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日本国憲法の精神で選ぶ「銃弾・札束」と「放射能リスク。」

2014-08-02 01:32:43 | 国際・政治

本来はテポ丼さんからいただいたコメントに対する返信のつもりだったのですが、それを超える範囲を取り扱っていますので、必ずしも返信の体を為していないと思います。とはいえ前スレッド集団的自衛権について思うこと。をご覧頂いていないと流れがご理解いただけないと思いますので、該当記事をご覧でない方は、まずそちらをお読みいただくようお願いします。

まずはテポ丼さんにお礼申し上げたいと思います。東北にお住まいであり、震災を経験された方からご意見を頂戴出来る機会は極めて貴重です。感謝申し上げます。

例により、コメント引用させいただきます。

平和を愛するなら、右手を差し出し、左手にはハンマーを握る。
憲法9条は戦後確かに抑止力になったし、これからもこの信念は世界に示すべきだと思う。
ただ、もう米国の傘の下の9条では不安定な時代になった。
むしろ安保より、自国の防衛力を自立して高めるべきである。
つまり改憲し防衛力を高め平和を示すべきであると考えます。
外交の後ろ盾は防衛力というのを忘れてはいけない。

原発問題については、将来脱原発に賛成です。原発事故当時首都圏を含め東日本地域が汚染し日本沈没の危機だったのを肌身に感じられたのだろうか?現在でも2、3号機がメルトダウンし続けているのをご存知なのだろうか?
今でも、放射能が出続けているのをご存知か?
自国技術発展の前に自国が破滅に向かうかもしれん。
リスクを覚悟の上での継続なら構わんが・・想像すら出来ないリスクを負えますか?
もっとも、原発誘致した地域の人達は大いに潤った。そして原発事故の今も膨大な保証金を頂き、もっとよこせと訴えている。
これが現実かも・・?

人類がコントロール出来ない物は
コントロールの真似事なぞすべきではない。
コントロールは次世代、次々世代の未来に任せてというなら、代替エネルギーも同じように考えていくべきだと思うのです。
原発推進派の方々は、1週間くらい大熊近辺に滞在したらいい。
色んなことが見えますよ。
東京電力、国の嘘や情報隠し。住民のエゴや被害者感情。
ちなみに「東電」と言う住民は平時の時代、推進派で保証金、賠償金をもっと欲しがる人々。「原発」と言う住民はもともと反対派住民で革新派。金より現状を訴える住民達・・・・・

どちらが正しいかは確かめてみたら・・・?

ご意見、どうも有難うございました。取り扱うべき話題が極めて多く、どうお答えしたものか悩んでいたのですが、もっとも重要な部分に焦点を当てたいと思います。

まず、コメントいただいた記事 集団的自衛権について思うこと。で述べたことを改めて確認したいと思います。この記事では、

アメリカの若者や、アメリカと対立して来た国々の国民が血を流して来たから、軍備しないで商売に専念出来て、物騒な中東から石油を供給してもらえてたって構図に知らんぷりして「平和主義で御座い」と嘯くなら、何かがおかしい。そんなもの「平和主義」ではなくて、「自分だけ手を汚したくない」という「ご都合主義」でしかない」

現代の日本人は、米軍がいないと自国の安全も確保出来ないし、米軍と米軍が展開した地域の人々の血によって運ばれて来た資源に頼らないと生きて行けない構図になっている。そういうのを何とかしたい」

と書きました。我々が使っている化石燃料は、平たく言うと「銃弾と札束」で遠い外国から引っ張って来たものです。基本的に全く異なる文化圏の国々にある地下資源に、欧米諸国や我々日本が強い関心を示し、それら異文化圏の国々の都合よりも我々の都合を優先させて軍事介入を行い、多くの人々の血を流した上で、札束のチカラにモノを言わせて他所の国の地下資源を自国に引っ張って来ているわけです。

その流れの中で、どれほど多くの人々の血が流れ、命が失われて来たのか、正確な統計は取れないでしょう。いったい何百万人、いや何千万人になるのか分かりませんが、数字が弾き出せないのは「石油資源を押さえるため」と公言して行われた紛争・戦争は起こっていないからです。古くは日本が太平洋戦争に突き進んだ理由だって、日本に石油資源がなかったことが大きな部分を占めていますが、建前では「大東亜共栄圏の建設」でしたよね。

我が国で原子力開発が切望された理由は、まず第一に化石燃料依存からの脱却です。エネルギー政策が国家の存亡に関わる大問題であることは、太平洋戦争に突入し、そして敗北することになった日本にとって明らかでした。日本は石油資源確保のために東南アジアに軍を進めましたが、今は日本の代わりにアメリカが中東に軍隊を送っています。もし中東に石油資源がなかったら、アメリカがイラクに派兵することもなかったでしょう。イラク以外にも世界中に圧制に苦しむ民衆はいますが、その全てを救うべくアメリカが派兵しているわけではないのは周知の通りです。

血生臭さを拭い去ることの出来ない火力発電と違って、原子力発電の場合、日本の主なウラン調達先はカナダ、アメリカ、フランス、イギリス、ロシアです。政情的には安定しており、札束が必要になることはあってもこれらの国々の間で銃弾が飛び交うことはあり得ません。また、海水に微量に含まれるウランを抽出する技術も確立しつつあり、コスト的には割高ながら実用化することは充分に可能と見積もられています。これが実用化すれば、海に囲まれた日本はウランを輸入する必要もなくなります。先に挙げた国々のウラン資源が尽きようとも、我々のために誰かが銃弾を発することは起こりません。

テポ丼さんの仰る「ご存知か?」について、私はテポ丼さんほどではないでしょうけれども、知っています。核融合関連の仕事に携わっていた兄に感化された私は数十年来の原発嫌いですし(原発は核分裂を利用するもので、核融合は全く異なる技術です)、何より私の住む千葉県は東北地方、例えば宮城県を上回る放射能汚染地域です。週刊誌にデカデカと紹介された超絶ホットスポットは、私の自宅から徒歩圏内なのです。

そういうことで、多少なりと知ってはいて、それでも「今は原発を動かせ」と言い続けています。確かに、全国各地の原発立地地域と異なり、「原発が地域を引き裂いた」ような事態は起きていないと思います。しかし、放射能汚染に関しては、テポ丼さんよりも強い当事者意識を持っているかもしれません。内部被曝線量も、恐らく私の方が多いでしょう。もともと医療被曝(X線透視装置を常用)で相当の外部被曝をしているはずで、正直あまり歓迎出来ない事態なのですが。

「想像出来ないリスクを背負えるか」というお話。

現在、事故から3年を経た今なお放射能漏れが収束していないという現実が見えています。放射能の流出という物理的な現象だけでなく、不安に駆られてデマが飛び交い、真実が覆い隠されて見えづらくなり、救いの手を差し伸べるべき地域の皆さんを根拠もなく傷つける発言が平気で行われるようになるという社会現象も見えています。福島規模の事故が起こればどうなるか、まさに我々が証人と言っていいでしょう。

そして、今のところは放射能汚染による直接死はまだ観察されていませんし、小児の甲状腺がんも他府県に比べて増えていないことも確認されていますが、それでも将来ではなく現在の健康被害を喧伝する大きな声が響いています。

ここでちょっと考えていただきたいのですが、福島の事故が大規模だと喧伝すればするほど、今後発生するであろう大事故の大半が、福島レベルの規模に留まるであろうと想像することが可能になるのです。事故が起きた今、原発事故は「想像もできないリスク」ではなくなっているのです。我々は現在、「1、2、3号機がメルトダウンして全ての隔壁が破綻し、4号機の燃料棒が剥き出しのまま置き去り」という、これ以上を想像しにくいほどの過酷事故の結果をリアルタイムで見ているのです。「想像もできないリスクを負えますか」とテポ丼さんは仰いますが、福島原発事故以前と違って、「いま目の前で起こっていることが、再び将来に起きても良いか」という極めて現実的な検討が可能になっています。

なので、未来の事故を想像するよりも、今起こっていることをしっかり見つめるのが大事です(「今」には今後数十年での発癌率推移も含みます)。とにかく、起こってもいない事故の想像を膨らませることよりも、現実に起こった事故の周りに飛び交う情報の何が嘘で、何が真実かをしっかり見極めることが必要なのです。今後、軽水炉という構造で今回の事故を上回ることが出来るのは、原発へのミサイル攻撃、テロ攻撃くらいしかないと思います。

「人類がコントロール出来ない物は、コントロールの真似事なぞすべきではない」

これはテポ丼さんだけではなく、大勢のコメンテーターから聞かれる言葉ですよね。この言葉をお使いになる方には質問させていただきたいのですが、今回の「戦争と平和」というテーマにおいて、人類は今までの歴史の中でいったい何をコントロール出来たと言えるでしょうか?

人類が「拳」を発明してから、戦いの方法はどんどん進化して来ました。拳と石器、あるいは棒切れ、どれが一番古い発明かは知りませんが、いずれにせよ人を殺すための武器はどんどん進化を続けて来ました。平和を尊ぶ精神は世界中のいつの時代にも存在したはずですが、その平和の精神が武器の進化、そして戦争の大規模化をコントロール出来たか?答は、否です。

福島の事故で被害に遭われた方々については、首都圏に住み、福島の電力を利用させていただいていた人間の1人として、申し訳ない気持ちで一杯です。放射能による直接死はなくとも、不慣れな環境での病死や自殺が多発していることは知っています。

しかし、その一方で、私達の生活が遠い国の老若男女と同盟国の若者の数百万人の犠牲の上に成り立っているという現実も知っています。

戦争報道の映像を見る時、「日本人には関係ない」と思って眺めている人は多いと思います。しかし、私達が生活で何気なく使っている品々を通じて、私達は世界の人々と繋がっているのです。私達の身の回りにある品々がどのようにして私達のところに届いたのか、多少なりと関心を持つと「私達には関係ない、責任ない世界の話」とは言えなくなります。

「顔が見えない人なら死んでも良い、日本人だけを大事にしたい」という発想は平和主義ではない、というのが前回のエントリーの主旨です。

平和を維持するためにはそれなりの努力が必要です。努力してもそれが報われず、人類の持つ殺傷能力は拡大の一途を辿って来ました。2度の世界大戦を経てなお、世界から戦火は絶えておらず、そしてその全てに日本は責任がないなどということはありません。

私が「原発を動かせ」と言っているのは、遠い国の数百万人の命が失われ、これからも生命の恐怖にさらされ続けるのと、自分の国の同胞が危険にさらされるのと、どちらを選ぶかを考えた末のことです。日本国憲法の精神である「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」に則り、70年の間平和を享受して来た日本だけでなく、遠い国に生きる数百万人にも平和が訪れるようにしたいのです。技術を高めて原発をしっかり管理出来れば、少なくとも日本は石油の分捕り合戦から手を引くことが出来、中東の平和のための発言力を持つことが出来るようになります。長くても100年以内に枯渇する石油資源の争奪戦は、代替エネルギーが見つからない限り、今後激しくなることはあっても緩和することはあり得ません。その中で、日本がどんな役割を果たすか考えたいのです。争奪戦の参加者になるしかないのか、それとも利害関係を離れた調停者になれるのか?

先程は「人類が何をコントロールして来たか」と問いましたが、その逆の話を。

「空を飛ぶなんて自然の摂理に反している」と断じた人はいくらでもいます。しかし、ライトフライヤーが飛んでから110年を経た現在、そんなことを言う人はごく少数派になっています。空を飛ぶという非常識な行為は、一定のリスクを許容するという条件のもと、コントロール下に入りました。

放射能は、人間の五感では感じることが出来ず、その健康への影響もその場で出ることがないという、「得体の知れない」物質です。怖くないと言ったら嘘です。しかし、原子力は人類が有史以来失敗し続けて来た「資源をめぐる戦争を終らせる」という大きな目標には必ず役に立ちます。また、技術とは進歩するもので、100%の安全は確保出来なくても、許容出来る範囲に収めるように努力を重ねることは可能だと私は考えています。福島原発の原子炉は1960年代の設計で、実に50年が経過しています。更新頻度の少ない巨大設備とはいえ、流石に50年前の技術で物事を語るべきではないと思います。最新の設計に基づく安全な炉への置き換えが急務だと私は考えています。

国防、経済、原発といった問題は、それぞれを単体で取り出して語ってはならないと思います。それら全てに密接な関係がありますから、総合的なデザインのもとに全体をまとめて議論しなければなりません。集団的自衛権の是非をキッカケにお話しして来てはいますが、あえて国防の話題に限ってさえ、集団的自衛権だけを取り出すのも本来はナンセンス。自衛隊が外に出るかどうかが大事なんじゃなくて、どうすれば世界が平和になるかを総合的に考えなければならないのです。その総合的な取り組みの一部として、エネルギー部門では「世界が平和になるためには、日本のようなエネルギー大量消費国家は核融合が完成するまで原子力を使うべきだ」というのが私の意見です。武力でバランスをとることを考えるより、そもそも武力が介入しなくてすむ状況を作ることを優先すべきだ、ということです。

余談ですが、ソ連が崩壊したのは経済が破綻したからです。アメリカに経済力で遅れをとっていたソ連がアメリカとの軍拡競争に多大な国費を投入した結果、耐えきれずに内部崩壊したということです。現在、中国が経済成長を上回る急激な速度で軍備拡大を進めていますが、これに対抗するのは最小限の機能的な軍備と経済力の優位維持です。ソ連同様に多大な軍事費負担で自壊してくれれば日米の勝ち、日本経済が中国経済に飲み込まれるようになったら中国の勝ちです。テポ丼さんは「外交の後ろ盾は防衛力」と仰いましたが、防衛力の後ろ盾は経済力です。

原発事故直後にしばしば聞かれた「贅沢はやめ、原発を捨てよう」というスローガンは油断しているともっともらしく聞こえるのですが、よく考えていただきたい。

原発が動いていた時、日本人は「我々は豊かだ」と言っていたのか?そんなことはありはしない。リーマンショック以来の不景気には全く先が見えず、失業率も高いままで、日本全体が憂鬱な気分に包まれていたはずです。贅沢なんかしてなかったのです。

「原発廃止」「核武装禁止」「経済活動の縮小」「外国人参政権」が全て実行された時、笑うのは誰か?少なくとも、中国、韓国、北朝鮮の指導部は笑いが止まらないでしょう。日本の未来を生きる子供達が笑っているとは思えません。

「戦いとは、常に二手三手先を読んで行うものだ」とはシャア・アズナブル。戦争って、軍隊だけでやるもんじゃないですよね。三国志を読んでいると、戦争とはまず平時の謀略から始まるものだということがよく分かりますし、そういう視点で日本の国情を見ると、既に極めて危険な状態に陥っていると言わざるを得ません。スパイ防止法が潰されるとか、国家基盤の産業技術が盗まれ放題とか、いい加減に平和ボケから目を覚まさなければ。眠れる獅子はとっくにお目覚めです。

話が逸れましたが、「銃弾・札束」と「放射能リスク」の話に戻ります。日本が化石燃料に依存し続ければ、「継続的に大量の犠牲者を出しながら、札束で資源を買い漁る行為の尻馬に乗り続ける」という構図が今後も続くことになります。この構図からの脱出には、アメリカが自国外から石油を買い付けるようになって以来、未だ成功したことがありませんし、見通しも立ちません。日本国内から巨大な埋蔵量の油田が発見されるしかないですから、努力でどうにかなるものじゃない。

しかし、技術は努力によって確実に進めることが出来ます。ライトフライヤーで地面から浮かび上がった日から科学技術は進歩を続け、限られた人数ながら宇宙空間に人間が長期感滞在することは当たり前になりました。宇宙旅行の商業化も現実味を持って語られるようになっています。今回の福島の事故で、1960年代に設計された原子炉および周辺システムには、総合的に安全面で不備があったと分かりました。50年の間に海外ではスリーマイル、国内では「もんじゅ」や福島第一など様々な教訓を得た我々なら、1960年代よりも安全な原子力発電所を設計・施工することが出来るはずです。絶対に落ちない飛行機は存在しないけれど、滅多に落ちないので私達は飛行機で海外旅行に出かけます。それと同じように、実用レベルの原子炉を作ることは可能だと私は信じています。少なくとも、「掛け声だけで戦争がなくなる」可能性よりは高い。

そして、未来永劫にわたって原発を使うのではなくて、何としても核融合技術をモノにしたい。核融合のような巨大技術はチャンスを逃せば完成しない可能性がありますが、21世紀前半は人類に与えられた数少ないチャンスだと思っています。現在人類が知っているエネルギーで、核融合よりも大きなエネルギーを人工的に生み出せるものは存在しないので、これが実用化されれば未来永劫に世界からエネルギー戦争を一掃出来ます。現在の文明社会は化石燃料に支えられており、このような社会が存続出来る上限はどんなに長く見積もっても100年以内です。核融合研究には、それまでに研究段階を終えて実用化されていなければならないという時間的制限があります。しかも、その100年間の終わり際には現在よりも紛争・戦争が増えるでしょうし、核保有国も増えているでしょうから、偶発的な全面核戦争すら起こりかねません。化石燃料争奪戦が激化して研究どころじゃなくなる前に、何としても核融合炉の商業運用を達成しておきたいのです。

「自分ちだけが幸せならいい」って発想はやめて、みんなで幸せになる方法を考えたい。そのためには、中途半端なキレイゴトを言うのはやめて、現実的に力を持つ手段を見つけたい。日本が今の経済力を維持しているうちに、何とかその道筋をつけられないかと思います。世界で一番キレイゴト言って来た日本だからこそ、何か出来ることがあるはずです。

戦争で人が死ぬのは、殺意を持って引き金を引く人がいるからです。また、有史以来戦争がなくならないのは、戦争をする理由がなくなっていないからです。有史以来、人間は戦争を回避する有効な手段を持っていませんでした。「約束は破られるためにある」との言葉通り、同盟や不可侵条約も都合次第で破棄されてきました。そこに初めて登場した有効な抑止力が核兵器です。偶発的な事故以外に、核保有国同士が全面戦争することはなくなったという歴史的な場面を我々は目撃しています。しかし、現在核兵器は一部の国のもので、世界各地での紛争・戦争は絶えることがありません。

原発で人が死ぬのは、努力が足りなかったからであって、そこに殺意はありません。努力すればするだけ、安全性は高められます。核兵器のない時代、外交努力や軍備増強では戦争は防げませんでした。それに比べれば、原子炉は極めて科学的な代物なので、努力した分だけ必ず安全性を高められます。いくら努力しても100%安全になることはあり得ませんが、以前のエントリーで述べた如く、例えば日本だけで毎年1万人の命を奪って来た自動車ほど危険なものでもないと思います。

平和のために何が最善なのか?一所懸命考えたからといって必ずしも自分の意見が正しいとは限らないことは知っているし、何を大切に考えるかによって、意見は異なってくることも知っています。「どうせ達成出来ない世界平和を目指すより、日本人だけでもお気楽に暮らせたほうがいいじゃないか」というのも現実的な意見だと思いますし、日本人として正しいのかもしれません。他人よりも家族を大切にするというのは人として当然の行動規範ですから、他国の人より自国の人を優先するのは普通です。ただし、日本国憲法の謳う理念は「世界平和」であって「日本だけ平和」ではないと思うし、ならば「日本だけ平和」というご意見の方には「憲法が素晴らしいとか平和が大切とか言わないで欲しいよね」という毒を吐いたのが前回のエントリー、ということでした。


はいやんさんに返信。~自立、協力、依存という視点で~

2014-07-27 02:36:14 | 国際・政治

(前スレッド集団的自衛権について思うこと。にお寄せいただいたコメントへの返信ですので、お読みでない方はまずそちらをご覧下さい)

コメント有り難うございます。いただいたコメントを引用させていただきますが、話の展開上、記号をつけさせていただきました。

選択肢としては、A.自分の身は自分で守る。B.すべてを放棄して、自給自足の生活をする。C.アメリカにすべてを委ねる。D.何も選択できずに衰退していく。
ということになるんでしょうか?アメリカに見放されたら日本もいつか決断するときが来るのかもしれませんね。

国同士の付き合いって、政治レベルで管理すべきものは「国防」「経済」の2つに集約されると思います。また、それらについては大雑把に「自立」「協力」「依存」の3種の関係性があると言っていいでしょう。

まず、私の認識から述べさせていただきますが、アメリカとの2国間で上記の関係性を考えるに、日本は国防をアメリカに依存し、経済では相互依存の関係にあると思っています。

自衛隊があるのに何故アメリカ依存かといえば、まず日本の防衛は核の傘を含めた圧倒的な実力を持つ米軍の存在が大前提になっていること、また防衛出動ですら国会の承認が必要である以上、自衛隊による個別自衛権の行使にすら支障があることの2点です。領空侵犯機が自衛隊機の警告を無視しても、これを現場の判断で撃墜することは許されていません。超音速で飛来する航空戦力には、秒単位ないし分単位の対応がなされなければなりませんが、現実にはスピーディに対応出来る組織・運用になっていないのです。また、「協力」と言うためには米軍が攻撃されたら援護しなければなりませんが、これは集団的自衛権の行使にあたるため、これまで許されていませんでした。目の前で米軍機が撃墜されても反撃しない自衛隊では、米軍が「友軍」と呼んでくれるとは思えません。

では、そんな視点から頂戴したコメントを拝見してみます。

国防に関しては、はいやんさんの挙げられた選択肢は A.自立、B.依存、C.依存ということになるでしょう。B.では、憲法が謳う通りに全ての戦力を放棄するわけですから、周辺諸国の「良心」に依存する、ということになりますね。

私個人の意見としては、安全保障は1国単独での「自立」ではなく、多国間の「協力」によるのが良いと思っています。これまで日本では集団的自衛権が認められておらず、米国との2国間協定しか存在しません。この2国間協定による安全保障体勢は、上に書いた通り「協力」ではなく「依存」であると認識しています。

東アジア圏における中国の膨張意欲は阻止しなければなりませんが、東アジアには中国の圧力に1国で対抗しうる国は存在しないと思います。これまでは超大国アメリカが1国でその役割を果たしてきましたが、既にアメリカ経済には衰退の兆候が見えており、今までのような強大な軍事力を今後も維持出来るとは思えません。武力行使に消極的なオバマ政権の外交姿勢を見るにつけ、アメリカは「世界の警察官の役割から降りたがっている」と見て良いでしょう。

アメリカ経済の衰退が避けられない以上、いずれ安全保障面でアメリカだけでなく日本と協力し合いたいという国が出てくると思います。その時期が来るのは相当先の話になるでしょうが、その頃には日本も衰退していて、現在のような経済力は持ち合わせていないでしょう。それでも東アジアの中では上位に位置すると思いますが、現在のように「通常兵器の範囲なら単独で人民解放軍の攻撃から国土を防衛出来る」ほどの戦力は維持出来ていない可能性はそれなりに高いと推測しています。このため、日本単独ではなく、アジア諸国と協力し合う相互安全保障体勢を東アジア圏につくる必要があると思います。

国防面の次に経済面ですが、はいやんさんのB案「自給自足」は、実行するのがかなり難しいと思います。データは持っていないのですが、1億2000万人の胃袋を満たせるだけの食料を現在の日本の耕地面積で生産出来そうな気がしないんですよね。もし可能だとしても、科学技術集約型農業になると思いますので、日本国内では産出されない各種資源が必要になります。それを購入する外貨を何らかの形で稼がなければなりませんが、農業国として外貨を稼げるほどの国にはならないでしょうから、結局のところ現在の構造「諸外国との相互依存」とあまり変わらないのではないかと思っています。

余談ですが、化石燃料依存型の経済社会は否応なくいつか終焉を迎えますから、世界が化石燃料の代替エネルギー開発に失敗した場合、科学技術を失って「江戸時代に戻る」という展開も現実味を帯びてきます。ただ、以前の記事でも触れたように、江戸時代に日本の国土が支えることが出来た人口は3000万人ですので、現在の1億2000万人からダイレクトにそこを目指すのは無理ですから、「国家の衰退に伴って必然的にそうなった」という形になるでしょうね。

コメントの最後にある、「アメリカに見放されたら日本もいつか決断するときが来るのかもしれませんね」に関してですが、アメリカが見放す時は日本に利用価値がなくなった時ですから、日本にはもはや自らの意志で何事も決断する力が残されていないんじゃないかな。そうなると、為す術もなく第二のチベットと化すのみでしょうね。そうならないためにどうしたらいいのか考えたいと思います。決断出来る力が残されているうちに。


幾松さんに返信。~集団的自衛権を考えるに当たって~

2014-07-26 09:05:07 | 国際・政治

(前スレッド集団的自衛権について思うこと。にお寄せいただいたコメントへの返信ですので、お読みでない方はまずそちらをご覧下さい)

はじめまして、コメントどうも有難うございます。まず、コメント引用させていただきますね。

始めまして、横からのスレで、失礼します。我が家も、男子がおりますので万が一の時は、戦地に送り出さなければなりかねない親です。

今の時点で、私も脱原発には反対です。火力や、風力なんて今はまだ、現状無理。現実的には、原発稼働で行くしかないと思っています。

ただ、職場での発言は、議論を呼んでしまうので、出来ませんが・・。(汗)

平和を願うことは、本来他国も同じく願う事だと思います。

今の憲法が、現代語訳で解釈して通じますか?って議員の方にお伺いしたいです。


男の子のお母様ということで、今回のここで取り扱った集団的自衛権という話題についてはなかなか意見が出しづらいですよね。なのでコメント投稿していただく必要はないのですが、是非ご自分の中では意見を明らかにしてみてください。

この「集団的自衛権」という問題を考えるに当たっては、「我が子を戦地に送っていいかどうか」だけに囚われることなく、「集団的自衛権を認めるのと認めないのと、どちらが戦争を回避出来る可能性が高いか」という視点がなければなりません。大手マスコミ含め、反対論者にはこの視点が欠けている人が多いのです。「集団的自衛権=日本人が戦地へ」という短絡的な論調が目立つのですが、集団的自衛権を認めることで戦争が避けられるなら、そもそも戦地が存在しなくなるわけです。重要なのは「日本人が戦地に行くかどうか」でなくて、「戦争しなくて済むかどうか」です。日本が集団的自衛権を持つことが、世界から戦争をなくす役に立つか?という大きなテーマについて考えなければなりません。この判断には、それなりの情報収集が必要になると思いますし、情報を集めても各個人で意見が分かれるところでしょう。

原発に関しては、自分は元々筋金入りの「原発嫌い」なんです。一刻も早く原発の代わりが出て来てくれないかと思っています。しかし、今はまだ他に代替できるエネルギー源がないと判断しているので、原発を使わざるを得ないと思いますし、再稼働というより21世紀に設計された安全な新設炉に置換してゆくべきだと考えています。この機会に、危なっかしい古い炉は一掃して欲しいですね。

今の憲法は、その理念は素晴らしいと思うんですよ。ただ、米軍の陰に隠れていられるから掲げていられた「夢物語」のようなものです。日本国憲法が施行された1947年の時点でも、米軍の後ろ盾なしで通用したとは思えないですね。

太平洋戦争が終ったからといって、武力で国境を書き換え、政権を奪取しようという試みが当たり前だった時代が終わったわけではない。日本国憲法が施行された3年後には朝鮮戦争が起きています。この戦争が起こった時点では、日本には後の自衛隊の前身である警察予備隊もありませんでした。

もし米軍が太平洋戦争終結後に日本を武装解除しただけで日本に進駐せず、置き土産に日本国憲法を残して立ち去っていたら、ソ連、中国、南北朝鮮が日本をどう扱ったでしょうか?韓国は日本に米軍が進駐していてすら竹島を武力奪取しているくらいですから、どうなるか想像するのは容易です。太平洋戦争終結後も、アジアではチベット侵攻、ベトナム戦争といった「銃弾で物事を解決しよう」という争いは続いていました。日本の戦争は終っていても、アジアは平和ではなかったのです。

そうした地域の中に丸裸の日本があれば、腹を空かせた猛獣の中に生肉を投げ込むようなものでしょう。「日本に蹂躙された」という記憶が生々しく刻み込まれている国々にとって、アメリカとの戦争に負けた日本が、アメリカの書いた作文を読み上げて「あなた方を信用して武力放棄します」と宣言したからといって、「日本は平和主義になったから尊敬しなきゃ、弱ったからといって攻め取っちゃいけないね」なんて思うかしら?

太平洋戦争後の日本の安全を保障して来たのは、米軍そして自衛隊であって日本国憲法ではない。

しかし、日本国憲法前文に記された「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」という理念通りに、様々な支援活動を通じて国際社会に多大な貢献をして来た先輩方を持つことは、現代に生きる日本人として誇らしいことだと思います。「言うは易く、行うは難し」という言葉がありますが、日本を武力制圧したアメリカが自分の都合で並べたて押し付けて来たキレイゴトを、「戦争はいかん」という痛切な反省の下、「キレイゴトそのまま丸ごと忠実に実行しよう、夢を現実世界に広げよう」と挑戦し続けて来たのが戦後の日本人だというのが私の認識です。

こうした話題に関しては、職場での議論は難しいですね。私は職場でも「北朝鮮は間違ってない、日本も見習って核を持つべきだ」とか平気で言ってます。ただまあ、「なぜそう思うのか」をキチンとその場で説明できないと「単なる危ない人」扱いされてしまうので、それなりに理論的な裏付けが必要です。感情論と理性的な判断の両方をきちんと把握した後で、「理性だけで考えると、確かに一理ある」と認めてもらえる程度の説明をしなければならないし、そのためにはまとまった量の情報伝達が出来る「場」も必要ですので、ハードルは高いと思います。また、感情だけで動いている人にはいくら説明してもハナから聞く気がないので、リアルではそういう方とは議論しないことにしています。職場は仕事するための場所なのであって、チームワークを壊してまで自分の意見を問う場ではないですからね。

それでは、いきなり大きな返信をつけてしまいましたが、今後ともお気軽にコメントくださいね。


集団的自衛権について思うこと。

2014-07-24 22:10:45 | 国際・政治

「焼き肉は好きだけど、牛も豚も殺したことない私は動物愛護主義者」って、通用するの?

「将来、日本の子供達が血を流していいのか」と訴える人は、今まで日本人のためにアメリカの若者たちが数十年間血を流し続けて来たことは平気なんだろか?

日本人の多くは、中国人・韓国人に対して「もう70年も前のことなんだから、いい加減忘れてくれよ」と言う。

でもね。そう言いたいんだったら、日本人だってアメリカ人が民間人を含む数百万の日本人を殺したのを忘れることにして、「もう日本のためにアメリカの若者が血を流さなくてもいいんですよ」とアメリカ人に言わなきゃおかしい。

そりゃ勿論、アメリカの若者が血を流して来たのは、日本人のためというよりも「日本を自国陣営につけておきたい」「日本人に武器を持たせると物騒だ」というアメリカ自身の都合。

でも、アメリカの若者や、アメリカと対立して来た国々の国民が血を流して来たから、軍備しないで商売に専念出来て、物騒な中東から石油を供給してもらえてたって構図に知らんぷりして「平和主義で御座い」と嘯くなら、何かがおかしい。そんなもの「平和主義」ではなくて、「自分だけ手を汚したくない」という「ご都合主義」でしかない。

肉を食べられるのは、その前に誰かがしてくれてるから。そこで「自分の手で殺していないからオレは殺生はしていない」と言ったって、閻魔様には通用しないと思うのが普通じゃなかろうか。

一向に「アメリカの核の傘から出よう」と宣言しようとしないエセ非核主義者や、アメリカの若者の犠牲を前提にして日本の子供達の未来を語るエセ平和主義者たちには、もうウンザリ。平和を語るなら、他国の若者の命も大事に思わないと。

「平和憲法があったから、日本は70年平和を維持出来たのだ」と主張する人に訊ねてみたい。日本は平和を維持出来たのは、平和憲法があったからではなくて、今までの日本がアメリカにとって重要な国であり、「日本への攻撃はアメリカへの挑戦とみなす」とアメリカが睨みを利かせて来たからじゃなくて?

もちろん平和憲法のおかげで、日本は太平洋戦争以来ただの一度も遠い他国に武力介入していないので、世界の中で「平和を愛する国」というイメージ作りには多いに役立ったと思う。しかし、それが国を守って来た主たる要因かといえば、それは違うと言わざるを得ない。

それでも「集団的自衛権を認めない」と言う人は、アメリカが日本を守ることも拒否しないと筋が通らない。日本の集団的自衛権を認めない人が、アメリカの集団的自衛権に頼るのはおかしいでしょ?

ただ、「集団的自衛権を認めると、アメリカの戦争に巻き込まれる」という意見はもっともだと思う。だったら、巻き込まれないような状況を作っておけばいい。

ひとつには、米軍に頼らなくても自国の安全を守れる力をつけること。現状で日本から米軍がいなくなって一番困るのは日本だから、アメリカの「手伝え」「カネ出せ」って無茶ブリも受け入れざるを得ない。アメリカは日本を失っても以前ほどには困らないと思うよ。

もうひとつは、危険な地域の資源に頼らなくて済むようにすること。喫緊の目標は、化石燃料依存から脱却。だからこそ今このタイミングで原発を捨てるべきではないし、核融合技術研究を支える経済を失速させるようなことがあっちゃいけない。国家経済に余裕がないと、こんな巨大技術にカネは出せないんだからね。

現代の日本人は、米軍がいないと自国の安全も確保出来ないし、米軍と米軍が展開した地域の人々の血によって運ばれて来た資源に頼らないと生きて行けない構図になっている。そういうのを何とかしたいんだよね。

北朝鮮の必死さを見ても分かるように、国防においては核兵器に優る防御力はない。1000年先を見据えて恒久的に化石燃料依存からの脱却を実現出来るエネルギー源として現実的な選択肢は核融合しかないし、その実用化までの数十年を繋ぐのは、すでに商業レベルの実績がある原発しかない。憲法9条の思想は美しいし、その思想を堅持しようと務めて来た先輩達の努力は誇って良いと思うけれど、米国の突出して強大な軍事力という背景なしでは存在し得なかった代物なのであって、実用的な見地からは米軍以外にソ連しか脅威が存在しなかった時代の遺残物に過ぎない。平和主義者なら、今の時勢に合わせ、今後100年は通用する「新・平和憲法」を起草する心意気を見せようよ。

ユンソナが言ったらしいけど、お友達が家に来る時には貴重品はしまっておくのがマナー。「力はないけど金はありそうに見える」って、滅ぼしてくださいって言わんばかり。そういう邪心を起こさせちゃいかんのよ。今のところはアメリカのプレゼンスが日本を守ってくれているけれど、未来の日本を「カネの切れ目でジャイアンに見限られたスネ夫」にはしたくないと思う。

平和を愛するなら、日本の平和だけでなく、世界の平和を考えなきゃならない。日本のためにアメリカの若者が死んでも平気って思ってるようじゃ論外。それで、アメリカがあちこち出かけて戦争する片棒を担ぎたくなけりゃ、どうすればアメリカが危ない地域に出かけて若者を死なせているのか考えなきゃ。自分はその原因として紛争地域の地下にある化石燃料の存在が極めて大きいと思っているので、化石燃料からの脱却を考えたい。

「平和憲法さえ維持していれば絶対に戦争なんて起こらない」と信じ切っている人が多いから、国防を真剣に考えないで「武器があるから戦争が起きる」なんて寝言を人前で堂々と言えるのが日本。その「お花畑」こそが日本の財産なのだけれど、「ひとつ間違えば戦争が起こる」「戦争になったら自分も駆り出される」という緊張感がなかったら「どうすれば平和が達成出来るか」なんてリアリティを持って考えないと思うよ。「お前は兵隊に呼ばれないから好きなことを言ってるんだろ」と言われるかも知れないけど、40代で整形外科手術の心得がある下っ端医者なら、軍医として最前線に放り出されるだろうから、発言権はあるんじゃないかな。


支援と、憐れみと。

2013-05-02 22:47:36 | 国際・政治

人道的支援と、憐れみとについて、前のエントリーのコメントで少し触れました。これについて、少しコメントを追加したいと思います。

若い頃には、どこかのNGOに潜り込んで外国で働こうとか思っていたりもしたので、国内にあるNGOをいくつか訪問して話を聞きに行ったりしたことがあります。そこで時折聞かれる言葉に「援助は憐れみじゃいけない」「可哀想な人たちを助けに行くって発想じゃいけない」ってのがあったのですが、「じゃあどうだったらいいんですか?」と聞いても誰からも明快な答が得られなかったような。

ただ当事の印象としては、各種団体をザッと眺めるに、欧米発の国際協力NGOにはキリスト教を思想背景に持つものが多いなと感じていました。で、そういった団体の人に直接聞いたわけじゃないけど、ある日この言葉に触れました。

「あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである(マタイによる福音書 25: 40)」

この言葉を見て、やっと積年の疑問に「なるほどね」と合点が行きました。多少は前後の流れがわからないと何が何だかわからんので、長目に引用。

・・・・・・・・・・引用ここから・・・・・・・・・・

そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである。』

そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか。』

すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。』

それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである。』

そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか。』

そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである。』

そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう。

・・・・・・・・・・引用ここまで・・・・・・・・・・

日本のNGOで聞いた「憐れみはいけない」って話に戻りますが、「デジタル大辞泉」の「憐れみ」という項目には「かわいそうに思う心。慈悲。同情。」と記されていて、特にネガティブな意味は記されてはいません。ただ、日常の会話でこの言葉が用いられる場合には、確かにどことなく「見下し感」を伴っていることが多いように思います。これは「憐れみ」という言葉に責任があるのではなく、「かわいそうに」という言葉のほうに責任がありそうですが、細かいことはさておき、「かわいそうにと思っちゃダメ」と言いたいこと自体は分からんでもない。でも、他にどんな動機がならいいの?と当時は思ったわけです。「かわいそうとか思ってる奴は手を出すな」ってことですが、かわいそうと思う気持ちが全くない人が支援なんてするんかいな?と。少しくらいは「かわいそうに」って成分持ってない?

これに対して、キリスト教的発想だと、要するに「困ってる奴がおったら、そいつをワシやと思っとかんかい」「困ってるやつ放っといたら永遠にしばくど」と天の神様が言うていなさる、ってわけですな。これだったら、人道的支援の行動原理としては非常に分かり易い。

そして振り返ってよく考えてみれば、特定の宗教を持たない日本人の行動原則にも立派なものがあって、「困った時はお互い様」ってのがありました。これなら、難しいことを考えなくても良い。何しろ、相手は困っている人であっても、可哀想な人ではない。極めて対等な感じです。東日本大震災で大勢の方々が現地で活動したり義捐金を送ったりしていますが、ほとんどの方の動機は「お互い様」で、「憐れみ」ではなかったように思いますね。

なもんでまあ、支援をするなら、神様に会いに行くか、あるいは友人・家族に会いに行くかのどちらかの気持ちだとスムーズに行くだろうけれど、どちらの気持ちにもなれなくて「かわいそうに」しか出て来ない人は、前面に出ようとしないで黙ってお金だけ出してくれた方がみんながハッピーなんだろうなと。いくら隠そうとしたって、相手が自分を「かわいそうに」と見れば、直感でわかるもんね。なんだかんだで、どんな支援活動でも一番切実に必要なのはお金なんだし。

以前から国内で行われて来た各種のボランティア活動では、寄付と称して誰も着たくないようなボロボロの古着が山ほど送られてきて処理に困った話とか、阪神淡路大震災の時には「自分探しのボランティアまがい」が集まって来て、被災地の方々が悔しい思いをしたりとか、いろんな問題があったと聞いています。多分、そういう有難迷惑な人には「神様に会いたい」「友達の力になりたい」のいずれもなくて、「かわいそうに」「感謝されることで自分の価値を確かめたい」だったんだろうなあ、と今になれば思います。

にしても、「永遠にしばく」はきついな・・・。