであった。
そのなかでいちばんの年長は、おそらく孔融(こうゆう)であろう。
孔子二十世の孫にあたる。
子供のときから、その神童ぶりを称せられていた。
「ちいさいときに利口なものは、大きくなってかならずりっぱな人間になるとはかぎらない」といわれた孔融少年は、ただちにやりかえした。
「ではおじさん、あなたはさぞかし神童だったのでしょうね。」
孔融は気ぐらいがたかく、つむじまがりで、偽悪家のところがあった。
世のなかの道徳にもなんとなく反対したくなる。このような風潮は魏(ぎ)から晋(しん)にかけて流行したが、孔融はその先駆者といえよう。
しかし曹操は、このような人物を必ずしもこのまない。
人気があるし、文章も上手だったので、部下にしておいたが、やがて大逆無道の罪をきせて殺してしまった。
この孔融を別格として、ほかの六人はほぽ同年齢であったのだろうが、いちばんはやく死んだのが阮瑀(げんう)である。
檄文(げきぶん)の作家としてすぐれていた。その子が竹林の七賢を代表する阮籍(げんせき)である。
瑀(う)の妻は、はやく夫に死なれたので、子供をかかえて苦労し、自殺をはかったこともある。
曹丕兄弟の作のなかには、彼女をなぐさめる詩が見られる。
陳琳(ちんりん)もやはり檄文を得意とした。
袁紹(えんしょう)にしたがっていたときは、曹操の悪口をさんざんにいったし、曹操の部下になると、こんどはほめる。
人格の上では感心できないが、こういう人は世間に多い。
王粲(おうさん)は記憶力のよい人で、魏の制度をつくるときには、その博識ぶりを役だてた。
文学の面でも、その特長をいかして「登楼賦」というのが有名である。
建安七子のなかで、いちばんの人格者は徐幹(じょかん)であった。
曹丕は、かれを恬淡(てんたん)無欲な人で、君子とはこういう人のことをいうのか、とほめている。
儒教をまなんで、思想家として『中論』をあらわした。文学作品の現存するものはすくないが、王粲とともに賦の名手であったとされる。
五言詩としては、遠くはなれた夫をおもう妻の心を、こまやかにつづった「室思」がある。
その一節――「山は高くそびえ、道ははるかである。あなたが旅立たれた日は、もう遠くに去った。
心はむすぼうれ、急に年をとったような気がする。人がこの世に生まれたのは、春の終わりの華のようだ。」
応瑒(おうとう)の家も、文化人の一家であった。弟の応璩(おうきょ)も、建安七子にこそはいっていないが、この時代を代表する詩人である。
そして劉楨(りょうてい)は、曹丕が『典論』のなかで、「壮にして密ならず」と批評している。
礼法にとらわれない、自由なふるまいが多い人であった。
建安七子は、このようにひとりひとりが、独自の雰囲気をもっている。
曹操はこれらの人をあつめて、自由に活躍させ、また文学についての討論をおこなわせた。
そうしたなかから、あたらしい文学がそだっていったのである。
2 曹氏の一家
4 建安の七子
建安二十三年(二一七)、疫病がはやって、たくさんのひとが死んだ。
そのなかには、王粲(おうさん)・陳琳(ちんりん)・徐幹(じょかん)・応瑒(おうとう)・劉楨(りゅうてい)の五人の文士がふくまれている。
曹丕は知人たちに、そのことをかなしむ手紙をおくっているが、この五人に孔融(こうゆう)・阮瑀(げんう)の二人をくわえたのが、建安の七子である。あるいは曹操の根拠地の鄴(ぎょう)の名をとって、鄴下の七子ともよばれる。
この七人はいずれも個性あふれ、いかにも建安期を代表する人びとであった。
そのなかでいちばんの年長は、おそらく孔融(こうゆう)であろう。
孔子二十世の孫にあたる。
子供のときから、その神童ぶりを称せられていた。
「ちいさいときに利口なものは、大きくなってかならずりっぱな人間になるとはかぎらない」といわれた孔融少年は、ただちにやりかえした。
「ではおじさん、あなたはさぞかし神童だったのでしょうね。」
孔融は気ぐらいがたかく、つむじまがりで、偽悪家のところがあった。
世のなかの道徳にもなんとなく反対したくなる。このような風潮は魏(ぎ)から晋(しん)にかけて流行したが、孔融はその先駆者といえよう。
しかし曹操は、このような人物を必ずしもこのまない。
人気があるし、文章も上手だったので、部下にしておいたが、やがて大逆無道の罪をきせて殺してしまった。
この孔融を別格として、ほかの六人はほぽ同年齢であったのだろうが、いちばんはやく死んだのが阮瑀(げんう)である。
檄文(げきぶん)の作家としてすぐれていた。その子が竹林の七賢を代表する阮籍(げんせき)である。
瑀(う)の妻は、はやく夫に死なれたので、子供をかかえて苦労し、自殺をはかったこともある。
曹丕兄弟の作のなかには、彼女をなぐさめる詩が見られる。
陳琳(ちんりん)もやはり檄文を得意とした。
袁紹(えんしょう)にしたがっていたときは、曹操の悪口をさんざんにいったし、曹操の部下になると、こんどはほめる。
人格の上では感心できないが、こういう人は世間に多い。
王粲(おうさん)は記憶力のよい人で、魏の制度をつくるときには、その博識ぶりを役だてた。
文学の面でも、その特長をいかして「登楼賦」というのが有名である。
建安七子のなかで、いちばんの人格者は徐幹(じょかん)であった。
曹丕は、かれを恬淡(てんたん)無欲な人で、君子とはこういう人のことをいうのか、とほめている。
儒教をまなんで、思想家として『中論』をあらわした。文学作品の現存するものはすくないが、王粲とともに賦の名手であったとされる。
五言詩としては、遠くはなれた夫をおもう妻の心を、こまやかにつづった「室思」がある。
その一節――「山は高くそびえ、道ははるかである。あなたが旅立たれた日は、もう遠くに去った。
心はむすぼうれ、急に年をとったような気がする。人がこの世に生まれたのは、春の終わりの華のようだ。」
応瑒(おうとう)の家も、文化人の一家であった。弟の応璩(おうきょ)も、建安七子にこそはいっていないが、この時代を代表する詩人である。
そして劉楨(りょうてい)は、曹丕が『典論』のなかで、「壮にして密ならず」と批評している。
礼法にとらわれない、自由なふるまいが多い人であった。
建安七子は、このようにひとりひとりが、独自の雰囲気をもっている。
曹操はこれらの人をあつめて、自由に活躍させ、また文学についての討論をおこなわせた。
そうしたなかから、あたらしい文学がそだっていったのである。