『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
1 三国の分立
4 赤壁の戦
官渡の合戦から八年、曹操は袁氏の残党をうちほろぼし、あたらしく鄴(ぎょう)を都にさだめた。
ひきつづき北方の烏丸(うがん)を征服することに成功した。烏丸は袁氏の味方をしていたのである。
劉備はどうしていたか。かれは荊(けい)州の劉表に身をよせていた。
劉表は、あの党錮(とうこ)の獄の生きのこりで、黄巾の乱の後に荊州の長官となって赴任し、そのまま独立の政権をつくっていたのである。
北方の争乱にもまきこまれず、州内は平和であった。
そこで多くの人がここにあつまってきていた。諸葛亮(しょかつりょう=孔明)や、建安七子のひとり王粲(おうさん)などもそのなかにいる。
劉備は、それまで馬上の生活をつづけてきたものの、ここでは平和で、馬にのることもない。
そこで髀(ひ)肉(ももの肉)がついてしまった。
武人としてなさけない髀肉の嘆をかこっていた。
おなじ荊州には、諸葛亮が住んでいる。
しかし劉備も亮も、六年ちかくもの間、たがいに顔をあわせることもなかった。
建安十二年(二〇七)、劉備は臥竜窟(がりゅうくつ)に亮(りょう)をおとずれた。
一度、二度、そして三度おとずれて、ようやく会うことができた。これを三顧(さんこ)の礼という。
ときに諸葛亮は二十七歳、劉備は五十歳に近かった。
孔明は劉備に、天下三分の計を説いた。
「華北は曹操のものになっている。長江の下流にいる孫(そん)氏、これと戦争をしてはいけない。
この荊州(けいしゅう)と、西方の益州(えきしゅう)、すなわち長江の中下流を占領して、曹操、孫権(そんけん)と三人で天下を三分されるがよい。」
この孔明の答えを、劉備はよろこんだ。
それからは一にも二にも孔明であった。
関羽や張飛などはおもしろくない。
そこで劉備はいった。
「自分が孔明をえたのは、魚が水をえたようなものだ。」これを君臣水魚(くんしんすいぎょ)の交わりという。
その翌年、すなわち建安十三年(二〇八)七月、曹操は全土の統一をめざして南下してきた。
最初の目標は、この荊州である。
その八月、劉表が病死した。あとをついだ子の劉琮(りゅうそう)は、あっさりと曹操に降伏した。
王粲(おうさん)などが熱心にすすめたという。ところが、おなじ州内にいた劉備には、降伏のことが通告されなかった。
かれは曹操が荊州に入城したというしらせをきいて、あわてて南へにげた。
しかし軍中には非戦闘員をふくんでいるので、思うように先にすすむことができない。
とうとう荊州の南およそ一二五キロ、当陽の長坂(ちょうはん)で曹操においつかれてしまった。
このとき張飛は、ただひとり長坂の橋上に立ちふさがって、矛(ほこ)を横ざまにし、眼をいからせて叫んだ。
「われこそは張益徳なるぞ。」
その勢いにおそれ、曹操の軍もあえて近づこうとはしなかった。
おりしも劉備の一行は、孫権の部将たる周瑜(しゅうゆ)と出あった。周瑜は、荊州のもようを視察にゆく途中だったのである。ここで劉備と孫権との同盟が成立する。
いっぽう、曹操も南下をつづけていた。
十月、両軍は長江の中流なる赤壁(せきへき)で衝突する。曹操の軍は八十万と称しているが、実数は十五、六万と周瑜はみていた。そのうえ、かれらは華北の出身者が多く、水戦には馴れていない。また悪疫が流行しているようだから、五万の軍があれば勝てるとも計算していた。しかし孫・劉の連合軍が動員しえたのは三万人あまりである。そこで、さらに計略がめぐらされた。
孫権の部将たる黄蓋(こうがい)が、船隊をひきつれ、いつわって曹操に降参する。
船にはあらかじめ油をそそいだ枯草や柴(しば)をつんでおき、曹軍にちかづくや、火をつける。
風は東南から吹いているし、曹軍の船は鎖でつなぎあわせてあるから、全焼することはまちがいない、というのである。
この計略は、まんまと成功した。
黄蓋が降参してきたとよろこんでいた曹操の軍勢は、にわかにおこった火に、すっかり船を焼かれた。
あわてふためいているところに、陸上から関羽(かんう)らが攻めこんできた。
もはやこれまでと曹操も、ほうほうのていで北ににげかえっていった。
この赤壁の戦によって、中国はまず南と北とに二分された。
1 三国の分立
4 赤壁の戦
官渡の合戦から八年、曹操は袁氏の残党をうちほろぼし、あたらしく鄴(ぎょう)を都にさだめた。
ひきつづき北方の烏丸(うがん)を征服することに成功した。烏丸は袁氏の味方をしていたのである。
劉備はどうしていたか。かれは荊(けい)州の劉表に身をよせていた。
劉表は、あの党錮(とうこ)の獄の生きのこりで、黄巾の乱の後に荊州の長官となって赴任し、そのまま独立の政権をつくっていたのである。
北方の争乱にもまきこまれず、州内は平和であった。
そこで多くの人がここにあつまってきていた。諸葛亮(しょかつりょう=孔明)や、建安七子のひとり王粲(おうさん)などもそのなかにいる。
劉備は、それまで馬上の生活をつづけてきたものの、ここでは平和で、馬にのることもない。
そこで髀(ひ)肉(ももの肉)がついてしまった。
武人としてなさけない髀肉の嘆をかこっていた。
おなじ荊州には、諸葛亮が住んでいる。
しかし劉備も亮も、六年ちかくもの間、たがいに顔をあわせることもなかった。
建安十二年(二〇七)、劉備は臥竜窟(がりゅうくつ)に亮(りょう)をおとずれた。
一度、二度、そして三度おとずれて、ようやく会うことができた。これを三顧(さんこ)の礼という。
ときに諸葛亮は二十七歳、劉備は五十歳に近かった。
孔明は劉備に、天下三分の計を説いた。
「華北は曹操のものになっている。長江の下流にいる孫(そん)氏、これと戦争をしてはいけない。
この荊州(けいしゅう)と、西方の益州(えきしゅう)、すなわち長江の中下流を占領して、曹操、孫権(そんけん)と三人で天下を三分されるがよい。」
この孔明の答えを、劉備はよろこんだ。
それからは一にも二にも孔明であった。
関羽や張飛などはおもしろくない。
そこで劉備はいった。
「自分が孔明をえたのは、魚が水をえたようなものだ。」これを君臣水魚(くんしんすいぎょ)の交わりという。
その翌年、すなわち建安十三年(二〇八)七月、曹操は全土の統一をめざして南下してきた。
最初の目標は、この荊州である。
その八月、劉表が病死した。あとをついだ子の劉琮(りゅうそう)は、あっさりと曹操に降伏した。
王粲(おうさん)などが熱心にすすめたという。ところが、おなじ州内にいた劉備には、降伏のことが通告されなかった。
かれは曹操が荊州に入城したというしらせをきいて、あわてて南へにげた。
しかし軍中には非戦闘員をふくんでいるので、思うように先にすすむことができない。
とうとう荊州の南およそ一二五キロ、当陽の長坂(ちょうはん)で曹操においつかれてしまった。
このとき張飛は、ただひとり長坂の橋上に立ちふさがって、矛(ほこ)を横ざまにし、眼をいからせて叫んだ。
「われこそは張益徳なるぞ。」
その勢いにおそれ、曹操の軍もあえて近づこうとはしなかった。
おりしも劉備の一行は、孫権の部将たる周瑜(しゅうゆ)と出あった。周瑜は、荊州のもようを視察にゆく途中だったのである。ここで劉備と孫権との同盟が成立する。
いっぽう、曹操も南下をつづけていた。
十月、両軍は長江の中流なる赤壁(せきへき)で衝突する。曹操の軍は八十万と称しているが、実数は十五、六万と周瑜はみていた。そのうえ、かれらは華北の出身者が多く、水戦には馴れていない。また悪疫が流行しているようだから、五万の軍があれば勝てるとも計算していた。しかし孫・劉の連合軍が動員しえたのは三万人あまりである。そこで、さらに計略がめぐらされた。
孫権の部将たる黄蓋(こうがい)が、船隊をひきつれ、いつわって曹操に降参する。
船にはあらかじめ油をそそいだ枯草や柴(しば)をつんでおき、曹軍にちかづくや、火をつける。
風は東南から吹いているし、曹軍の船は鎖でつなぎあわせてあるから、全焼することはまちがいない、というのである。
この計略は、まんまと成功した。
黄蓋が降参してきたとよろこんでいた曹操の軍勢は、にわかにおこった火に、すっかり船を焼かれた。
あわてふためいているところに、陸上から関羽(かんう)らが攻めこんできた。
もはやこれまでと曹操も、ほうほうのていで北ににげかえっていった。
この赤壁の戦によって、中国はまず南と北とに二分された。