横手市増田。大正時代以降ここに大きなカネをおとして、美しい町なみをつくる力になったのは吉乃鉱山だった。採掘から製錬までを近代的機械と技術で一貫しておこなった。最盛期には大きな町ができあがった。
ただ、鉱山はいつか掘りつくしてしまう運命にある。外部から原材料を運んで製造加工し付加価値をつけたうえで外に流通させる構造に変えていかないと、やがて人もカネも去り、草におおわれた廃墟だけがのこる。
吉乃鉱山はどんなあゆみをとったのか。小坂鉱山のようにはうまく業態転換できず、ついに廃鉱になった。いま残るのは採掘場や工場の跡地だけだという。もっとも鉱毒の跡もくっきりとのこっているが。
吉乃鉱山の歴史をみていて気づいたのは、そうした本業のあゆみのほかに地域への貢献のことだった。鉱山関係者のこどもが多く通う学校に多額の寄付をながく続けている。西成瀬小学校に赴任してきた教員はそのことを知ってみな驚いたらしい。
さて「西成瀬小学校」と聞いて、言語教育の関係者ならばすぐに一人の教員の名前を連想するかもしれない。遠藤熊吉である。かれは母校の教員としてながくつとめ、生徒がいわゆる標準語を使えるよう指導した。著述家ではなくあくまでも実践家だった。
秋田方言は「し」と「す」がはつきりしない。遠藤が石ころを手に持つて「これは何というか」と生徒に聞くと「いす」と答える。それを口の断面図を板書したりほめあげたりしながら「いし」と言えるように指導しつづけた。この地域をおとずれたひとがきれいな標準語を耳にして、まるでこの一角に東京をもってきたようだとおどろいたという。かれの言語教育がどれほどみごとなものであったか物語っている。
遠藤熊吉に関する資料はまだ持ちあわせていないのだが、その一生をざっとふりかえると、私はふたつの関心をおぼえる。ひとつは、かれが「標準語」教育を思いついたのはなぜだったのか、動機や衝動を知りたい。これはいつもの関心であるが、もうひとつはちがう。
遠藤熊吉の実践教育がすばらしい実を結んでいることは、秋田県内では注目されていたのに、中央ではまったく知られていなかった。ようやく中央の国語教育研究所の所員が録音機を持って遠藤の授業を参観したのは昭和27年初夏。一様に感動したという。そこで、秋田に遠藤熊吉ありと名前が知れ渡るのだが、残念なことに数か月後の8月末に急逝してしまう。遠藤は指導方法をほとんど記録しない実践家だったこともあって、その体系は伝えられなかった。なぜもっとはやく注目されなかったのだろうか。
遠藤じしんは教えることに全力をかたむけ地位や名声を求めたわけではないので、満足して逝ったにちがいないが、なんとしても貴重な財産を失ってしまった。遠藤熊吉の名前は語りつがれるべきではないだろうか。
西成瀬地域センターHPより
ただ、鉱山はいつか掘りつくしてしまう運命にある。外部から原材料を運んで製造加工し付加価値をつけたうえで外に流通させる構造に変えていかないと、やがて人もカネも去り、草におおわれた廃墟だけがのこる。
吉乃鉱山はどんなあゆみをとったのか。小坂鉱山のようにはうまく業態転換できず、ついに廃鉱になった。いま残るのは採掘場や工場の跡地だけだという。もっとも鉱毒の跡もくっきりとのこっているが。
吉乃鉱山の歴史をみていて気づいたのは、そうした本業のあゆみのほかに地域への貢献のことだった。鉱山関係者のこどもが多く通う学校に多額の寄付をながく続けている。西成瀬小学校に赴任してきた教員はそのことを知ってみな驚いたらしい。
さて「西成瀬小学校」と聞いて、言語教育の関係者ならばすぐに一人の教員の名前を連想するかもしれない。遠藤熊吉である。かれは母校の教員としてながくつとめ、生徒がいわゆる標準語を使えるよう指導した。著述家ではなくあくまでも実践家だった。
秋田方言は「し」と「す」がはつきりしない。遠藤が石ころを手に持つて「これは何というか」と生徒に聞くと「いす」と答える。それを口の断面図を板書したりほめあげたりしながら「いし」と言えるように指導しつづけた。この地域をおとずれたひとがきれいな標準語を耳にして、まるでこの一角に東京をもってきたようだとおどろいたという。かれの言語教育がどれほどみごとなものであったか物語っている。
遠藤熊吉に関する資料はまだ持ちあわせていないのだが、その一生をざっとふりかえると、私はふたつの関心をおぼえる。ひとつは、かれが「標準語」教育を思いついたのはなぜだったのか、動機や衝動を知りたい。これはいつもの関心であるが、もうひとつはちがう。
遠藤熊吉の実践教育がすばらしい実を結んでいることは、秋田県内では注目されていたのに、中央ではまったく知られていなかった。ようやく中央の国語教育研究所の所員が録音機を持って遠藤の授業を参観したのは昭和27年初夏。一様に感動したという。そこで、秋田に遠藤熊吉ありと名前が知れ渡るのだが、残念なことに数か月後の8月末に急逝してしまう。遠藤は指導方法をほとんど記録しない実践家だったこともあって、その体系は伝えられなかった。なぜもっとはやく注目されなかったのだろうか。
遠藤じしんは教えることに全力をかたむけ地位や名声を求めたわけではないので、満足して逝ったにちがいないが、なんとしても貴重な財産を失ってしまった。遠藤熊吉の名前は語りつがれるべきではないだろうか。

西成瀬地域センターHPより