皆様に最初に申し上げたいのですが、ブログという形式上、あまり多くの内容を盛り込んだ長文は書けません。事実をすべて網羅した内容のお話を作ることは出来ませんから、ストーリーは現実に起こっている出来事に忠実なわけではなく、省略していることもあります。基本的に自分のblogでは、一つの記事は出来るだけ2ページ分に納める事を目安としています(レースレポートやテクニック記事など、例外はありますが)。それ以上の長さだと、ある程度興味を引く内容でなければ誰にも読んでもらえませんからね。この制限内であれば、考え方一つをしっかり提示できれば、記事の目的は達成と考えています。
まず、おっちゃんの話の設定から。
「1日にバスが2本」という設定は、「他には選択肢が全くないわけではないが、事実上クルマ以外に交通手段がない」という状況を分かりやすくするためのものです。「我が娘をクルマに乗せるなら、親なら安全のためにどう考えるだろうか」という点に議論を集約するためですね。こうしておかないと、「危ないならバスにすれば」「電車でいいじゃん」って話になりますので。
とはいえ、私たちの生活はクルマなしでは成り立たなくなっています。バスに乗っても自分の代わりに運転手さんが運転するのだし、そもそもクルマの重要性は人間の移動よりもむしろ物流の担い手としての存在にあります。クルマがなければ、あらゆる商業活動がストップしてしまうのですから。今更、船とリヤカーだけで我が国の物流を回すことが出来るわけがないですよね。徒歩で買い物に行って「俺はクルマなんか使わないぞ」と鼻の穴を膨らまして威張ったって、スーパーまで商品を届けているのはトラックですし。
おばあちゃんが亡くなった話、若者5人が亡くなった話には誰からも突っ込みが入りそうにないですね。バスが1日に2本しか来ないような田舎町で、十数年の間に6人が交通事故で亡くなったという、実は結構とんでもない話のはずなのですが、これを不自然な設定だと思った人はおそらくいないはずです。おそらく、「ありがち」という印象を持たれたでしょう。もちろん、おばあちゃんは別に交通マナーが悪かったというわけではありません。若者はマナー違反だったかもしれませんが。
もうひとつ仕組んだネタは、「初めて乗るんだったら、どうせぶつけるんだし」という車屋さんの店主のセリフです。「どうせぶつける」に違和感を覚えた方はほとんどいないはずです。ぶつけるってのは、立派な事故です。ぶつけた相手が電柱か自転車かなんて、ぶつかるまで分かりません。要するに、この「どうせぶつける」というセリフがオカシイと思わなかった方は、「事故は起こって当たり前」と考えていることになりますね。
交通事故は起こって当たり前。十数年の間に田舎町で6人が亡くなったことは「よくあること」で片付けられてしまう。一方、日本の原発の歴史48年の中で亡くなった方は公式発表ではまだ10名に届かないのに、原発関連死の10人は大きなインパクトを持って社会に受け止められる。なぜこの違いが生ずるのか、よく考えなければならないのです。
原発よりも、クルマの方がよっぽど人を殺しているのは事実です。しかし、クルマには代替手段がないので、いくら危険でも使わなきゃしょうがないってのが最も簡単な理由です。地震や津波の結果であっても原発事故は人災だと言う人がいますが、自動車事故はほぼ100%近くが人災です。
危険なものであっても、それが日常に存在し続けている事で感覚が麻痺してしまっている。「自動車vs原発」のリスク比較は、原発反対論者には侮蔑をもって受け止められているようですが、そこから得られる重要な教訓2つを見落としてはならないのです。
ひとつ目は、今述べたとおり、自動車の持つ危険性にみんなが慣れすぎてしまっていると反省すること。原発が怖いなら、クルマをもっともっと怖がって、原発以上に対策を考えるべき。
もう一つは、原発関連の被害者数は、自動車事故死者数に比べて遙かに小さいので、自動車のリスクを許すのであれば、原発に対する維持/廃止論には慎重に考える時間があると認識して、腰を据えた議論をすること。
自動車事故死者数は、約50年で数十万人です。生き残っても、後遺症で一生を台無しにした方や、重大な被害を被った死傷者のご家族までを被害者とすれば、被害者は数百万から数千万人に及ぶでしょう。
一方、今回の地震で原発に関連して7人が亡くなり、数万人の方々が避難生活を送っておられますが、日本の48年の原発史ではJCOの事故を加えても死亡者数はまだ10名に満たず、自動車事故と比べると1/1000~1/100にしかなりません(福島原発関連の死亡者数がまだ増えるかもしれないので、数字に幅を持たせます)。
誤解の無いように申し添えますが、だからといって原発推進論者のように「原発が安全だ」と言っているわけでは決してないのです。千葉に住む自分だって、毎日放射能入りの水道水を飲んでます。許されるなら実家のある関西に帰りたいくらいで、程度はしれているとはいえ立派な被害者です。しかし、だからといってヒステリックに反応すると、「電力会社役員の憂鬱」に書いたような間違いを犯す可能性が高い(経済破綻から生ずる年間数万人以上の死者など)。原発は非常に危険だけれども、それより100倍危険な自動車の存在を社会が認容するのであれば、原発の方向性をしっかり考える議論を行う時間はあるはずだ、ということです。
経済破綻からの死者に言及したついでに言えば、ホームレスに対する社会の認識にも非常に問題がありますね。
「乞食はやったらやめられない、奴らは好きでやってるんだ」って、未だにあちこちから声が聞こえます。でもね。若い頃から肉体労働に従事していて、途中で怪我をしたり、腰や膝を痛めたりしたら、彼らにはもう働く方法がないんですよ。50も過ぎてから、新たに頭脳労働につく勉強、出来ると思います?市の福祉課からは医師意見書の提出を求められますが、そこには「労働可、労働不可」を記す欄があります。その中には、「電話番などの軽労働なら可」とかいう選択項目があるのですが、実際問題として電話番なんて仕事、ありますかね?それに、ホームレスのおっちゃん連中と話していると、専門機関で診断をつけられていない精神疾患を持っている人も少なくないと感じます。こういう人は、職場から排除され、再就職も困難で、しかも生活保護を受けることも出来ません。好きでホームレスやってる人なんてまずいないし、いたとしてもごくごく一部と考えた方が実態により近いと思いますね。
「電力会社役員の憂鬱」に関して。
もちろん、旧式炉の延命が反対派のためだけだと主張するつもりは毛頭ありません。短いストーリーの中で、「こういう可能性もあるよ」と提示するために話をシンプルにしました。実際には、新規炉の建設より見かけ上のコストが安くつくというのが主たる理由だろうと想像していますし(結果的に、えらく高くつきましたが)、他にも理由はあるでしょう。しかし、コストが安いからというだけでは世間は炉の延命に納得しないはずなのに、ここに新規炉の建設を囲い込みまでして反対する人たちが登場すると、「こういう状況でなかなか設備を更新できない、旧式炉の延命は仕方ない」という口実を与えてしまいます。こういうことをきちんと斟酌するならば、原発反対派の影響を旧式炉の延命が選択された原因から排除するのは合理的ではありません。この論理は自分のオリジナルではなく雑誌記事で読んだものですし、その因果関係も非常にわかりやすいですから、多くの人が自分と同じようにこの問題を捉えていると見てよいでしょう。その多くの人たちに「旧式炉の延命に反対派の影響はない」と主張するならば、誰もが納得するだけの説明が必要ですね。