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ユニバーサルフロンティア理論は世界を救う

GUTこと大統一理論を上回る現代最高の物理理論を公開したいと思う!こう、ご期待・・。

ユニバーサルフロンティア理論による宇宙【第一章 論理学】(3)

2014年04月08日 | 究極理論
《ゲーデル命題の論理学》

 ゲーデル命題Gとは自己言及文「この命題は証明できない」を意味するG「Gは証明できない」であるとされ、それに対してゲーデル命題の否定である¬Gは「Gは証明できる」を意味する¬G「Gは証明できる」だと言う。私としてはどうしても肯定と否定にまつわる定式の非対称性が気になって気になって仕方がないわけですよ、ゲーデル文を否定形と合わせて読めば「証明できないのがGであって証明できるような物はGではない」と言う意味になりませんか?
 可能性としてゲーデルの翻訳が不完全であることが挙げられる。「この命題は証明できない」をG「Gが証明できない」と翻訳してしまうと正しくは「この命題Gは証明できない」になってしまうのではないかということ、すると対立する背反命題は「この命題Gは証明できる」となり、数学命題であればこの両者を判定するのが数学の仕事だということである。
 私が認定した完全無欠のゲーデル文とは、

G「数学体系は演繹的には任意の数学命題の同義反復を証明することができない」 ←本質より自明と思われる

¬G「数学体系は演繹的には任意の数学命題の同義反復を証明することができる」

 でも、これっておかしくないでしょうか、この内容だと¬Gは「任意の数学命題」ではなくて「ある一つの数学命題」についての無矛盾性を証明できたら排反事象の表現になりますけど、これではまるっきしペテン行為ではないですか。話を緩めてG「数学体系は演繹的にGを証明できない」と¬G「数学体系は演繹的にGを証明できる」にしましたら

〔偽の証明〕
¬Gを仮定する、Gが演繹的に証明できるからG、論理学公理より¬G⇒¬G、合わせてG∧¬Gという矛盾が導かれる、矛盾したのは¬Gの仮定にあるから¬(¬G)、ゆえにGは演繹的にではなく背理法によって証明された。

 でも、これって数学体系の無矛盾性の話なんかじゃないですよ、出現する矛盾だってG∧¬Gただ一つだし、他の数学命題について何も論じないで数学の無矛盾性なんかが証明できるはずがない。
 数学という学問は無矛盾性の証明などを扱う物ではなくて、真偽判定を行う学問ですから、そしてその際に同義反復は証明の失敗につながることであり、それは「悪循環」だとされますから、私が完全無欠として設定したゲーデル文は正しいのです。ゲーデルらは確かにその内容を扱っており、そして「数学命題のすべてが無矛盾であること」に対立する概念?(本当は背反でないので正しい設定ではない)として「数学命題のすべてが矛盾すること」を導いてしまっている。
 ひょっとしてヒルベルトらが述べた「数学体系が矛盾しておれば全命題が矛盾して証明される」というのは反証言語だったというのが真相ではないかしらん、やれやれw)

「1ならば1」「2ならば2」などという無矛盾言語は数学命題ではないということもあるが・・。


《山野命題の導入と数学基礎》

 そこで私が導入したのが「この命題は反証されない」という意味を持つ山野命題Yであり、むしろ自己言及性にこそ拘って否定命題を「この命題は反証される」に持っていく。よく考えればG「Gは証明できない」に対しての¬G「Gは証明できる」にはそのような意味があるが、すなわちゲーデル命題形式の自己言及文には否定命題が二種類考えられるわけだ。「この命題は証明できない」の反対として「その命題は証明できる」という構造からして自己言及文としての値打ちを失っていると考えられる。

Y「Yは反証されない」 と ¬Y「¬Yは反証される」

この構造を導入すればYと¬Yとはそれぞれ命題の集合になっていくことがわかる、そこでは集合Yは定理と決定不能命題の集合であり、集合¬Yは偽命題の集合である。
 このように自己言及文の自己言及性をこそ追求していくことによって数学の無矛盾性などという大雑把で定義が不明確な話ではなく、具体的な決定不能命題の可能性に言及していくことが許される。

ただし「決定不能命題の存在定理」までは無理ではないかという恨みが残るが・・。

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