『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
2 曹氏の一家
2 文化人曹操
「宦官というものは、現実の宮廷政治からいって、なくてはならぬものである。ただし宦官は政治に関与させてはならない。」
宦官の撲滅(ぼくめつ)論がおこったとき、このように曹操は述べた。
ときに三十五歳であったが、儒教にもとづく公式的な反宦官論とは、おのずから異なっている。
曹操は、じぶんの祖父や父のしたことを、そのまま肯定していたのではなかった。
また、かれの賢才主義は、売官による出世をみとめなかったであろう。
いつのころからか曹嵩(そうすう)は、長子の操とはなれ、末子とくらしていたが、漢末の混乱期にあたって、陶謙(とうけん)という者にころされた。
信念はちがい、行動に反対はしても、肉親の情はたちきれぬものがある。
曹操は、父をころした陶謙をうらみ、復讐のいくさをおこした。
また、祖父や父の悪口をかいた陳琳(ちんりん)が、かれのもとに降参してきたとき、苦笑しながら言ったという。
「おれの悪口はいくら言ってもかまわぬが、先祖をひきあいに出さなくとも。」
曹操は機知にとみ、権謀をめぐらし、放蕩(ほうとう)で、素行のおさまらない少年であった。
いわゆる優等生型の子供ではない。
しかし人物批評にすぐれていた人びとは、かれを「治世の能臣(のうしん)、乱世の姦雄(かんゆう)」とか、
「天下まさにみだれんとす、命世(めいせい)の才(さい)にあらずんばすくうあたわず、よくこれを安んずるものは、それ君にあるか」などと評していた。
ところで、この姦雄という言葉は、かれの生涯をとおして、いやそれどころか、死んでから千七百年以上もたった現在にいたるまで、語りつがれている。
このような曹操観をうえつけたのは、小説『三国志演義(さんごくしえんぎ)』であり、中国の歌舞伎にでもあたる京劇(きょうげき)であった。
こうした小説や演劇のなかで、曹操は悪玉としてえがかれ、善玉の劉備や孔明や関羽や張飛をうきださせている。
『三国志演義』は元禄時代にわが国へ紹介され、のちに葛飾北斎がさし絵をかき、日本人のあいだにも悪玉としての曹操像を定着させていった。
しかし、こうした先入観をはなれて曹操をみると、かれは政治家として一流であり、また中国の文学史上に大きな足跡をのこした文化人でもあった。
曹操(そうそう)は陣中にあっても、かたときも手から書物をはなしたことがなかったと、子の曹丕(そうひ)のおもいで話の一節にある。
とくに曹操が兵法の書『孫子』にほどこした注は、いまでも重んぜられている。
兵法だけではなく、その座右には儒教の経典(けいてん)もおかれていた。さらに、おりにふれては詩をつくった。
そもそも曹操が生まれた後漢時代に、文学の主流をなすものは「賦(ふ)」であった。
賦は、はなやかな文字をつらね、韻(いん)をふんだ美文で、宮殿の壮大さ、狩猟の豪華さ、都市の繁栄などをつづる文学であった。
しかしこうした賦の性格は、技巧にはしり、形式美におちいり、むやみに難解な言葉をつかい、これを理解するには古典などによほど通じていなければならなかった。
こうした文学は、曹操のこのむところではない。かれは何によらず表面的、形式的なものをきらった。
曹操が創作した詩は、楽府(がふ)という詩形をとっている。
楽府は、やはり漢代におこなわれたが、それはいわば歌謡曲であり、民衆のかなしみやよろこびをうたうもので、作詞者はおおむね不明である。このよみびと知らずの楽府は、一句五言の形をしていた。
曹操は、この五言詩のかたちをとって詩をつくり、これに芸術性をあたえた。
五言詩を、知識人の従事するにたる文学として、みとめたわけである。
これが曹操の文学史上にはたした役割のひとつである。もうひとつは、文学を儒教の道徳主義から解放して、その独立をみとめたことである。
この仕事は、もちろん曹操ひとりのものではない。
かれのふたりの子、曹丕(そうひ)と曹植(そうしょく)、そしてさらにかれらを取りまく建安七子とよばれる七人の人たちの力でもあった。
建安とは、後漢における最後の年号(一九六~二二〇)である。
いったい建安という時代は、漢帝国がたおれ、人びとは権威の失墜にたいする不安、うちつづく戦乱にたいする恐怖、未来への期待、こうした複雑な感情をいだいていたときである。
いっぽう、こういう変転の多い世のなかにあっても、人間というものはかわらない。
そこに人間性の探究がすすめられ、人間のかわりなき愛情がうたわれたのであった。
五言詩は賦にくらべると、抒情に適した詩形であった。
曹操の作として、もっとも有名なのは、「短歌行」と薤するものである。
『三国志演義』では、「曹操、槊(ほこ)を横たえて詩を賦す」というところで紹介され、一編の山場をなす。
すなわち、赤壁の戦をまえに船中に酒もりをして、よんだことになっている。
「酒に対しては、まさに歌うべし、人生いくばくぞ、たとえば朝(あした)の露のごとし、去りゆく日の苦(あや)しくも多き、」
と、ひとの世のはかなさをなげく語ではじまり、
「何をもってか憂を解かん、ただ杜康(とこう=洒のこと)あるのみ。」
と歌いつづける。酒はうれいを解決してくれるであろう。
しかしこの社会の混乱はどうか。じぶんは才能あるひとをさがしもとめ、天下の人びとの望をえていこうといって、
「周公は哈(ほ)を吐きしかば、天の下心を帰(よ)す」と、みずからを周公になぞらえる句でおさめた。
2 曹氏の一家
2 文化人曹操
「宦官というものは、現実の宮廷政治からいって、なくてはならぬものである。ただし宦官は政治に関与させてはならない。」
宦官の撲滅(ぼくめつ)論がおこったとき、このように曹操は述べた。
ときに三十五歳であったが、儒教にもとづく公式的な反宦官論とは、おのずから異なっている。
曹操は、じぶんの祖父や父のしたことを、そのまま肯定していたのではなかった。
また、かれの賢才主義は、売官による出世をみとめなかったであろう。
いつのころからか曹嵩(そうすう)は、長子の操とはなれ、末子とくらしていたが、漢末の混乱期にあたって、陶謙(とうけん)という者にころされた。
信念はちがい、行動に反対はしても、肉親の情はたちきれぬものがある。
曹操は、父をころした陶謙をうらみ、復讐のいくさをおこした。
また、祖父や父の悪口をかいた陳琳(ちんりん)が、かれのもとに降参してきたとき、苦笑しながら言ったという。
「おれの悪口はいくら言ってもかまわぬが、先祖をひきあいに出さなくとも。」
曹操は機知にとみ、権謀をめぐらし、放蕩(ほうとう)で、素行のおさまらない少年であった。
いわゆる優等生型の子供ではない。
しかし人物批評にすぐれていた人びとは、かれを「治世の能臣(のうしん)、乱世の姦雄(かんゆう)」とか、
「天下まさにみだれんとす、命世(めいせい)の才(さい)にあらずんばすくうあたわず、よくこれを安んずるものは、それ君にあるか」などと評していた。
ところで、この姦雄という言葉は、かれの生涯をとおして、いやそれどころか、死んでから千七百年以上もたった現在にいたるまで、語りつがれている。
このような曹操観をうえつけたのは、小説『三国志演義(さんごくしえんぎ)』であり、中国の歌舞伎にでもあたる京劇(きょうげき)であった。
こうした小説や演劇のなかで、曹操は悪玉としてえがかれ、善玉の劉備や孔明や関羽や張飛をうきださせている。
『三国志演義』は元禄時代にわが国へ紹介され、のちに葛飾北斎がさし絵をかき、日本人のあいだにも悪玉としての曹操像を定着させていった。
しかし、こうした先入観をはなれて曹操をみると、かれは政治家として一流であり、また中国の文学史上に大きな足跡をのこした文化人でもあった。
曹操(そうそう)は陣中にあっても、かたときも手から書物をはなしたことがなかったと、子の曹丕(そうひ)のおもいで話の一節にある。
とくに曹操が兵法の書『孫子』にほどこした注は、いまでも重んぜられている。
兵法だけではなく、その座右には儒教の経典(けいてん)もおかれていた。さらに、おりにふれては詩をつくった。
そもそも曹操が生まれた後漢時代に、文学の主流をなすものは「賦(ふ)」であった。
賦は、はなやかな文字をつらね、韻(いん)をふんだ美文で、宮殿の壮大さ、狩猟の豪華さ、都市の繁栄などをつづる文学であった。
しかしこうした賦の性格は、技巧にはしり、形式美におちいり、むやみに難解な言葉をつかい、これを理解するには古典などによほど通じていなければならなかった。
こうした文学は、曹操のこのむところではない。かれは何によらず表面的、形式的なものをきらった。
曹操が創作した詩は、楽府(がふ)という詩形をとっている。
楽府は、やはり漢代におこなわれたが、それはいわば歌謡曲であり、民衆のかなしみやよろこびをうたうもので、作詞者はおおむね不明である。このよみびと知らずの楽府は、一句五言の形をしていた。
曹操は、この五言詩のかたちをとって詩をつくり、これに芸術性をあたえた。
五言詩を、知識人の従事するにたる文学として、みとめたわけである。
これが曹操の文学史上にはたした役割のひとつである。もうひとつは、文学を儒教の道徳主義から解放して、その独立をみとめたことである。
この仕事は、もちろん曹操ひとりのものではない。
かれのふたりの子、曹丕(そうひ)と曹植(そうしょく)、そしてさらにかれらを取りまく建安七子とよばれる七人の人たちの力でもあった。
建安とは、後漢における最後の年号(一九六~二二〇)である。
いったい建安という時代は、漢帝国がたおれ、人びとは権威の失墜にたいする不安、うちつづく戦乱にたいする恐怖、未来への期待、こうした複雑な感情をいだいていたときである。
いっぽう、こういう変転の多い世のなかにあっても、人間というものはかわらない。
そこに人間性の探究がすすめられ、人間のかわりなき愛情がうたわれたのであった。
五言詩は賦にくらべると、抒情に適した詩形であった。
曹操の作として、もっとも有名なのは、「短歌行」と薤するものである。
『三国志演義』では、「曹操、槊(ほこ)を横たえて詩を賦す」というところで紹介され、一編の山場をなす。
すなわち、赤壁の戦をまえに船中に酒もりをして、よんだことになっている。
「酒に対しては、まさに歌うべし、人生いくばくぞ、たとえば朝(あした)の露のごとし、去りゆく日の苦(あや)しくも多き、」
と、ひとの世のはかなさをなげく語ではじまり、
「何をもってか憂を解かん、ただ杜康(とこう=洒のこと)あるのみ。」
と歌いつづける。酒はうれいを解決してくれるであろう。
しかしこの社会の混乱はどうか。じぶんは才能あるひとをさがしもとめ、天下の人びとの望をえていこうといって、
「周公は哈(ほ)を吐きしかば、天の下心を帰(よ)す」と、みずからを周公になぞらえる句でおさめた。