釣りに行かない日曜日は、家で「ゴロゴロ」している事が多かったが、今日は「寒い」のにも拘らず、日頃の「ウップン」を晴らすべく出かけてみた。
関宿城の歴史は、1457年「梁田満助」によって、築城されたのが始まりである。戦国の動乱に『北条氏』の手に落ちるが、豊臣・徳川連合軍に敗れ、徳川家康関東封入の折り、実弟である松平康元が「2万石」で入城する。以後城主は、松平・小笠原・北条・牧野・板倉・久世・牧野・久世と交代したが、1705年久世重之以後、明治に至るまで代々久世氏の治める領地となった。
関宿城の天守閣は、1671年に江戸城の「富士見櫓」を模して再建され、明治7年に取り壊されたそうである。「関宿城博物舘」はこの記録に基づき、現在の江戸城「富士見櫓」を参考に再現したものです。
関宿城本丸跡は、明治以降の江戸川改修工事で、大部分が河川の一部になってしまい、僅かに残っている所に「関宿城址」の石碑が建っていました。
東京湾に流れていた「利根川」を、徳川家康以降の工事で「銚子」までの流れに変えたって事、知っていましたか??えっ、知らなかったのは私だけ?
関宿城の歴史は、1457年「梁田満助」によって、築城されたのが始まりである。戦国の動乱に『北条氏』の手に落ちるが、豊臣・徳川連合軍に敗れ、徳川家康関東封入の折り、実弟である松平康元が「2万石」で入城する。以後城主は、松平・小笠原・北条・牧野・板倉・久世・牧野・久世と交代したが、1705年久世重之以後、明治に至るまで代々久世氏の治める領地となった。
関宿城の天守閣は、1671年に江戸城の「富士見櫓」を模して再建され、明治7年に取り壊されたそうである。「関宿城博物舘」はこの記録に基づき、現在の江戸城「富士見櫓」を参考に再現したものです。
関宿城本丸跡は、明治以降の江戸川改修工事で、大部分が河川の一部になってしまい、僅かに残っている所に「関宿城址」の石碑が建っていました。
東京湾に流れていた「利根川」を、徳川家康以降の工事で「銚子」までの流れに変えたって事、知っていましたか??えっ、知らなかったのは私だけ?