タイトルは、ブルース・リーの金言「Do not think. Feel.」からいただいた。
「逆じゃね?」と言われることだろうが、これからお話しすることについては、この順番でなければならない。
それは屈辱的敗北から始まった。
筆者には、口ゲンカして負けた経験がほとんどない。まあこれは当然と言えば当然の話で、「勝てないケンカは最初からケツまくる」を徹底しているからこそ「ほぼ負けなし」なのだが(だから、別段威張れたものではない)、もちろんそれだけでもない。本人、それなりに努力はして来ているのだ。
筆者が、唯一完璧にやり込められた話をしよう。
小学2年生の国語の時間だった。大学卒業したての女性教諭に、「このときの主人公の気持ちを答えましょう」と言われた。筆者は、自信を持って選択肢から答えを選んだ。
「間違っている」、と言われた。
「もしあなたが主人公だったら、どう思いますか」という設問だった。なので、「この場面、自分だったらこうだ」という絶対の自信があったのだ。しかし、それが間違いと言われる。大勢の同級生の前できつく問いつめられ、あまりに悔しくて半分涙目になり、アクビをして誤魔化したのを今でもありありと思い出す。
今にして思えば、「読めなかった」のである。
「相手の気持ちになって考えましょう」とよく言われる。これはしばしば「自分が相手の立場だったらどんな気持ちになりますか?」と等価であるかのように扱われるが、これらは全く「違う」のである。後者では、他人の考え方を想像する必要がなく、その状況に置かれた自分の気持ちをいつも通りに出すだけなので、論外と言っていい。ダメダメ、である。
ところがやっかいなことに、そもそも前者の「相手の気持ちになって」なんて言葉ですら、本来デタラメもいいところなんである。赤の他人にそんなことは出来るわけがないのだ。なのにそれを出来ると言う人がいるし、実際に何も考えなくても直感的に出来ちゃう人がたまにいるから話がややこしいことになる。
さて、「相手の気持ちになって」や「自分が相手の立場だったら」という誘導だと、なかなか「読める」ようには育てられない。現在の国語教育がどのような形で行われているのか筆者は知らないので、迂闊なことを言うべきではないのだが、過去の記憶を辿ると「相手の気持ちになって」「自分が相手の立場なら」で指導されたように思う。ところが実際には、相手の気持ちになることなど出来やしないし、後者は論外。
結局のところ、他者の気持ちは「推測」するしかないのだ(当てる、でもいい)。これが体感として分かるようになってから、少なくとも現実世界はともかく、テキスト上ではそこそこ「読める」ようになって来たように思う。
「読む」のに用いるのは、極めてシンプルなロジックなんである。まず、人間の普遍的な行動をしっかり観察し、
もし観察対象がAという気持ちなら、Bという行動をとる
もし観察対象がCという気持ちなら、Dという行動をとる
もし観察対象がEという気持ちなら、Fという行動をとる
もし観察対象がGという気持ちなら、Hという行動をとる
というパターンを出来るだけ多く学習する。このパターン学習においては、バリエーションがあることも見逃さないようにして、可能であれば「どういうタイプの人が、こういう行動をとりやすい」といった、情報の色付けをして「これは特例ですよ」と目印をつけてゆく。「頻度」のような観点での「重み付け」も出来ればなお良い。画像的に表現すると、「条件づけ」を「色づけ」、「重み付け」を「階調づけ」と対応させて考えると理解しやすいだろう。
太郎くんが花子さんを好きだったら、プレゼントをあげる。
太郎くんが花子さんを好きでも、恥ずかしがりやだったら、いじめる(稀)。
などの無数のパターンがあるのだが、これはほとんどの人が成長過程で自然に学習している。それを逆に使えば、行動から相手の気持ちが「読める」わけだ。「太郎くんが花子さんにプレゼントをあげるなら、太郎くんは花子さんが好き」ということである。
ところが、上記の例の2番目を単純に逆にして、諸条件を無視して第一原因と結果だけを取り出すと、
太郎が花子をいじめるならば、太郎は花子が好きなのだ
という話になるが、これを一般的な動機づけと解釈するのは明らかに間違いだと普通の人には分かる。キライだからいじめるのもまた普通だからである。
ところが、極論で言うと「読めない」人はこれをやっている。まず、情報の色づけが脱落しやすい。「白/黒」な世界なのだ。さらに、「いじめる」という行動の動機は、「好き」「嫌い」「どちらでもない」という3種類にグループ分けできるが、そのうち1つの可能性しか考えたがらない。「いじめる」の行動動機に複数の候補を挙げ、その中から「重み」を考えてその場面を説明するに最適な候補を選んでゆくのが普通の人なのだが、読めない人はそもそも候補を1つしか(あるいは最小限しか)考えたがらない。しかも「読めない」人は、「自分が相手の立場なら」というダメダメ基準でその唯一の選択肢を決定する。ましてや、重み付けなんてメンドクサイことはやるわけがない。だから、どうしても読み間違いが多くなる。
もう一つの「読めない人」の特性として、「1面からしか評価しない」ということも挙げられる。
太郎くんが花子さんをいじめる
だけだったら、太郎が花子を好きかどうかは分からない。しかし、この条件が揃えば、かなり精確に真実に近づける。
太郎くんが花子さんを好きだったら、毎日一緒に学校からお家に帰る
それで、実際に一緒に帰っているのが観察されれば、「ああ、好きだからいじめてるんだな」と高い確率で言うことが出来る。ところがこれでもまだ断定は出来なくて、一緒に帰るのは先生や親のいいつけかもしれないし、学校から遠い2人が乗るバスが同じになってしまうからなのかもしれない。なので、とにかくいろんな可能性を考えて、候補ひとつひとつを丁寧に検証して行くことが大事なのだ。
ところが、「読めない人」は、一つの視点だけからしか考えようとしない。一つの視点から、一つの可能性だけで考えたがる。「太郎が花子をいじめているのは、太郎が花子を好きだから」の一点張りなのである。万事こんな調子だから、どうしても「読み間違い」の頻度が高くなる。しかも、他の可能性を考えようとしないのだから、よく間違うくせに自分の考えが絶対に正しいと思い込みやすく、それを指摘されると「相手が間違っている」と言う。
なので、読み間違いが多い人は、自分にそういう傾向があることを自覚すべきなのであって、相手の行動を「読む」場合には、相手がその行動をとりうる「考え」を、自分の「気持ち」ではなく、その場で存在しうる「可能性」すべてを、客観性に基づく「論理的思考」の及ぶ限り数多く列挙するという、地道で面倒くさい作業を、意識的に行わなければならない。これは、もともと相手の気持ちを「感じる」のが得意な「直感型」の人(男性より女性に多い気がする)には不要な作業なのだが、鈍感な人間でもそれに似たことをやりたい場合、いま説明したことを手間隙ガマンを惜しまず実行すれば、なんとか少しは近づける。候補を出来るだけたくさん挙げること、そしてその候補のうちどれがいちばんうまく起こった事象を説明出来るかを「客観的に」検討するように徹底すれば、実行結果としては「直感型」の人間に少しは近づけるのだ。
これは極めて「科学者的」な方法なので、科学的に物事を考えられる人なら、方法論的にはさほど困難ではない。とはいえ、それなりの訓練は必要だし(筆者は完全我流だが)、気の短い人には面倒くさくて実行が困難ではある。ただ、筆者の感覚では、それはあたかも小学2年生が九九を覚えるのと大して変わりはないように思う。要は、面倒くさくても「パターン学習」と「毎回の候補列挙」を手抜きしないで頑張るかどうかなのであって、一度覚えてしまえば考えなくても「類題」には直感型の人と同様に対応出来るようになる。
こういう能力は大人になってからでも多少は育てることが可能なのではないかと筆者は考えている。そう考えさせるエピソードを一つ挙げよう。話は、自分自身の内科研修医時代の記憶にさかのぼる。このとき、30歳前後である。
病気の診断を決めて行く当たっては、「見れば一目でわかる」なんてことはあり得なくて(そんなことを言う奴はペテン師である)、同じ症状を来す疾患を数多く挙げた上で、まずその中から明らかに当てはまらないものを除外する。最後に絞り込んだいくつかの候補から、各種検査を行ってさらに絞り込む。それでもわからなかったら、治療をしてみてその反応で最終決定したりする。このプロセスを経ないと、どうしても見落とし即ち「誤診」が多くなる。「咳だから風邪」なんて決め打ちをしているようだと、肺炎、結核、癌などを見落としてえらいことになる。
研修医1年目時代の筆者は、「見りゃわかるだろ」的な病態については、そんなに厳密に上記の手順を踏んでいなかったのだが、それを見ていた2年目研修医の先生に叱られた。以来、どんなに明らかだと思える場合でもきちんとマニュアル通りの手順を踏むようになった。すると、頻度は少ないのだが、確かに時々意外なものが網に引っ掛かってくるのだ。それをハッキリ認識してから、「基本は大事」と思うようになり、それを機会あるごとに若い研修医の先生たちに煙たがられながらも伝えている。
内科的診断技術は、記事前半で述べた「読む」にあたって、「常にいろんな可能性を考える」とまったく同じことなのだ。マニュアル通りにやれと言えば「画一的」と言いたがる人が必ずいるが、そのマニュアルには「いろんな可能性を考えろ」と書いてある。どちらが画一的だろう?
そのあたりも含めて、冒頭の「本人、それなりに努力はして来ているのだ」なのである。なので、これから展開される文章で「読めない」人が筆者に批判されたとしても、それは「努力が足りない」のだ。
練習は嘘をつかない。努力こそ正義。小学校2年生の屈辱的な敗北以来、数十年に渡って地道に積み重ねて来た努力が、現在の筆者が持っている「読み」の技術なのである。もともと能力の高い才能ある人には比べるまでもないが、小学校2年生時に担任教諭から皆の前で半泣き状態まで追いつめられた少年が、全て我流で自己訓練した到達地点としては、まずまずの仕上がりだろうと考えている。
「色づけ」「階調づけ」の能力には、たった今筆者自身を例に述べたように、努力だけではなくて素質的な要素も大きく関与するのは間違いない(少年期から通算30年以上の訓練でも「初級」なのだから)。なので、大人がこれから努力したからといって、必ずしも「読める人」にはなれないかもしれない。けれど、努力しているかどうかが一目で分かる目安として、筆者が知っていることがひとつある。
「意味もなく、自分が優れていると証明するために周囲に迷惑行為を働く」
ようなことがあれば、これはまるで自覚も努力もしていないと言ってよい。自分が「読めない人」だという自覚があれば、「うっかり見当違いの批判をするかもしれない」と思って自重するから、簡単に他人を批判したりはしない。だからこそ、筆者は「専守防衛」なのである。
「人の気持ちを考えろ」「相手の身になってみろ」「空気読め」
色んな言葉で非難され、心に傷を刻み付けながら育った大人は多いと思う。一方的に「上司が悪い」「教育が悪い」「社会が悪い」「国が悪い」など、自分以外の対象に責任を求めて激しい非難を浴びせる人には、こういう「読めない人」が多く含まれていると筆者は感じている。それはほとんど確信に近い。
「読めない」人は、読めないが故に、自分が他人を傷つけていることを知らない。
「読めない」人は、読めないが故に、自分が周囲から守られていることを知らない。
「読めない」人は、読めないが故に、自分がやっていることすら分からない。
だから、「読めない」人は、決してそのままでいてはいけない。少なくとも、この記事を目にした人には、今日から努力を始めてもらいたい。該当者は、この文章を読みながら「自分には関係ない」と思った貴方だ。例え貴方が読めない人であり続けたとしても、せめて「他者を批判しない」という態度を貫けば、周囲は温かく見守ってくれるだろう。
「読めない」人は、読めなくても、天によって与えられた才能を活かして生計を立てられていることが多い。学校の成績は良かった、仕事は出来るなど、「読めない」ことが許される状況もある。だからこそ、「読めない」人であっても困ることが少なくて、自分自身が何者であるかに気づくことがなかったのだと思う。「読めない」人なのであるから、なおさらのこと。
しかし、折角この世に人として生まれたのだから、「学校の成績や仕事の出来不出来だけで決まるほど、人生は浅いものではない」ことも知っておくと、人生がより楽しくなることは覚えておいて損はないと思う。少なくとも、自分独りで切り開いて来たかのように思っていた半生が、実はどれほど多くの人々の愛情によって支えられて来たものなのか、少しは分かるようになるだろう。
我が身を振り返るに、他人の考えがある程度読めるようになるには、小学2年生のあの日から15年以上かかったと思う。自分自身の考えを外から見る方法を見いだしたのは20歳を過ぎてからだが、どんなに目を凝らしても自分の内奥は未だに見えないことの方が多い。
自分の思いを探るのに比べれば、他人の考えを読むのはどれほど容易なことか知れない。なので「読めない」人は、まず他人の気持ちを「読む」ことから始めるのがいいだろう。
「読めない」人が自ら「読めない」人であることを自然に自覚するのは、限りなく不可能に近い。なので、この場で出会った「読めない」人に、筆者はそれを伝えてみたいと思う。たとえ「読める」人にはなれなくても、周りの人にとって穏やかな人になってもらえたら、それで私の役目は果たされたと考えよう。
このブログでの出会いが、新たに生まれ変わるための良き契機になることを、心から天に祈る。そして、よき対話が生まれんことを。
※「Do not feel. Think.」記事内の表現方法において、万が一視覚障害をお持ちの方に不快な思いをさせるような点がございましたら、その意図はなかったことを汲んでいただき、どうかご容赦くださいませ。ご指摘あった場合、改めて表現方法を再検討したいと思います。