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4-1-5 三国の分立

2019-06-18 10:52:58 | 世界史
『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年

1 三国の分立
5 三国の分立

 敗れて北にかえった曹操は、長安の付近に残存している董卓(とうたく)の余党を平定し、漢中にいる五斗米道の徒を討伐するなど、戦争をつづけていた。
 また同時に、あたらしい王朝を樹立すること、すなわち革命の形式をととのえる準備もすすめていった。
 すでに建安十三年(二〇八)六月、後漢王朝は機構をあらためた。
 三公の官をやめ、あたらしく丞相(じょうしょう)をおいて、最高の官位とする。初代の丞相は曹操であった。
 十七年には、剣をおびたまま宮殿にはいってもよいなど、三つの特典があたえられた。
 その翌年、曹操は魏(ぎ)公に封(ほう)ぜられた。魏という国名は、ここに由来する。
 封地をおさめるためには官僚組織が必要である、ということから、漢の国内には後漢と魏の二つの政府ができあがった。
 名目上はともかく、実質上は後者の比重がおおきくなる。
 二十年には曹操の女(むすめ)が皇后に立てられ、曹氏はいちおう外戚ということになった。
 二十一年には魏王にすすんだ。位、人臣をきわめる、という言葉があるが、曹操は人臣の列から一段高いところにのぼったといってよい。
 だが、かれはついに死ぬまで天子の位にはのぼらなかった。
 祖父が宦官であったことを遠慮したものであろうか。
 さて赤壁の戦ののち、孫権も劉備もともに、荊州と、そしてさらに奥地の四川(しせん)盆地たる益(えき)州の領有をもくろんでいた。
 とくに、これまで領土をもっていない劉備にとっては、荊州を手に入れて、これを領土にしたいのぞみがつよかった。
 しかし揚州を支配下においている孫権も、国防の上から、むざむざと荊州を他人の手にわたすことはできない。
 そのうえ孫権のほうには、赤壁の戦での主力は、あくまでわれわれであったという自負心もある。
 そこで何回となく、外交交渉がくりかえされた。
 両者が直接に戦争をしなかったのは、魏につけこまれるのをおそれたからであろう。
 建安十五年(二一○)、劉備の荊州領有がみとめられた。
 劉備と、孫権の妹たる呉夫人が結婚したのも、このころであった。荊州のかたがつけば、つぎは益(えき)州である。
 益州を支配していた劉璋(りゅうしょう)は平凡な男であった。
 曹操が漢中の張魯(ちょうろ)を攻めにでむいてくるときくと、その軍がさらに南下して、益州に攻めこんでくるのではないかとおそれた。
 よって同姓のよしみで、劉備に援軍をもとめた。
 「たなからぼたもち」とはこのことであった。
 劉備は援軍の派遣を口実に、益州に兵を入れ、やがて本心をあらわして劉璋をせめた。
 孔明が説いた天下三分の計は、実現の一歩手前である。
 荊州の守備は関羽にゆだねられている。
 建安十九年(二一四)五月、劉璋は劉備に降伏を申しこんだ。これをきいておこったのが孫権である。
 かれは荊州をかえせと劉備に申しいれた。それがはねつけられると、こんどは曹操と同盟した。
 ついで関羽を攻めて、殺してしまい、荊州を占領した。建安二十四年(二一九)のことである。こうして中国は、黄河の流域(魏)における曹操、長江の上流(蜀)における劉備、おなじく中・下流(呉)の孫権と、三つに分割された。ただし形のうえでは、なお天下は後漢の皇帝が支配している。

 さて関羽の死んだのが十月、その翌年の一月には関羽の首が、洛陽にいた曹操のもとに送られた。
 それからまもなく、曹操は六十六歳で死んだ。魏王には太子の曹丕(そうひ)がのぼった。
 曹丕は魏王になると、二月には九品官人法(きゅうひんかんじんほう=中正官によって、九品にわけて人物を登用する法)を制定し、あたらしい王朝のための官吏の選択をおこなった。
 その基準は、曹操の実力主義をうけついだのである。
 そして十月、後漢の献帝は、ついに皇帝の位を曹丕にゆずった。
 王莽(もう)につぐ第二番目の禅譲(ぜんじょう)革命であった。年号を黄初という。
 十二月、都が鄴(ぎょう)から洛陽にうつされた。
 曹丕が即位したというしらせをきくと、劉備はつぎの年の四月、成都で即位した。そして漢王朝の正統はこちらであると宣言する。
 国号は「漢」というが、前漢や後漢と区別するために「蜀漢」または単に「蜀(しょく)」とよばれる。年号は章武であった。
 孫権は魏から呉王に封じられたが、魏の年号をそのまま使うことをきらって、黄武という年号をさだめた。
 かれが正式に帝位についたのは、魏の太和三年(二二九)四月のことで、都は建業(いまの南京)、年号は黄竜という。
 黄初・黄武・黄竜などと、しきりに黄という字がもちいられるが、これは黄巾の黄とおなじ発想であって、五行思想からくるのである。
 こうして秦の始皇帝の天下統一から、およそ四百年つづいた統一国家はほろび、つねに複数の王朝が並列する分裂時代をむかえることになった。

身体障害者の聖人 聖ヨゼフ・コトレンゴ、13

2019-06-18 03:51:16 | 聖ヨゼフ・コトレンゴ
『身体障害者の聖人 聖ヨゼフ・コトレンゴ』アロイジオ・デルコル神父、13

 まる一日のためにたっぷりのご馳走でした。

 では、み摂理は、どのようにしてこれを?

 近くで朝から演習があっていました。うまくいったので気をよくした大佐は、兵隊に慰労金を与え、11時から自由時間にしました。

 12時何分かまえ、馬車で兵隊の食糧を運んできた兵士たちに大佐は命じました、

「そうだ、コトレンゴ神父の所にもっていけ」と。

 大勢の男たちが、たびたびコトレンゴをとり囲みました。

「神父さま、どうしてくれますか?わたしたちに大損させる気ですか?」と、どなっているのを見ると、そして苦しげな神父の顔を見ると、ただごとではありません。そうです、借金とりにやって来た店の人たちでした。金がなくても、貧乏人のためにどんどん買っていたのですから、当然の結果です。はじめ信用していた人たちは、集金に来ても、なんか月も支払う金が一リラもないと、がまんできません。心配したり、怒ったり、どなったりして、いいました、

「あなたは、まさか破産したんじゃないでしょうな」。コトレンゴは、けんそんに、「おっしゃるとおりです。わたしは、めちゃくちゃにしてしまう無学な人間です」と答えました。

 ますますいきりたつ人々に、かれはことばを続けます、「でも安心してください、み摂理がちゃんと考えてくださいますから」と。

 借金とりに、さんざんやっつけられたある日のことです。コトレンゴは、一リラも払ってもらえずに仕方なく帰っていく人々を見送っていました。やがて、悲しい気もちをうちあけに、家に入っていきました。かれは、あらん限りの信頼をこめて、聖母のご像の前で祈りつづけました。

 ”店の人たちは、あれはど寛大な特別価格にしてくれたんだ。支払いがこんなに長びくとなると、わたしは、不正なことをしたんじゃないだろうか?店の人たちに堪忍袋の緒が切らせることになるのでは?・・・と、かれの心配は、次第に苦しくなっていきます。その心配をみんな御母に話して、コトレンゴは、祈りに祈りました。ついに祈りを終える時が来ました。聞いた目にキラリ!と映ったのがあります。聖母のご像の足もとに光っているのは、まぎれもない金貨!感激にふるえる手でかぞえてみると、なんと、、支払いにぴったりの金額!



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愛に燃えている霊魂 十字架の聖ヨハネ

2019-06-18 03:47:43 | 格言・みことば
愛に燃えている霊魂から、地上的なものが洗い落とされると、ただちに神的なものが、自然的にもその中に注ぎこまれるようになるのである。というのは元来何もない空白のままということはあり得ないからである。

十字架の聖ヨハネ 『カルメル山登坂』

聖ユリアナ修道女    St. Juliana Virg. 

2019-06-18 01:06:31 | 聖人伝
聖ユリアナ修道女    St. Juliana Virg.       記念日 6月18日



 聖ユリアナ童貞は、かの聖母の僕会の7人の創立者達がフィレンツェに男子修道院を起こした時、同じ目的で除し修道院を創めた人である。

 彼女は1270年イタリアの貴族ファルコニエリ家に生まれた。それまで長い間女子に恵まれなかった両親は、喜びのあまり一つの美麗な聖堂を建てて聖会に献げたが、それこそ今もユリアナの墓所として知られている至聖なる御告げの聖堂に他ならない。
 さてユリアナは独り子であったので、父母に手の中の玉といつくしまれて健やかに生い立ち、教育も殊更入念に聖教の旨に従って施されたが、16歳を迎えると、両親は彼女にしかるべき養子を取って家を継がせようとした。ところが生来信心深く、この世の財宝や快楽を望む心のないユリアナは、生涯身をイエズスの浄配として献げたいと、熱誠おもてに溢れて申し出たから、親も相談の上遂にその願いを聞き入れるに至った。かくて彼女は童貞の誓願を立て聖母の僕会の総長であるフィリポ・ベニチオからその第三会員に加わる事を許されたのである。
 それからユリアナは在家のまま、ベニチオに与えられた戒律に従って修道に励んだが、母の没後20年を経た頃、志を同じくする童貞女等数人と、始めて協同的修道生活を営む事とした。そして自分ではいつまでも姉妹達の末席に留まりたいと望んだものの、彼等のたっての懇望黙し難く、とうとう院長の重任を帯び、一院の慈母として全修女達の上を配慮し、実践躬行彼等に模範を垂れ、ある時はその婢の如くになって彼等の為に尽くした。なおユリアナはそれまで一定の会則がなかったのを憂えて、わが豊かな体験から適当な戒律を編纂し、教皇マルチノ5世に送って認可を受け、また姉妹達の修道服をも制定した。
 ユリアナは慈善の業を非常に重んじ、戒律の中にも之を加えた外に、しばしば自分で、或いは暇のない場合には部下の修女を遣って、フィレンツェ市中の病人を慰問した。苦行に対してもたぐいまれな熱心を示し、例えば大斉の如きも、毎週水曜と金曜とには全然食物を摂らず、土曜にも僅かしか摂らぬという風に徹底的に行った。そして祈りに就いては、会則に定めてあるだけでは足れりとせず、自ら進んで様々の祈りを献げるのであった。
 かように克己修道に努めること37年、71歳の老齢に達した彼女は、胃を病んで危篤に陥った。吐瀉が激しいので御聖体拝領も許されなかったが、その切なる願いにより司祭はせめてもの心やりに、仰臥している彼女の胸に白布をかけ、その上に至聖なる御聖体を載せてやった。ユリアナは恭しくそれを礼拝しつつ霊的に御聖体の主と一致し、喜びの色をたたえながら安らかに息を引き取った。それは1341年の6月19日のことであった。
 後人々は聖女の遺骸を洗おうとした時、その胸にくっきりと丸い御聖体の形が、それに描かれている十字架までも明らかに印せられているのを見いだしたという。

教訓

 我等は聖女ユリアナから、望みの御聖体拝領、及び臨終の御聖体拝領を重んずべき事に就いて学びたい。公教要理には臨終の御聖体拝領を、年に一度の御復活日頃の御聖体拝領と同様欠くべからざる義務として命じている。これを共に拒む者は大罪を免れぬ。されば我等は命の危うきに臨んだら是非その務めを果たそう。死の前に御聖体を拝領し、侵犯者イエズスと和らいで世を去るならば、その審判の庭に出ても必ず寛大な御宥恕の恵みに浴し得るに相違ない。


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