さて、本日はどんな内容で勝負しますか・・。日本の物理学の柄に関しての東大と京大の関係かなあ~・・。ふむ、若い人たちはあまり分かっておられないだろうけれど、東京大学と京都大学の違いというのは、こと“物理学一つ”をとってみても“成績の微妙な違い”なんかじゃありえない!それは他の大学からも丸わかりだった、と、いうのも、東京大学は外国の文献を懸命に勉強してからモノを言ってた、し、京都大学は、あくまで湯川を中心としてオリジナリティーに邁進していたからです。
このことは朝永先生が東京大学をお捨てに為らざるを得なかった事情と一致しています。
おそらく先生は「自説の解説以外にできることのレベルが高が知れている」ことを理由として教育関係に進まれたのでしょう。しかし、京都では、湯川先生の学者としての実情がどう同じであっても、湯川先生の“我を通した指導”をあくまでも貫いたのです。後者には前者の行いが、まるで“第二次大戦の敵前逃亡の後に捕まった捕虜兵”のように、とてつもなく卑怯に思えた・・、に違い有りません!
この点で日本の物理学は道を誤っていた、と、かように存じます。
当面の多少の困難を伴うとは言え、朝永の『くりこみ理論』には(アメリカにさらに進化したファインマンの説が有ったとしても・・)未来があった、と、思います。ファインマンのそれは理論の完成型でしたから、朝永としても「こうなったら勉強しかない」というような印象を強く抱いたのでしょうけれど、そんな萎れた花のような態度では学者は勤まらなかったように存じます。
私の印象では朝永には“日本男子忸怩(じくじ)たるもの”が欠けています。
湯川はきっと(朝永のことを)「日本人の癖して意気地(いくじ)のナイ奴だ」となじって生きたことでしょう。で、今のところは東京大学の勉強主義が正しいような状況です。京都大学の創造力主義は(その多くが)人生破綻の道だったように(すら)思います。交換力は湯川から始まったモノでしたが、果たして原子核内においてクーロン力に打ち勝てるほどの大きな強い力になれるだろうか・・、と、いう根本的なところで悩みもせずに(他のことが)進展してきた。そのせいで「おそらくGUTは間違いだろう・・」てな、結構な見当のついたところでUFTなんていう結構な対案を理解できない。
それは結局のところ「湯川の延長の発想にだけ染まらされていて身動きがとれない」からです。
UFTという学問は“両者の折衷案としての発想丸分かり”のようなところもありまして、その昔にシムラーとかいうレンズメーカーが「前群ガウスタイプで後群ゾナータイプの標準レンズ」を打ち出したところ、そのレンズそのものは(性能の面に於いて)革新的という程でなかったが、発想法としては、後にツァイスが「前群ガウスタイプで後群トポゴンタイプ」をプラナータイプとして発表した事でワカルように、先輩格になっています。
そしてノーベル賞級の学者集団が二つのタイプを編み出したのですから折衷が正しいという可能性は増大するのではないでしょうか。
このことは朝永先生が東京大学をお捨てに為らざるを得なかった事情と一致しています。
おそらく先生は「自説の解説以外にできることのレベルが高が知れている」ことを理由として教育関係に進まれたのでしょう。しかし、京都では、湯川先生の学者としての実情がどう同じであっても、湯川先生の“我を通した指導”をあくまでも貫いたのです。後者には前者の行いが、まるで“第二次大戦の敵前逃亡の後に捕まった捕虜兵”のように、とてつもなく卑怯に思えた・・、に違い有りません!
この点で日本の物理学は道を誤っていた、と、かように存じます。
当面の多少の困難を伴うとは言え、朝永の『くりこみ理論』には(アメリカにさらに進化したファインマンの説が有ったとしても・・)未来があった、と、思います。ファインマンのそれは理論の完成型でしたから、朝永としても「こうなったら勉強しかない」というような印象を強く抱いたのでしょうけれど、そんな萎れた花のような態度では学者は勤まらなかったように存じます。
私の印象では朝永には“日本男子忸怩(じくじ)たるもの”が欠けています。
湯川はきっと(朝永のことを)「日本人の癖して意気地(いくじ)のナイ奴だ」となじって生きたことでしょう。で、今のところは東京大学の勉強主義が正しいような状況です。京都大学の創造力主義は(その多くが)人生破綻の道だったように(すら)思います。交換力は湯川から始まったモノでしたが、果たして原子核内においてクーロン力に打ち勝てるほどの大きな強い力になれるだろうか・・、と、いう根本的なところで悩みもせずに(他のことが)進展してきた。そのせいで「おそらくGUTは間違いだろう・・」てな、結構な見当のついたところでUFTなんていう結構な対案を理解できない。
それは結局のところ「湯川の延長の発想にだけ染まらされていて身動きがとれない」からです。
UFTという学問は“両者の折衷案としての発想丸分かり”のようなところもありまして、その昔にシムラーとかいうレンズメーカーが「前群ガウスタイプで後群ゾナータイプの標準レンズ」を打ち出したところ、そのレンズそのものは(性能の面に於いて)革新的という程でなかったが、発想法としては、後にツァイスが「前群ガウスタイプで後群トポゴンタイプ」をプラナータイプとして発表した事でワカルように、先輩格になっています。
そしてノーベル賞級の学者集団が二つのタイプを編み出したのですから折衷が正しいという可能性は増大するのではないでしょうか。