『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
1 三国の分立
5 三国の分立
敗れて北にかえった曹操は、長安の付近に残存している董卓(とうたく)の余党を平定し、漢中にいる五斗米道の徒を討伐するなど、戦争をつづけていた。
また同時に、あたらしい王朝を樹立すること、すなわち革命の形式をととのえる準備もすすめていった。
すでに建安十三年(二〇八)六月、後漢王朝は機構をあらためた。
三公の官をやめ、あたらしく丞相(じょうしょう)をおいて、最高の官位とする。初代の丞相は曹操であった。
十七年には、剣をおびたまま宮殿にはいってもよいなど、三つの特典があたえられた。
その翌年、曹操は魏(ぎ)公に封(ほう)ぜられた。魏という国名は、ここに由来する。
封地をおさめるためには官僚組織が必要である、ということから、漢の国内には後漢と魏の二つの政府ができあがった。
名目上はともかく、実質上は後者の比重がおおきくなる。
二十年には曹操の女(むすめ)が皇后に立てられ、曹氏はいちおう外戚ということになった。
二十一年には魏王にすすんだ。位、人臣をきわめる、という言葉があるが、曹操は人臣の列から一段高いところにのぼったといってよい。
だが、かれはついに死ぬまで天子の位にはのぼらなかった。
祖父が宦官であったことを遠慮したものであろうか。
さて赤壁の戦ののち、孫権も劉備もともに、荊州と、そしてさらに奥地の四川(しせん)盆地たる益(えき)州の領有をもくろんでいた。
とくに、これまで領土をもっていない劉備にとっては、荊州を手に入れて、これを領土にしたいのぞみがつよかった。
しかし揚州を支配下においている孫権も、国防の上から、むざむざと荊州を他人の手にわたすことはできない。
そのうえ孫権のほうには、赤壁の戦での主力は、あくまでわれわれであったという自負心もある。
そこで何回となく、外交交渉がくりかえされた。
両者が直接に戦争をしなかったのは、魏につけこまれるのをおそれたからであろう。
建安十五年(二一○)、劉備の荊州領有がみとめられた。
劉備と、孫権の妹たる呉夫人が結婚したのも、このころであった。荊州のかたがつけば、つぎは益(えき)州である。
益州を支配していた劉璋(りゅうしょう)は平凡な男であった。
曹操が漢中の張魯(ちょうろ)を攻めにでむいてくるときくと、その軍がさらに南下して、益州に攻めこんでくるのではないかとおそれた。
よって同姓のよしみで、劉備に援軍をもとめた。
「たなからぼたもち」とはこのことであった。
劉備は援軍の派遣を口実に、益州に兵を入れ、やがて本心をあらわして劉璋をせめた。
孔明が説いた天下三分の計は、実現の一歩手前である。
荊州の守備は関羽にゆだねられている。
建安十九年(二一四)五月、劉璋は劉備に降伏を申しこんだ。これをきいておこったのが孫権である。
かれは荊州をかえせと劉備に申しいれた。それがはねつけられると、こんどは曹操と同盟した。
ついで関羽を攻めて、殺してしまい、荊州を占領した。建安二十四年(二一九)のことである。こうして中国は、黄河の流域(魏)における曹操、長江の上流(蜀)における劉備、おなじく中・下流(呉)の孫権と、三つに分割された。ただし形のうえでは、なお天下は後漢の皇帝が支配している。
さて関羽の死んだのが十月、その翌年の一月には関羽の首が、洛陽にいた曹操のもとに送られた。
それからまもなく、曹操は六十六歳で死んだ。魏王には太子の曹丕(そうひ)がのぼった。
曹丕は魏王になると、二月には九品官人法(きゅうひんかんじんほう=中正官によって、九品にわけて人物を登用する法)を制定し、あたらしい王朝のための官吏の選択をおこなった。
その基準は、曹操の実力主義をうけついだのである。
そして十月、後漢の献帝は、ついに皇帝の位を曹丕にゆずった。
王莽(もう)につぐ第二番目の禅譲(ぜんじょう)革命であった。年号を黄初という。
十二月、都が鄴(ぎょう)から洛陽にうつされた。
曹丕が即位したというしらせをきくと、劉備はつぎの年の四月、成都で即位した。そして漢王朝の正統はこちらであると宣言する。
国号は「漢」というが、前漢や後漢と区別するために「蜀漢」または単に「蜀(しょく)」とよばれる。年号は章武であった。
孫権は魏から呉王に封じられたが、魏の年号をそのまま使うことをきらって、黄武という年号をさだめた。
かれが正式に帝位についたのは、魏の太和三年(二二九)四月のことで、都は建業(いまの南京)、年号は黄竜という。
黄初・黄武・黄竜などと、しきりに黄という字がもちいられるが、これは黄巾の黄とおなじ発想であって、五行思想からくるのである。
こうして秦の始皇帝の天下統一から、およそ四百年つづいた統一国家はほろび、つねに複数の王朝が並列する分裂時代をむかえることになった。
1 三国の分立
5 三国の分立
敗れて北にかえった曹操は、長安の付近に残存している董卓(とうたく)の余党を平定し、漢中にいる五斗米道の徒を討伐するなど、戦争をつづけていた。
また同時に、あたらしい王朝を樹立すること、すなわち革命の形式をととのえる準備もすすめていった。
すでに建安十三年(二〇八)六月、後漢王朝は機構をあらためた。
三公の官をやめ、あたらしく丞相(じょうしょう)をおいて、最高の官位とする。初代の丞相は曹操であった。
十七年には、剣をおびたまま宮殿にはいってもよいなど、三つの特典があたえられた。
その翌年、曹操は魏(ぎ)公に封(ほう)ぜられた。魏という国名は、ここに由来する。
封地をおさめるためには官僚組織が必要である、ということから、漢の国内には後漢と魏の二つの政府ができあがった。
名目上はともかく、実質上は後者の比重がおおきくなる。
二十年には曹操の女(むすめ)が皇后に立てられ、曹氏はいちおう外戚ということになった。
二十一年には魏王にすすんだ。位、人臣をきわめる、という言葉があるが、曹操は人臣の列から一段高いところにのぼったといってよい。
だが、かれはついに死ぬまで天子の位にはのぼらなかった。
祖父が宦官であったことを遠慮したものであろうか。
さて赤壁の戦ののち、孫権も劉備もともに、荊州と、そしてさらに奥地の四川(しせん)盆地たる益(えき)州の領有をもくろんでいた。
とくに、これまで領土をもっていない劉備にとっては、荊州を手に入れて、これを領土にしたいのぞみがつよかった。
しかし揚州を支配下においている孫権も、国防の上から、むざむざと荊州を他人の手にわたすことはできない。
そのうえ孫権のほうには、赤壁の戦での主力は、あくまでわれわれであったという自負心もある。
そこで何回となく、外交交渉がくりかえされた。
両者が直接に戦争をしなかったのは、魏につけこまれるのをおそれたからであろう。
建安十五年(二一○)、劉備の荊州領有がみとめられた。
劉備と、孫権の妹たる呉夫人が結婚したのも、このころであった。荊州のかたがつけば、つぎは益(えき)州である。
益州を支配していた劉璋(りゅうしょう)は平凡な男であった。
曹操が漢中の張魯(ちょうろ)を攻めにでむいてくるときくと、その軍がさらに南下して、益州に攻めこんでくるのではないかとおそれた。
よって同姓のよしみで、劉備に援軍をもとめた。
「たなからぼたもち」とはこのことであった。
劉備は援軍の派遣を口実に、益州に兵を入れ、やがて本心をあらわして劉璋をせめた。
孔明が説いた天下三分の計は、実現の一歩手前である。
荊州の守備は関羽にゆだねられている。
建安十九年(二一四)五月、劉璋は劉備に降伏を申しこんだ。これをきいておこったのが孫権である。
かれは荊州をかえせと劉備に申しいれた。それがはねつけられると、こんどは曹操と同盟した。
ついで関羽を攻めて、殺してしまい、荊州を占領した。建安二十四年(二一九)のことである。こうして中国は、黄河の流域(魏)における曹操、長江の上流(蜀)における劉備、おなじく中・下流(呉)の孫権と、三つに分割された。ただし形のうえでは、なお天下は後漢の皇帝が支配している。
さて関羽の死んだのが十月、その翌年の一月には関羽の首が、洛陽にいた曹操のもとに送られた。
それからまもなく、曹操は六十六歳で死んだ。魏王には太子の曹丕(そうひ)がのぼった。
曹丕は魏王になると、二月には九品官人法(きゅうひんかんじんほう=中正官によって、九品にわけて人物を登用する法)を制定し、あたらしい王朝のための官吏の選択をおこなった。
その基準は、曹操の実力主義をうけついだのである。
そして十月、後漢の献帝は、ついに皇帝の位を曹丕にゆずった。
王莽(もう)につぐ第二番目の禅譲(ぜんじょう)革命であった。年号を黄初という。
十二月、都が鄴(ぎょう)から洛陽にうつされた。
曹丕が即位したというしらせをきくと、劉備はつぎの年の四月、成都で即位した。そして漢王朝の正統はこちらであると宣言する。
国号は「漢」というが、前漢や後漢と区別するために「蜀漢」または単に「蜀(しょく)」とよばれる。年号は章武であった。
孫権は魏から呉王に封じられたが、魏の年号をそのまま使うことをきらって、黄武という年号をさだめた。
かれが正式に帝位についたのは、魏の太和三年(二二九)四月のことで、都は建業(いまの南京)、年号は黄竜という。
黄初・黄武・黄竜などと、しきりに黄という字がもちいられるが、これは黄巾の黄とおなじ発想であって、五行思想からくるのである。
こうして秦の始皇帝の天下統一から、およそ四百年つづいた統一国家はほろび、つねに複数の王朝が並列する分裂時代をむかえることになった。