taka_mkivさんの主張です。以下すべて、taka_mkivさんのコメント引用文。
「198円が2点で396円になります。」に対して。
横槍ですみません。前回に引き続きお邪魔します。
Q4で交換法則を習っていないとのことですが、九九で習ったことはツールとして使ってはいけないのでしょうか。(二桁×一桁やその逆が出てこないという前提ですが)九九を習った段階で、順序を入れ替えても結果が変わらないことは教えられているに等しい状態です。
それはさておき・・
『担任教諭はテストの前に「教えた順番通りに書きなさい」と教室の全生徒の前で宣言した』ことが今回はキモのようです。しかし、この発想で行くと
「6×8=14」と教えた先生がいたとして、その先生が「自分が教えたことに反することはバツだ」と宣言すればその内容は無条件で有効になるのでしょう
か。前回コメントで特約云々と述べたのはそういうことです。私はさすがに「限度」があると思います。
今回の教師の行動は「テストは習ったことを問う」とは別で「教師の言うことに無条件で従うかどうかの踏み絵」に近い性質なのではないかと感じます。これを是とするには一市民として抵抗があります。
突きや絞め落としを例に挙げておられますが、何よりも「若年層には危険すぎる」というだけで広く理解を得られていると思います。ルールに定めがある その「背景」までもが理解されているが故に広くそのルールが受け入れられているのだと思います。今回の件は教師の「宣言」がルールとなるのでしょうが、そ のルールの背景が広く理解されるにはほど遠いことが問題です。(100%は数学的真理云々を切り離せない背景がここにあります。)また、競技のルールな ら、「納得できないからそのルールの大会には参加しない」という選択肢があり得ます。が、義務教育で行われているテストに参加しない、というのは選択し得 ないことも考慮に入れるべきではないでしょうか。
あと、「8人に1本ずつ6回配る」ではなく、単に「8人に6本ずつ配る」という日本語で件の娘さんは理解できてしまうがために8×6=48と答えた ようにも感じます。また、小学2年という極めて初等的な段階で、「ずつ」という単位の概念に限りなく近い発想のみを使える相手に、今回の件はそもそも問わ れるべきではないのかもしれません。それこそ直感的に「これは掛け算で答えが出るな」ということだけクリアしていれば良しとするのが正解だったように思え ます。式を書かせたことで、掛け算を用いていることは明白です。6+6+・・・=48と書かなかっただけ、99%教えたことは理解していたはずなのです。 残り1%の「先生の言うことを聞かなければ全てバツ」だけは理解できなかったようですが・・。
今回の件は教育という観点で考えて、やはりあるべき姿勢からはかけ離れているように感じられました。
これ以降は長文控えます。すみません。
メールのやりとり以降ROMになってしまっていました。
厚かましいことこの上ないかとは思いますが、今年もよろしくお願いいたします。
自分が30ちょいという微妙な世代なので、この日記に書きこんでいいのか怪しいところですが、簡単に一言二言。(・・のつもりがまた長い・・ 本当にすみません。)
「個性は自分で伸ばすもの」・・実に耳の痛い話ですが、まさにその通りです。が、個性を伸ばすにも「それなりの素養・土台」が必要だとも思っていま す。公教育における国語や算数・数学はその土台を提供するものだと思っています。なので、個性以前にその個性の土台となるであろうものにヒビを入れてしま う可能性が多いにあるやり方はあって欲しくないな、と思うのでした。(最初の198円が2つで~の記事につけたレスでは「個性かもしれない」、という論点 を用いていましたが、今振り返るとその説得力には不満があります。議論が発展した故に、今では不十分な切り口になっている気がします。)
この土台・基礎を作り上げるべき段階で深刻な躓きに遭遇すると、もはや個性云々を期待できる次元にすら達しない現実があります。そういう事態だけは 避けたい。(その極端な例として、そもそも人間としての教育機会に恵まれなかった狼少女・・を引用しようと思ったのですが、wikipediaで調べると 今は「狼少女は詐欺的なつくり話」という説が強いようなので止めておきます。言いたいことの論拠を失ってしまったのですが、それとなく言いたいことは察し てもらえると勝手に期待しつつ。)
教育は、教師が知識を生徒に一方的に与えるだけのものではなく、(教師から生徒への流れが主たるものであることは変わらないにしても)その過程にお いて教師自身も教えられる・教育されていくもの、と思います。同じように教育システムも、過去の様々なやり方を通して得たフィードバックを糧にして、日進 月歩していくものだと思います。システムという側面からすると、「教育は技術」でもあるので、基本的に古い時代のものよりも現代のものは進歩していると期 待したいところです。(期待できます、とは言えないところが悲しくもあり、むず痒くもありますが。)
「褒めて伸ばす」を基本戦略に据える教育システムは、今まで日本で行われてきた大半の教育システムよりも優れている・・と私は思っています。特に幼 少期においては、もう少し自己を肯定的に捉えられる傾向を伸ばすべき時期だと考えられますので、いびつな評価方法で(その時点で教師が置かれている状況を 優先して捉えると、それなりの説得力があることはわかってきたのですが)ダメだしをするやり方に、やはり賛成しきれない部分があります。
少し角度は変わりますが、ノーベル賞を受賞した小柴さんの言葉に「そのころ(中学1,2年)の子供というのはその先生が好きだからその先生が教える 教科が好きになる。その逆じゃないですよね。」というものがあります。これは中学生の頃を指した話ですが、小学校の話にも十分準用できる話だと思うので す。「答えがあっていると褒められるからその教科が好きになる」という感じです。(先生が嫌われていないことが必要条件ですが、低学年の小学生は中学生ら に比べて無垢ですから、そう簡単には嫌われていないはずだ・・と考えました。)教える側としても、その教科を好きになってもらう方が助かるはず。故に、苦 労してダメだしのための理論武装をする位なら、如何に子供を褒められる機会を日常的に見出すか、に知恵を絞ったほうが価値的だと思います。
「いくら理不尽に踏みつけても伸びてくるほどの個性だけが求められていて、そんな状況に置かれても伸びてくる個性こそが国の命運を握っているから、敢えて 国の命令でそういう教育システムを敷いてる」 なんていう別解を本気で示されたら・・ 「ちゃんと伸びなくてすみません」と謝ってしまいそうですが・・ (←少し弱気
真理を追求する皆様に質問。に対して。
すごくいまさらなのですが、一応大学・大学院で物理を学んでいたのにスルーもまずいかと思うので端的に述べますと・・
「物理は近似の学問」という考え方というか本質があります。古典物理の近似が成り立つ範囲である限り、ニュートン力学(古典物理)は紛れも無く真実 です。(逆の例えになりますが・・、例えば量子力学では、なんでもかんでも簡単に波動方程式で原子・原子核レベルの現象を表現できるかというとそういう訳 でもありません。新たな原子核モデルや近似を持ち込んだりしないと、複雑怪奇な自然現象の現実には立ち向かえません。実世界における実用性は十分である量 子力学ですら、「真理」の領域になるとそんなものです。)
そして、古典物理が通用する範囲は極めて広範囲に及びます。(統計などが絡む領域は大の苦手なので詳しく語れませんが、熱力学の奥底に本気で突っ込 みだしたりしない限り、)少なくとも応用の分野であり実社会で使われている学問でもある工学の大半は古典物理の知識で十分です。
以上の2点から、高校でニュートン力学を教えていることには十分な合理性があります。タイトルにある真理という面でいうのなら、1点目にあげた近似云々が特に大事かもしれません。
初めまして。ちょっと気になる話題なので意見を書いてもよいでしょうか。
自分は義務教育時代の算数・数学で苦労した事があまりない側なので、予想されてる通り8×6も6×8も変わらないと考える側です。記事全文を拝読しましたが、少し気にかかる点があります。
そもそもこの問題は四則演算をもっと叩きこむ時期に、無駄な文章題を解かせていること自体が間違っている・・のではないかとすら考えます。分数やそ の結果理解できると期待される「単位」の理解を抜きに、ここで問われている文章題の内容は問われるべきではないと思うのです。少なくとも、この採点手段は 数学的にナンセンスな差別であること自体は議論の余地がありませんから、やはり教育のあり方そのものに問題があると考えます。ナンセンスなものを教えなけ ればならない時点で、今の算数教育は致命的な問題を抱えてると断定して良いのではないでしょうか。
その昔、日本では「読み書き・そろばん」をとりあえずやらせていた(そして、それで特に問題が生じたということはなかった)ことからも、小数や分数 を含めた四則演算の習得と、四則演算を実世界に当てはめる能力の開発には時間的なズレがあって構わないと思うのです。自分の場合を振り返っても、「とりあ えず計算力だけ身につけておく」というのは常に非常に有用でした。(高校で微積分で躓いた時も、意味がわからずとも計算力をつけて、それから考える問題に 取り組むようにしたところ、最終的には余裕を持ってクリアできましたので。)スポーツでも、基礎体力はあるだけ良いケースがほとんどなのと似ています。
話を今回の問題に戻すと、「かける数」「かけられる数」に分けるという発想がやはり問題なのではないかと感じます。特に「かけられる数」は行列じゃ あるまいし、と感じてしまいます。(3つ以上の掛け算を要求する自体にシームレスに対応できるのかも疑問です。)日本語の発想だと2つの数の掛け算であれ ば、だいたいのケースで掛け算の順番は自然と決まります。が、世の中には欧米式の順序で物を考える子だっているでしょう。( 2(枚)×4GB=8GB で売られてるメモリなどからも、順序はお国柄というか、「人に依る」ものだと考えられます。)日本に育ちながら、たまたま欧米式の発想で考えた方が本人に とって楽・自然という子が、合理性のない理由によって貶められる必要もないと思います。そういう子は日本なら「まずいない」のは事実でしょうが、これは大 人に依る後付の理屈ではなく、実際にそういう発想の人は世界にまで話を広げれば多数派である可能性すらある存在であることは気にとめておくべきかと思いま す。
小学2年生に無理に文章題を解かせようとして、しかも変な所で出来ない子に「気を利かせて」こういう概念を設けてしまったが故に、こんなナンセンスな現象が見受けられるに至ったのではないか・・と感じます。
もし、どうしても掛け算を習ってすぐにこのような文章題も解かせたいというのならば、答えを導くにあたって「何と何をかければ答えに至るか」と「単 純な四則演算」を切り離すことを教えるべきです。「一人あたり何本」と「人数」をかければ答えに至ることこそが問題の本質であって、一人が何本もらえるの か・もらえる人は何人いるのか、はケースバイケースでそれ自体には意味がありません。そして、何と何をかければいいのかを理解した上でなら、掛け算は順序 を入れ替えても結果は同じという性質を利用させることを教えるべきなのです。
この場合の利点は、「何と何をかければ良いか」を考えさせることが習慣付けば、次のステップである「単位」の概念も分数さえ習えば抵抗なく理解でき るであろうと期待できることです。かけ算の順序自体がどうでもよいという真実に目覚めてしまった子の【「なんでもいいから、かけとけばいい」という発想】 への対処法が必要になりますが、これは実に簡単で「文章に全く関係ない数字を混ぜて3つ以上の数字を登場させる」だけでよいのです。(e)にある意見を重 視するなら、こういうことを最初の頃からすべきです。ほんとに最初の5~10問くらいは「とりあえず2つ出てきた数字をかければいい」という問題で肩慣ら しをさせて、ちょっと行ったら考えさせる。こうするだけで奇っ怪な順序で悩む必要は消え去るのではないでしょうか。
私も何度か家庭教師をやっていて、そこで「信じがたい底辺側の学力」の子に教えた経験もあるが故に、どうしても気になってしまい書いてしまいました。
ところで、コメント欄のコミュニケーションだとかの話で思ったことがあります。それは「契約書に特約で書いてあれば何でも有効になるか?」という話 で、実社会では「あまりに不合理な内容はそもそも無効」という判断が定着しつつあります。そこから考えると、先生が事前に宣言していたからというだけでこ の問題は片付けられないと考えます。(こちらは私の仕事柄、契約書をよく作成するので気づいた話です。)
以上、長文失礼致しました。