『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年
18 ブッダの国
4 ダルマの勝利
アショーカ王は即位から九年目に、東南にあったカリンガ国を征服した。
戦闘は凄惨(いんさん)をきわめた。
十万人が戦死し、その数倍のひとが戦闘にまきこまれて殺され、十五万人が捕虜となって、他の地方へうつされたという。
しかもアショーカ王は、征服をおえた後、しみじみと戦争のむごたらしさを反省した。
いまや武力にかわって、ダルマにもとづく政治の実現を決意したのである。
ダルマという言葉は、慣習、義務、倫理、正義、法律といった多くの意味をもつ。
諸種の文献では、それぞれの意義を付与して用いられた。
アショーカのダルマも独自の意味をもっており、その宗教的信条と結びついたものであった。
アショーカ王の政治は、人民の現世および来世における幸福と安楽をめざすものであり、彼が人民に負っている債務を返済することである、とさえいっている。
それまでになかった最上の政治、と自負していた。
こうした政治理念の決意は、仏教からの影響があったにちがいない。
しかしアショーカ王のダルマは、仏教の説くところと、かならずしも同じものではない。
もちろん、彼の政治理念も、その宗教的信条だけによるものではないであろう。
いま知られているかぎりでは、カリンガ征服の後、全インドにおいて、アショーカの帝国に対抗しうる勢力はなくなった。
インドの西北方では、セレウコス朝(シリア王国)の勢力がおとろえ、バクトリアにギリシア系の王国が興ったばかりである。
これに対してアショーカ王は、まだ脅威を感ずるほどではなかった。
彼にとっては、さまざまな文化をもつ人民を、いかに平安に統治するかということが、最大の問題であったにちがいない。ここから、ダルマにもとづく政治理念が生まれたのであろう。
この政治理念を実現するため、ショーカがいかに熱心に努力したかについては、その刻文に如実に物語られている。
王みずから政治に精励して、いついかなるときでも政務をきいて処理し、みすがら領域を巡察し、また役人に領内の各地を巡回せしめて、人民にダルマの理念を説いたのであった。
宮廷のなかにおいても、それまでの慣行をやめて、かなりの程度まで生物を殺すことを禁じた。そして人民のための施策をさまざまに講じ、道路のわきに一定の距離をおいて井戸を掘り、樹木を植え、人間と動物との病院をつくった。
アショーカが人民に対して説いたダルマは、ひとりひとりの心のありかたと、社会倫理であった。
それは、彼が十数年にわたり、一貫して保持したものである。
また、その政治理念と、その実践は、詔勅(しょうちょく)あるいは命令という形で地方官から人民に伝えられ、それらをまとめたものが、領内において石柱や、岩面に刻された。
「永久にのこす」ために、刻されたわけである。
このようにして伝えられたダルマは、文化がちがった諸地域の人民のあいだに区別がなかっただけではない。
身分や階級に関しても区別がなかったし、遠くはエジプトまでの、彼の領域の外にいる人々にも伝えようとしたのであった。
ひとりひとりの心のありかたとしては、心を清浄にして平静にし、寡欲にして節制の念をもち、真実をかたり、あわれみや施しの心をもつことが説かれた。
生物を殺傷しないことや、無益な祭りをおこなわないことも教えられた。
これらはバラモンの思想よりも、仏教や、そのほか前六~五世紀の宗教が説いたところと類似している。
たとえば、くりかえし述べられた不殺生(ふせっしょう)の思想は、ジャイナ教や仏教の教えであり、ことにジャイナ教においては、おどろくべきほど徹底して実行された。
それは「動物愛護」という考えからではなく、人間をふくめての生物の生命観に裏づけられたものであった。
社会倫理としては、父母に対する従順をはじめ、長老や師あるいは親族に対する従順が説かれた。つぎに親族や友人に対して、バラモンや宗教者に対して、また奴隷や雇傭者に対して、正しい扱いをすることが説かれた。
こうした形において社会倫理、とりわけ従順の倫理を強調することは、アショーカ王の詔勅においてきわだっている点である。
アショーカのころには、政治の理念と術策についてさまざまな論があった。
その一部が『カウティリヤのアルタシャーストラ』『マヌ法典』『マハーバーラタ』や、仏教の経典のなかにうかがわれる。
バラモンの書物においては、国王が強大な支配権をもち、バラモンの補佐をうけて、きびしいダンダ(杖)の政治をおこなうことが説かれていた。
アショーカの政治には、これといちじるしくちがった面があったのである。
しかも、彼の政治は当時のバラモンの政治論と、まったくかかわりないものではない。
むしろ、これらにうかがわれる専制的支配を、共通の根底として実現されたものであろう。
そのころのインドの観念では、国家の法は王の詔勅や命令という形で存在した。
したがってアショーカのダルマは、法としての意味をもっていた。
これは、世界史上において、まれなほどに法と倫理、さらに宗教とが一体化したものである。
王みずから領内をまわってダルマを説いただけではない。
即位十三年には、地方官に命じて、五年ごとに巡回してダルマを説き、人民がダルマを遵守(じゅんしゅ)しているかについて視察させた。
十四年にはダルマに関する大官を設けた。
そしてダルマの実現と、その監察や、さまざまの宗教を管掌する特別な職とした。
このように王は、人民に対してダルマをまもることの徹底を期したのである。
このことは、広大にして多様な領域において官吏や人民がそれぞれのところで平安をたもち、いかなる争いもおさえて、帝国の安定を維持することにほかならなかった。
この政治理念の実現は、もっぱら国王たるアショーカに依存していた。
彼が二十年ちかくにわたって、これを実施したことは、そのひじょうな努力によるものである。
それとともに、彼のもとにおける支配体制が、よくととのっていたことと、彼の政治理念が、この歴史的環境によく合っていたことを物語るものである。
アショーカのあとには、この政治理念は採用されなかった。
それは国王の宗教的信条が違っていただけでなく、歴史的条件が違ったためであろう。
また、アショーカ王は仏教を信奉して、ブッダに縁のある聖地をおとずれ、ブッダのスツーパ(塔)を増築した。
ほかの宗教に対しても、巡回に際して、保護や施しをあたえている。
人民に対しても、バラモンや宗教者に施しをあたえることを説いている。
これは、宗教に専念する人を尊敬して、施しをあたえるという考えから行われたものである。
インドにおいては、こうした考えがかなり古くから樹立されていた。
仏教の歴史にとっても、アショーカ王の時代はきわめて重要な時期であった。
アショーカの保護をえて、仏教は王の領内に飛躍的にひろまり、各地に僧院とスツーパが建てられた。
仏教が東アジアに伝播する基礎も、このときにきずかれたのである。
このころになると、ブッダの教えやビクの戒律をめぐって、考えかたのちがいが顕著になっている。
そこから諸部派が生まれた。
アショーカは、もろもろの宗教のあいだの争いをいましめるとともに、仏教徒のなかの争いをもいましめた。
さらにアショーカ王は、経典の編述を行っている。
仏教徒に対して、とくに七つの経典をあげ、読むことをすすめた。
このことからもうかがわれるように経典は、このころになってようやくつくられはじめたのであり、やがて各部派において、おびただしい数の経典が編述されるようになっていくのである。
18 ブッダの国
4 ダルマの勝利
アショーカ王は即位から九年目に、東南にあったカリンガ国を征服した。
戦闘は凄惨(いんさん)をきわめた。
十万人が戦死し、その数倍のひとが戦闘にまきこまれて殺され、十五万人が捕虜となって、他の地方へうつされたという。
しかもアショーカ王は、征服をおえた後、しみじみと戦争のむごたらしさを反省した。
いまや武力にかわって、ダルマにもとづく政治の実現を決意したのである。
ダルマという言葉は、慣習、義務、倫理、正義、法律といった多くの意味をもつ。
諸種の文献では、それぞれの意義を付与して用いられた。
アショーカのダルマも独自の意味をもっており、その宗教的信条と結びついたものであった。
アショーカ王の政治は、人民の現世および来世における幸福と安楽をめざすものであり、彼が人民に負っている債務を返済することである、とさえいっている。
それまでになかった最上の政治、と自負していた。
こうした政治理念の決意は、仏教からの影響があったにちがいない。
しかしアショーカ王のダルマは、仏教の説くところと、かならずしも同じものではない。
もちろん、彼の政治理念も、その宗教的信条だけによるものではないであろう。
いま知られているかぎりでは、カリンガ征服の後、全インドにおいて、アショーカの帝国に対抗しうる勢力はなくなった。
インドの西北方では、セレウコス朝(シリア王国)の勢力がおとろえ、バクトリアにギリシア系の王国が興ったばかりである。
これに対してアショーカ王は、まだ脅威を感ずるほどではなかった。
彼にとっては、さまざまな文化をもつ人民を、いかに平安に統治するかということが、最大の問題であったにちがいない。ここから、ダルマにもとづく政治理念が生まれたのであろう。
この政治理念を実現するため、ショーカがいかに熱心に努力したかについては、その刻文に如実に物語られている。
王みずから政治に精励して、いついかなるときでも政務をきいて処理し、みすがら領域を巡察し、また役人に領内の各地を巡回せしめて、人民にダルマの理念を説いたのであった。
宮廷のなかにおいても、それまでの慣行をやめて、かなりの程度まで生物を殺すことを禁じた。そして人民のための施策をさまざまに講じ、道路のわきに一定の距離をおいて井戸を掘り、樹木を植え、人間と動物との病院をつくった。
アショーカが人民に対して説いたダルマは、ひとりひとりの心のありかたと、社会倫理であった。
それは、彼が十数年にわたり、一貫して保持したものである。
また、その政治理念と、その実践は、詔勅(しょうちょく)あるいは命令という形で地方官から人民に伝えられ、それらをまとめたものが、領内において石柱や、岩面に刻された。
「永久にのこす」ために、刻されたわけである。
このようにして伝えられたダルマは、文化がちがった諸地域の人民のあいだに区別がなかっただけではない。
身分や階級に関しても区別がなかったし、遠くはエジプトまでの、彼の領域の外にいる人々にも伝えようとしたのであった。
ひとりひとりの心のありかたとしては、心を清浄にして平静にし、寡欲にして節制の念をもち、真実をかたり、あわれみや施しの心をもつことが説かれた。
生物を殺傷しないことや、無益な祭りをおこなわないことも教えられた。
これらはバラモンの思想よりも、仏教や、そのほか前六~五世紀の宗教が説いたところと類似している。
たとえば、くりかえし述べられた不殺生(ふせっしょう)の思想は、ジャイナ教や仏教の教えであり、ことにジャイナ教においては、おどろくべきほど徹底して実行された。
それは「動物愛護」という考えからではなく、人間をふくめての生物の生命観に裏づけられたものであった。
社会倫理としては、父母に対する従順をはじめ、長老や師あるいは親族に対する従順が説かれた。つぎに親族や友人に対して、バラモンや宗教者に対して、また奴隷や雇傭者に対して、正しい扱いをすることが説かれた。
こうした形において社会倫理、とりわけ従順の倫理を強調することは、アショーカ王の詔勅においてきわだっている点である。
アショーカのころには、政治の理念と術策についてさまざまな論があった。
その一部が『カウティリヤのアルタシャーストラ』『マヌ法典』『マハーバーラタ』や、仏教の経典のなかにうかがわれる。
バラモンの書物においては、国王が強大な支配権をもち、バラモンの補佐をうけて、きびしいダンダ(杖)の政治をおこなうことが説かれていた。
アショーカの政治には、これといちじるしくちがった面があったのである。
しかも、彼の政治は当時のバラモンの政治論と、まったくかかわりないものではない。
むしろ、これらにうかがわれる専制的支配を、共通の根底として実現されたものであろう。
そのころのインドの観念では、国家の法は王の詔勅や命令という形で存在した。
したがってアショーカのダルマは、法としての意味をもっていた。
これは、世界史上において、まれなほどに法と倫理、さらに宗教とが一体化したものである。
王みずから領内をまわってダルマを説いただけではない。
即位十三年には、地方官に命じて、五年ごとに巡回してダルマを説き、人民がダルマを遵守(じゅんしゅ)しているかについて視察させた。
十四年にはダルマに関する大官を設けた。
そしてダルマの実現と、その監察や、さまざまの宗教を管掌する特別な職とした。
このように王は、人民に対してダルマをまもることの徹底を期したのである。
このことは、広大にして多様な領域において官吏や人民がそれぞれのところで平安をたもち、いかなる争いもおさえて、帝国の安定を維持することにほかならなかった。
この政治理念の実現は、もっぱら国王たるアショーカに依存していた。
彼が二十年ちかくにわたって、これを実施したことは、そのひじょうな努力によるものである。
それとともに、彼のもとにおける支配体制が、よくととのっていたことと、彼の政治理念が、この歴史的環境によく合っていたことを物語るものである。
アショーカのあとには、この政治理念は採用されなかった。
それは国王の宗教的信条が違っていただけでなく、歴史的条件が違ったためであろう。
また、アショーカ王は仏教を信奉して、ブッダに縁のある聖地をおとずれ、ブッダのスツーパ(塔)を増築した。
ほかの宗教に対しても、巡回に際して、保護や施しをあたえている。
人民に対しても、バラモンや宗教者に施しをあたえることを説いている。
これは、宗教に専念する人を尊敬して、施しをあたえるという考えから行われたものである。
インドにおいては、こうした考えがかなり古くから樹立されていた。
仏教の歴史にとっても、アショーカ王の時代はきわめて重要な時期であった。
アショーカの保護をえて、仏教は王の領内に飛躍的にひろまり、各地に僧院とスツーパが建てられた。
仏教が東アジアに伝播する基礎も、このときにきずかれたのである。
このころになると、ブッダの教えやビクの戒律をめぐって、考えかたのちがいが顕著になっている。
そこから諸部派が生まれた。
アショーカは、もろもろの宗教のあいだの争いをいましめるとともに、仏教徒のなかの争いをもいましめた。
さらにアショーカ王は、経典の編述を行っている。
仏教徒に対して、とくに七つの経典をあげ、読むことをすすめた。
このことからもうかがわれるように経典は、このころになってようやくつくられはじめたのであり、やがて各部派において、おびただしい数の経典が編述されるようになっていくのである。