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4-1-4 赤壁の戦

2019-06-17 17:27:09 | 世界史
『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年

1 三国の分立

4 赤壁の戦

 官渡の合戦から八年、曹操は袁氏の残党をうちほろぼし、あたらしく鄴(ぎょう)を都にさだめた。
 ひきつづき北方の烏丸(うがん)を征服することに成功した。烏丸は袁氏の味方をしていたのである。
 劉備はどうしていたか。かれは荊(けい)州の劉表に身をよせていた。
 劉表は、あの党錮(とうこ)の獄の生きのこりで、黄巾の乱の後に荊州の長官となって赴任し、そのまま独立の政権をつくっていたのである。
 北方の争乱にもまきこまれず、州内は平和であった。
 そこで多くの人がここにあつまってきていた。諸葛亮(しょかつりょう=孔明)や、建安七子のひとり王粲(おうさん)などもそのなかにいる。
 劉備は、それまで馬上の生活をつづけてきたものの、ここでは平和で、馬にのることもない。
 そこで髀(ひ)肉(ももの肉)がついてしまった。
 武人としてなさけない髀肉の嘆をかこっていた。
 おなじ荊州には、諸葛亮が住んでいる。
 しかし劉備も亮も、六年ちかくもの間、たがいに顔をあわせることもなかった。
 建安十二年(二〇七)、劉備は臥竜窟(がりゅうくつ)に亮(りょう)をおとずれた。
 一度、二度、そして三度おとずれて、ようやく会うことができた。これを三顧(さんこ)の礼という。
 ときに諸葛亮は二十七歳、劉備は五十歳に近かった。
 孔明は劉備に、天下三分の計を説いた。
 「華北は曹操のものになっている。長江の下流にいる孫(そん)氏、これと戦争をしてはいけない。
 この荊州(けいしゅう)と、西方の益州(えきしゅう)、すなわち長江の中下流を占領して、曹操、孫権(そんけん)と三人で天下を三分されるがよい。」

 この孔明の答えを、劉備はよろこんだ。
 それからは一にも二にも孔明であった。
 関羽や張飛などはおもしろくない。
 そこで劉備はいった。

 「自分が孔明をえたのは、魚が水をえたようなものだ。」これを君臣水魚(くんしんすいぎょ)の交わりという。
 その翌年、すなわち建安十三年(二〇八)七月、曹操は全土の統一をめざして南下してきた。
 最初の目標は、この荊州である。
 その八月、劉表が病死した。あとをついだ子の劉琮(りゅうそう)は、あっさりと曹操に降伏した。
 王粲(おうさん)などが熱心にすすめたという。ところが、おなじ州内にいた劉備には、降伏のことが通告されなかった。
 かれは曹操が荊州に入城したというしらせをきいて、あわてて南へにげた。
 しかし軍中には非戦闘員をふくんでいるので、思うように先にすすむことができない。
 とうとう荊州の南およそ一二五キロ、当陽の長坂(ちょうはん)で曹操においつかれてしまった。
 このとき張飛は、ただひとり長坂の橋上に立ちふさがって、矛(ほこ)を横ざまにし、眼をいからせて叫んだ。
 「われこそは張益徳なるぞ。」
 その勢いにおそれ、曹操の軍もあえて近づこうとはしなかった。
 おりしも劉備の一行は、孫権の部将たる周瑜(しゅうゆ)と出あった。周瑜は、荊州のもようを視察にゆく途中だったのである。ここで劉備と孫権との同盟が成立する。
 いっぽう、曹操も南下をつづけていた。
 十月、両軍は長江の中流なる赤壁(せきへき)で衝突する。曹操の軍は八十万と称しているが、実数は十五、六万と周瑜はみていた。そのうえ、かれらは華北の出身者が多く、水戦には馴れていない。また悪疫が流行しているようだから、五万の軍があれば勝てるとも計算していた。しかし孫・劉の連合軍が動員しえたのは三万人あまりである。そこで、さらに計略がめぐらされた。

 孫権の部将たる黄蓋(こうがい)が、船隊をひきつれ、いつわって曹操に降参する。
 船にはあらかじめ油をそそいだ枯草や柴(しば)をつんでおき、曹軍にちかづくや、火をつける。
 風は東南から吹いているし、曹軍の船は鎖でつなぎあわせてあるから、全焼することはまちがいない、というのである。
 この計略は、まんまと成功した。
 黄蓋が降参してきたとよろこんでいた曹操の軍勢は、にわかにおこった火に、すっかり船を焼かれた。
 あわてふためいているところに、陸上から関羽(かんう)らが攻めこんできた。
 もはやこれまでと曹操も、ほうほうのていで北ににげかえっていった。
 この赤壁の戦によって、中国はまず南と北とに二分された。

身体障害者の聖人 聖ヨゼフ・コトレンゴ、12

2019-06-17 02:12:55 | 聖ヨゼフ・コトレンゴ
『身体障害者の聖人 聖ヨゼフ・コトレンゴ』アロイジオ・デルコル神父、12

 ここは、磨きあげた清潔な台所、大きな鍋のなかでは、お湯がぐらぐらふっとうしています。それを数人のシスターが、はらはらしながら見まもっています。

「トントン」ドアが開きました。台所を調べに来たかれです。

「神父さま、鍋にお湯がこんなにふっとうしているのに、中に入れる物がまだ何ひとつないんです」といったシスターは、み摂理を信じたものの、さて、どうしたらよいのか?というように言葉をつづけました、「もう午前11時です、買いに行きたくても間にあわないし、お金もありません」

「・・・」答えないので、「神父さま、どうしましょうか?」とさいそくするシスターたち。

「あなたたちは、神のみ摂理がスープを食べさせないとでも思っているのですか?絶対にそんなことはありません」とコトレンゴ。

「でも、神父さま、もう11時をすぎました」とシスターたち。

 時間は、容赦なく過ぎていきました。信頼しきったコトレンゴの前に、シスターたちは、もう何もいえません。…ちょうど12時です!

「トンドンドン!」門をたたく激しい音。はっと顔をみあわせるシスターたち。

開かれた門の前に、ずらりと並んでいる馬車と兵士たち! できたてのスープをつんでいます。兵士のひとりがいいました、「神父さま、どこに下ろしましょうか?」
ふりかえったコトレンゴ、「ごらんのとおり、ちゃんとみ摂理があります」


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ピサの聖ライネリオ証聖者

2019-06-17 02:10:32 | 聖人伝
ピサの聖ライネリオ証聖者       記念日6月17日


 ライネリオは、若い時イタリアのピサで放埒な生活を送っていたが、ある日伯母が紹介した聖ヴィト修道院の修道士に会ったときから、すっかり回心して今までの生活を改め、両親が心配するほどの変わり方であった。まもなく、イエズスが地上の生活を送られた聖地への巡礼を望んでライネリオは出発した。巡礼の途中で夢を見たが、それは自分の財布が焼けつくように燃えるコールタールでいっぱいになっていて、それを消すことができたのは水だけであったという夢であった。この夢で教えられたことは、肉体的な欲望を消すことのできるものは酒ではなく、ただ水だけであるということであった。その時からライネリオは水だけを飲み、食事は日曜日と木曜日に限って食べることにした。そして、裸足で歩き回った。ピサに帰った時、修道院に入って謙遜な生活を送ることを望んだが、彼は決して正式の修道者にはならず、司祭として叙階もされなかった。

 1160年、聖ヴィト修道院でライネリオは帰天し、ピサの守護の聖人となった。彼が亡くなってから20年後、建築家でまた彫刻家のボナノ・ピザノがピサのカテドラルの美しい入り口を造り、24のパネルにキリストの生涯から選んだ場面の画をつけて、それをサン・ラニエリの戸口と呼んだ。


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