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4-2-2 文化人曹操

2019-06-26 18:33:41 | 世界史
『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年

2 曹氏の一家
2 文化人曹操

 「宦官というものは、現実の宮廷政治からいって、なくてはならぬものである。ただし宦官は政治に関与させてはならない。」
 宦官の撲滅(ぼくめつ)論がおこったとき、このように曹操は述べた。
 ときに三十五歳であったが、儒教にもとづく公式的な反宦官論とは、おのずから異なっている。
 曹操は、じぶんの祖父や父のしたことを、そのまま肯定していたのではなかった。
 また、かれの賢才主義は、売官による出世をみとめなかったであろう。
 いつのころからか曹嵩(そうすう)は、長子の操とはなれ、末子とくらしていたが、漢末の混乱期にあたって、陶謙(とうけん)という者にころされた。
 信念はちがい、行動に反対はしても、肉親の情はたちきれぬものがある。
 曹操は、父をころした陶謙をうらみ、復讐のいくさをおこした。
 また、祖父や父の悪口をかいた陳琳(ちんりん)が、かれのもとに降参してきたとき、苦笑しながら言ったという。
 「おれの悪口はいくら言ってもかまわぬが、先祖をひきあいに出さなくとも。」
 曹操は機知にとみ、権謀をめぐらし、放蕩(ほうとう)で、素行のおさまらない少年であった。
 いわゆる優等生型の子供ではない。
 しかし人物批評にすぐれていた人びとは、かれを「治世の能臣(のうしん)、乱世の姦雄(かんゆう)」とか、
 「天下まさにみだれんとす、命世(めいせい)の才(さい)にあらずんばすくうあたわず、よくこれを安んずるものは、それ君にあるか」などと評していた。
 ところで、この姦雄という言葉は、かれの生涯をとおして、いやそれどころか、死んでから千七百年以上もたった現在にいたるまで、語りつがれている。
 このような曹操観をうえつけたのは、小説『三国志演義(さんごくしえんぎ)』であり、中国の歌舞伎にでもあたる京劇(きょうげき)であった。
 こうした小説や演劇のなかで、曹操は悪玉としてえがかれ、善玉の劉備や孔明や関羽や張飛をうきださせている。
 『三国志演義』は元禄時代にわが国へ紹介され、のちに葛飾北斎がさし絵をかき、日本人のあいだにも悪玉としての曹操像を定着させていった。
 しかし、こうした先入観をはなれて曹操をみると、かれは政治家として一流であり、また中国の文学史上に大きな足跡をのこした文化人でもあった。
 曹操(そうそう)は陣中にあっても、かたときも手から書物をはなしたことがなかったと、子の曹丕(そうひ)のおもいで話の一節にある。
 とくに曹操が兵法の書『孫子』にほどこした注は、いまでも重んぜられている。
 兵法だけではなく、その座右には儒教の経典(けいてん)もおかれていた。さらに、おりにふれては詩をつくった。
 そもそも曹操が生まれた後漢時代に、文学の主流をなすものは「賦(ふ)」であった。
 賦は、はなやかな文字をつらね、韻(いん)をふんだ美文で、宮殿の壮大さ、狩猟の豪華さ、都市の繁栄などをつづる文学であった。
 しかしこうした賦の性格は、技巧にはしり、形式美におちいり、むやみに難解な言葉をつかい、これを理解するには古典などによほど通じていなければならなかった。
 こうした文学は、曹操のこのむところではない。かれは何によらず表面的、形式的なものをきらった。
 曹操が創作した詩は、楽府(がふ)という詩形をとっている。
 楽府は、やはり漢代におこなわれたが、それはいわば歌謡曲であり、民衆のかなしみやよろこびをうたうもので、作詞者はおおむね不明である。このよみびと知らずの楽府は、一句五言の形をしていた。
 曹操は、この五言詩のかたちをとって詩をつくり、これに芸術性をあたえた。
 五言詩を、知識人の従事するにたる文学として、みとめたわけである。
 これが曹操の文学史上にはたした役割のひとつである。もうひとつは、文学を儒教の道徳主義から解放して、その独立をみとめたことである。
 この仕事は、もちろん曹操ひとりのものではない。
 かれのふたりの子、曹丕(そうひ)と曹植(そうしょく)、そしてさらにかれらを取りまく建安七子とよばれる七人の人たちの力でもあった。
 建安とは、後漢における最後の年号(一九六~二二〇)である。
 いったい建安という時代は、漢帝国がたおれ、人びとは権威の失墜にたいする不安、うちつづく戦乱にたいする恐怖、未来への期待、こうした複雑な感情をいだいていたときである。
 いっぽう、こういう変転の多い世のなかにあっても、人間というものはかわらない。
 そこに人間性の探究がすすめられ、人間のかわりなき愛情がうたわれたのであった。
 五言詩は賦にくらべると、抒情に適した詩形であった。
 曹操の作として、もっとも有名なのは、「短歌行」と薤するものである。
 『三国志演義』では、「曹操、槊(ほこ)を横たえて詩を賦す」というところで紹介され、一編の山場をなす。
 すなわち、赤壁の戦をまえに船中に酒もりをして、よんだことになっている。
 「酒に対しては、まさに歌うべし、人生いくばくぞ、たとえば朝(あした)の露のごとし、去りゆく日の苦(あや)しくも多き、」
 と、ひとの世のはかなさをなげく語ではじまり、
 「何をもってか憂を解かん、ただ杜康(とこう=洒のこと)あるのみ。」
 と歌いつづける。酒はうれいを解決してくれるであろう。
 しかしこの社会の混乱はどうか。じぶんは才能あるひとをさがしもとめ、天下の人びとの望をえていこうといって、
 「周公は哈(ほ)を吐きしかば、天の下心を帰(よ)す」と、みずからを周公になぞらえる句でおさめた。


聖ヨハネ、聖パウロ兄弟殉教者  Sts. Joannes et Paulus MM.

2019-06-26 02:36:51 | 聖人伝
聖ヨハネ、聖パウロ兄弟殉教者  Sts. Joannes et Paulus MM.     記念日 6月26日


 350年ローマ皇帝の位に即いたユリアノは、自ら天主の信仰をなげうったばかりでなく、不埒にも聖教の根絶、偶像教の再興を企て、新たに聖会に対し猛烈な迫害を始めた。かくて諸々方々の聖堂は焼き払われ、幾多殉教者の聖血は流されたが、中にも宮廷の高官にして金剛不壊の信仰を現し、遂に致命の栄冠を得た二人の兄弟があった。それはここに説かんとするコンスタンチノ大帝の皇女コンスタンチアに仕えていたヨハネ侍従長とパウロ侍従とである。

 背教者ユリアノ皇帝は高位の宮臣中に彼等如き熱心な信者があるのを見て、忌々しさに耐えず「キリスト教を棄てて祖先伝来の国教に帰れ、さもなければ死刑に処す」と厳しく申し渡った。しかしもちろんかような威嚇に後込みするような兄弟ではない、彼等は言下に口を揃えて「たとえ私共の生命財産を召し上げられるとも。聖い天主の御教えを棄てる訳には参りません」と勇ましく答えたから、皇帝は真っ赤になって憤り、とうとう二人を死刑に処すこととしたが、ただ彼等は常々国民の間に人望厚く、その敬愛を一身に集めているので、これを一般信者並に刑場に引き行き殺害する時は、人心を激発する懼れがある所から、兄弟の別荘内で窃かに斬り殺すことを命じたのである。

 かくてヨハネ、パウロの聖なる兄弟は362年6月26日迫害の嵐に花と散った。その栄えある遺骸はやがてクリスポ、クリスピニアノ、及びベネディクタという三信者の手によってねんごろに葬られ、またその聖い鮮血に彩られた別荘の上には後に聖堂が彼等の記念に建築された。1887年御受難会の修道者達数人が、今に伝わる聖ヨハネ聖パウロの聖堂の下を発掘したところ、両聖人の邸が全く昔のままの有様で現れ、その壁に描かれた十字架や羊等のキリスト教的記号や、両手を挙げて祈る男の絵などを見るにつけても、そぞろに千数百年前生きていた彼等兄弟の篤信振りが偲ばれて床しかったという。

教訓

 聖ヨハネ聖パウロ兄弟は衆にすぐれた名誉、地位、財産を有していたのに、少しもそれに執着する色なく、信仰の為には喜んでこれを投げ出し、従容として死に赴いた。これは「人全世界をもうけても、もしその(霊的)生命を失わば何の益かあらん。人何物を以てかその魂にかえん」(マテオ 16・26)という主の聖言を裏書きする天晴れな態度である。我等も信仰を貫く妨げとなる物は潔くこれをなげうつよう心がけよう。イエズスも「汝の右の目汝を躓かさばこれをえぐり棄てよ、そは汝にとりて五体の一つの亡ぶるは、全身の地獄に行くに優ればなり」(マテオ 5・29-30)と諭し給うたではないか。


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身体障害者の聖人 聖ヨゼフ・コトレンゴ、21

2019-06-26 02:33:41 | 聖ヨゼフ・コトレンゴ
『身体障害者の聖人 聖ヨゼフ・コトレンゴ』アロイジオ・デルコル神父、21

聖ヨゼフ・コトレンゴの言葉

1、祈りのねうち

 祈りは、"小さな家"の第一で、もっともたいせっな仕事です。

 "小さな家"のなかでは、決して物質的な食物のために祈ってはなりません。"小さな家"を支えているのは、お祈りと聖体拝領ですから。

 一回のミサは、一週間の計画や労働にまさるねうちがあります。すべては、ミサが出発点であるように。まい日のミサ聖祭にあずかる人は、しあわせです。


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