『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
1 三国の分立
10 道教の成立
太平道や五斗米道(ごとべいどう)は、病気をなおしてやるということを教えの中心にして、農民のあいだにひろがっていった。太平道は後漢王朝の攻撃をうけて、教団組織は分解してしまったが、五斗米道は四川の北部に三十年間も教勢をたもった。しかし曹操の攻撃をうけて江西省にうつり、天師道と名をかえる。
これとは別に、戦国時代から知識階級のあいだにひろまっていたものに、不老不死を追求する神仙の思想があった。
これらのものが結合して、道教へと発展してゆくのである。そこで道教は、徹底して現世の利益(りやく)をもとめる性格をおびている。
また道教には、キリストやシャカやマホメットというような、特定の教祖なり、開祖がいない。
老子を教祖とする人もあるが、それは道教が成立してからあとに、老子の教えのなかに、多少なりとも道教のにおいがあるところから、つくりだされたものにすぎない。
宗教を一神教と多神教とにわけるとすれば、道教は多神教である。
したがって、神々の全体を紹介することはできない。いくつかの神をながめてみよう。
老子は太上(たいじょう)老君となり、ときには最高神としてたっとばれる。
蜀の名将の関羽、あのうつくしいひげをもった武将も、いつのころからか財神となって、道教のなかで、もっとも人気ある神となった。
いまでも華僑(かきょう)のいるところには、かならずといってよいほど、関羽をまつった関帝廟がある。
不老不死、これは人間のひとつの願望であるが、現世の利益に徹した道教にとっては、とくにこれがおもんぜられた。
それで人間の寿命をあつかう神が、いくつか考えられてくる。第一は司過(しか)の神である。
あやまちを看視する神という意味で、第二の三台という神とともに、星を神格化したものとされる。
星の信仰は中国では古くからあったようである。
第三の神も星であるが、これは前の二つとはちがって、はっきり名前がわかっている。
北の空に輝く北斗星である。第四は三尸(さんし)といって、人間の体内にすんでいる虫である。
これは頭と腹と足にいて、人間の死ぬのを待っている。
人間のおかしたあやまちをさがしていて、庚申(こうしん=かのえ・さる)の日に人間の体内から出て天にのぽり、天帝にうったえる。
そこで庚申の日には、お祭りをして、三尸が天にのぼらないようにする。
第五は、かまど(へっつい)の神である。
これは年末に天にのぼって、その家の人間の一年間の成績を報告する。
それで年末になると、かまどの神を祭るのである。
いま、人間のあやまちとか、成績とか言ったが、道教には功過格(こうかかく)というものがあって、人間の行為が、すべてプラス(功)とマイナス(過)とで示される。
たとえば、妻や子ばかりを大切にして、両親をそまつにすると、マイナス百点、親の名をあげるとプラス五十点、他人にたのまれて離縁状を書くとマイナス五十点、字が書いてある紙を焼きすてるとプラス一点、他人の結婚をぶちこわすとマイナス百点、美人が見えても、これを見つめないとプラス五点、こういうぐあいである。
功が何点かになれば仙人になれるが、それは単なる足し算や引き算ではない。
マイナスが一つでもあれば、プラスは帳消しになるので、仙人になるのはむずかしい。
仙人になる道は、そのほか精神的肉体的な術がいろいろあり、むずかしいことが多いのである。
1 三国の分立
10 道教の成立
太平道や五斗米道(ごとべいどう)は、病気をなおしてやるということを教えの中心にして、農民のあいだにひろがっていった。太平道は後漢王朝の攻撃をうけて、教団組織は分解してしまったが、五斗米道は四川の北部に三十年間も教勢をたもった。しかし曹操の攻撃をうけて江西省にうつり、天師道と名をかえる。
これとは別に、戦国時代から知識階級のあいだにひろまっていたものに、不老不死を追求する神仙の思想があった。
これらのものが結合して、道教へと発展してゆくのである。そこで道教は、徹底して現世の利益(りやく)をもとめる性格をおびている。
また道教には、キリストやシャカやマホメットというような、特定の教祖なり、開祖がいない。
老子を教祖とする人もあるが、それは道教が成立してからあとに、老子の教えのなかに、多少なりとも道教のにおいがあるところから、つくりだされたものにすぎない。
宗教を一神教と多神教とにわけるとすれば、道教は多神教である。
したがって、神々の全体を紹介することはできない。いくつかの神をながめてみよう。
老子は太上(たいじょう)老君となり、ときには最高神としてたっとばれる。
蜀の名将の関羽、あのうつくしいひげをもった武将も、いつのころからか財神となって、道教のなかで、もっとも人気ある神となった。
いまでも華僑(かきょう)のいるところには、かならずといってよいほど、関羽をまつった関帝廟がある。
不老不死、これは人間のひとつの願望であるが、現世の利益に徹した道教にとっては、とくにこれがおもんぜられた。
それで人間の寿命をあつかう神が、いくつか考えられてくる。第一は司過(しか)の神である。
あやまちを看視する神という意味で、第二の三台という神とともに、星を神格化したものとされる。
星の信仰は中国では古くからあったようである。
第三の神も星であるが、これは前の二つとはちがって、はっきり名前がわかっている。
北の空に輝く北斗星である。第四は三尸(さんし)といって、人間の体内にすんでいる虫である。
これは頭と腹と足にいて、人間の死ぬのを待っている。
人間のおかしたあやまちをさがしていて、庚申(こうしん=かのえ・さる)の日に人間の体内から出て天にのぽり、天帝にうったえる。
そこで庚申の日には、お祭りをして、三尸が天にのぼらないようにする。
第五は、かまど(へっつい)の神である。
これは年末に天にのぼって、その家の人間の一年間の成績を報告する。
それで年末になると、かまどの神を祭るのである。
いま、人間のあやまちとか、成績とか言ったが、道教には功過格(こうかかく)というものがあって、人間の行為が、すべてプラス(功)とマイナス(過)とで示される。
たとえば、妻や子ばかりを大切にして、両親をそまつにすると、マイナス百点、親の名をあげるとプラス五十点、他人にたのまれて離縁状を書くとマイナス五十点、字が書いてある紙を焼きすてるとプラス一点、他人の結婚をぶちこわすとマイナス百点、美人が見えても、これを見つめないとプラス五点、こういうぐあいである。
功が何点かになれば仙人になれるが、それは単なる足し算や引き算ではない。
マイナスが一つでもあれば、プラスは帳消しになるので、仙人になるのはむずかしい。
仙人になる道は、そのほか精神的肉体的な術がいろいろあり、むずかしいことが多いのである。