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明日は明日の風が吹くのだ

人生いつでも波瀾万丈

Do not feel. Think.(3) 人生の意味を考える。~#kyo31さんへの返信を通じて~

2012-01-28 13:21:37 | インポート

仰々しいタイトルですよね。もちろん、管理人がこんな大きな問いに対する答えを持っているわけはありません。しかし、#kyo31さんの言葉と、いま語られている「読む」という話には、非常に近いところがあるのです。

「人生に意味の無い事なんて何一つ無いとそう思える時がいつか来る。」(#kyo31)

管理人はまさにそこに話を持って行こうと計画していたところでしたから、心底驚きました。

日常生活において、相手の意図を読む。討論において、相手の発言背景を読む。自らが何者であるかを「自分像の破壊」を乗り越えて知る。そういうことが出来るようになると、今度は「自分の身に降り掛かった出来事を読む」ことも少しずつ出来るようになってきます。

「自分の人生に意味はある」と信じたいのは、ほとんど全ての人たちに共通だと思います。すると、その意味を持たせるのは誰か?という話が浮かび上がってきます。

大きく分けて、「人生に意味を持たせるのは自分自身である」という考え方と、「意味を持たせるのは神である」という信仰的な態度という2つの解があります。自分は明らかに後者寄りで、その理由は「そのように考えた方が、何かと失敗が少ない」という実用上の理由と(常に自分以上の存在を想定しておくと失敗が減る)、「神様」の存在を肯定した方が、困難に出合った場合に耐え忍びやすいからです。「困ったときの神頼み」は神様がいないと出来ませんし、「誰も分かってくれなくても、神様は知っていてくれる」と思えば何とか頑張れる。また、誰にもバレていなくても、「閻魔様は知っている」と思えば無茶は出来なくなる。

そういうことで、「神様はいるのだ」とか大上段に振りかぶって布教活動をしている人たちとは違って、自分の場合は「そう思った方が楽に生きられる」ということなのです。こんな言い方をすると真面目な信仰者の皆様には叱られそうですが、自分の態度は「あくまで実用性重視」です。

そういう観点で、人生の意味探しでは、自分の身に降り掛かった災難としか思えない出来事を、自分なりに「神様の視点」で読み解いて行きます。神様の行動の動機は「自分の幸福のため」と考えることにします。これは、無理矢理にでもそう思い込むしかありません。普通に考えれば、相手の幸せのために災難を振りかけることはありませんからね。その「無理矢理な思い込み」のことを、別の言葉で「信仰」と言うのだろう、と自分は考えています。

ところが、その「思い込み」を徹底すると、単なる不幸にしか思えなかった出来事が、自分の「気づき」のためには不可欠だったと分かることが時にあります。それ以外の方法では、自分がそこに気づくことは決してなかっただろう、ということですね。もちろん、災難は災難なのですが、その損を上回る益がその「気づき」によってもたらされる、ということです。

この「益」が有り難いのは、「気づく」ことが出来れば、その効能が一生続くということなのです。気づくことが出来れば、その後に同じ災難に巻き込まれる機会が激減しますし、もし巻き込まれても以前より容易に対処できるようになっていることが実感されるでしょう。そのとき、「災難」は「試練」であったことが分かるのです。

ここで大事な事を言っておかなければならないのですが、この原則は「いついかなる場合でもそうだ」と言っているわけではありません。人間には耐えられる苦しみと、耐えられない苦しみがあります。不治の病の宣告、理不尽な理由での肉親との死別などに意味を見いだすことは誰にも出来ないと思いますし、本人以外の誰もしてはなりません。なので、この「すべての出来事に意味がある」は、物理学の世界でいうニュートン力学のようなもので「光の速さに比べて充分小さい範囲なら、ニュートン力学は現象とよく合致する」と同じです。「人生の意味探し」には、「光速」という基準の代わりに「耐えられる苦しみ、耐えられない苦しみ」という基準を用います。なぜ「苦しみ」が基準になるかと言えば、苦しみがなければ意味など探す必要がないからです。

「星影のワルツ」から展開したにしては、かなり大きなお話になってしまいましたが、実は「かけ算小説」にも上記の基本となる発想が書き込まれています。

山崎、というキャラクターが小説内に登場します。短編小説では、一つの文章に2重、3重の意味を持たせるという技法がよく用いられます。彼の存在も例外ではなく、簡単に読みとれる内容だけでも2重の意味が持たされています。

まず1つ目の意味は、どのクラスにも必ず1人はいる「トリックスター」を登場させる事で、教室の中を活き活きと描き出すこと。まるで読者がクラスの中にいて、小学生に戻った気分になってもらうためには、「いたいた、こういう奴!」という人物に登場してもらうのが効果的なのです。

そして2つ目の意味は、「清水方式で『8×6』を説明することは出来なくはないが、そのアイデアの発現頻度は稀で、しかも小学2年生が充分に理解して使いこなすことは難しいだろう」という説明です。これを読む大人が、実際に「頭の中で」山崎が6周配る映像を記録して行くのは意外と困難です。それを、「何周目か忘れた」という表現で示しています。「忘れたがな」という言葉の選択には、ネイティブの関西人からは異論があるでしょう。これは、実際に使われる言葉かどうかを重視するより、視覚的に「面白み」を感じやすいほうが小説の表現としては効果的だろう、という基準で選んだものです。

さて、3つ目の意味は、書いた本人にしか分かりません。ここで筆者は山崎に託してこっそり「神様」像を描きこんでいます。

神様は、成績が今ひとつ。
神様は、人を楽しませるのが大好き。
神様は、何を考えているのか分からない。

自分はイタズラ好きですから、時にこういうことをやります。素人の作品ですらこれくらいのことはやりますから、プロの書く短編小説というものは、それ以上に考えて作り込まれているのだと思ってもらいたいなと思っています。そうすると、本棚の作品がもっと面白くなるかもしれません。

神様を名指しで「成績が今ひとつ」と言うのは不謹慎かもしれませんが、これが自分の「信仰」の態度です。神様が成績優秀なら、戦争や交通事故死など起こさなくてもいいはず。東日本大震災をはじめ、世の中に数限りなく繰り返される悲劇が何のために用意されているのか、我々にはさっぱりわからない。わからないのにそんなものを用意するなら、「成績が今ひとつ」としか評価しようがない、と自分は思っています。

けれど、「生きていて良かった、楽しい」と思うことも時にあります。何でこの世に生まれてきたのかわかんないけど、生まれて良かったなあって思うことは、少なくても確実にある。

そんな調子だから、神様が何を考えているのかなんて、サッパリ分からない。祈ろうがお賽銭あげようが、わからんものはわからん。

そんな神様ではあるけれど、いてくれた方が何かと便利なので、自分は勝手に「いる」ことに決めて、今日もいろんな「意味探し」をしています、というお話でした。

よろしかったら、過去に書いた神様話も読んでみてくださいね。


Do not feel. Think.(2) ~読みの技術を高める~

2012-01-28 13:21:03 | インポート

筆者が我流で「読み」の技術を向上させようと努力し続けて、もう30年以上が経っている。しかし、「中級ライディング」と称したライディング記事を書く程度には習得したバイクとは違い、「読み」の技術は残念ながらおそらく初級者レベルなのである。数学の本質さんのように、「読む」という自己訓練を積んでいない人(断定失礼...)には、管理人はお釈迦様にもカイエダ様にも見えたかもしれないが、ある程度「読める」人がこのブログの記事を読めば、非常に基本的なテクニックしか使われていないことを容易に指摘するだろう(ただし、それが徹底していることも)。それで、初級者レベルの自覚があるからこそ、専守防衛に徹するのである。

しかし、その初級者でも分かることがある。

「自己批判」が出来るようになると、「読み」の精度が飛躍的に高まるのだ。これには解説が必要だろう。

前章で、筆者は「もし観察対象がAという気持ちなら、Bという行動をとる」というパターンを出来るだけ多く収集しなければならないと書いた。ところが、現実に体験出来る場合の数は、何年生きても多寡が知れている。いくら経験を積んでも、いま自分がまさに直面しているケースに近いパターンの数はグッと減るからだ。そうなると、どうしても「読み」の精度が低下する。読みの精度は、「可能性」の列挙数が生命線なのである。

そうなると、学習されたパターンの数が少ない以上、「パターン数×パターン毎の可能性の数」で思考を進めるにあたっては、極力「パターン数」を減らさないこと、そして「パターン毎の可能性の数」を増やすことでしか精度を確保する方法がない。

ところが、正しく「自己批判」が出来ると、この「パターン数確保」「可能性の増加」が同時に可能になるのだ。その極めて重要な「自己批判」を行う上での大前提が、「自分の中に、ありとあらゆる可能性が存在することを許す」ということで、これは「絶対必要要件」なのである。

例えば、「自分は」「人をわざと傷つけたりしない」「差別なんかしない」「不倫したりしない」「殺人したりしない」などの、無数の「自分に限ってそれはない」という「自分像」がある。まずこれを徹底的に破壊しないと、自己批判は出来ない。自分は口先とは違って差別もしているだろうし、人殺しだってするかもしれない。自分が大嫌いな人たちの要素が、実はしっかりと自分の中に「ひと揃い」存在している。この考え方を受け入れなければ、「読む」に当たって挙げられる「可能性」の候補が大幅に減ってしまい、非常に小さな枠組みでしか考えられなくなる。それに気づいたのは20歳を過ぎていた、ということを前章に書いたわけだ。

この「自分像の破壊」作業は極めて困難で、よほどの強い意志と冷徹なまでの「客観思考」がないと実行不可能なのである。一度「自分像」を破壊してしまえば、そこには宝の山というか、金鉱脈というか、とにかく「考える」ための巨大な財産があったことがわかるのだが、いかんせん「自分像の破壊」には耐え難い苦痛を伴うので、実行出来る人が少なくても当然ではある。ただし、この苦痛は「耐え難い」であって、決して「耐えられない」ものではない。

この「自分像の破壊」が実行されると、考えるための「宝庫」が開かれるだけでなく、他者に対する「赦し」の心が自然と生まれる。自分の中にも、ありとあらゆる「悪意」が存在していたことを知るからである。確実に存在する悪意を、薄っぺらな理性が押さえつけているに過ぎないことが分かれば、「自分だって理性が飛べば何をするのか分からない」と知るようになる。信じがたい凶悪犯罪者と同じ論理が、自分の心の奥底にひっそり眠っていることを発見出来て初めて、「罪を憎んで人を憎まず」と言えるのだ。まだ「自分像破壊」が出来ていない人は、この言葉の意味を表層しか理解していないと言える。

なぜ、「パターン数」を減らさないで済むかをお話ししなければならない。

「気持ち」を「読む」必要が生ずるのは、当然ながらほとんどが「人 対 人」の関係性においてである。

怒鳴り声のような大声で話しかけられれば嫌な顔をされるのは当たり前だが、自分が大声を出しているのが分かっていなければ、「あの人には理由もなく嫌な顔をされる」と勘違いしてしまう。大きな声でも平気な人もいるし、苦手な人もいる。耳が悪い人ならむしろ喜ぶかもしれない。自分が大声を出しているのに気づいていなければ、そこに思いが至らない。

以前の記事に、「観察するという行為が、観察される現象に変化を与えてしまう」という話を書いている。話しかけるという行為が、話しかけられた人に変化を与えるのは極めて当然な話であろう。なので、「読み」の精度を一段階引き上げるためには、客観的な自己評価のために、いずれ「自己批判」を正しく行えるようにならなければならないのだ。ただし、「自己批判」は「自分像の破壊」というプロセスを経なければ「マガイモノ」でしかなく、正しい自己批判を行うのは相当に困難だと思っていただいた方が良いと思う。「自分に居心地の良い自分像」は、壊しても壊してもどんどん出来てくるから、客観性の維持には絶え間ない努力が必要なのであって、耐え難い苦痛を乗り越えて「ご都合主義的自分像」に辿り着き、一度これを破壊することが出来たとしても、それ以後も決して油断出来ないという性質のものなのである。

「自己批判」が出来ると読みの精度が高まるというもう一つの理由なのだが、「悪人になり切れなければ、悪人の発想は想像出来ない」ということがある。強力な「ご都合主義的自分像」を持つ人は、どうしても自分の発想の範囲内から大きく外れた「可能性」を挙げようとしない。これは、日常生活内ではむしろ「他人を疑わない」善良な隣人の姿勢として愛される。しかし、これがこと「国防」などの問題を扱う議論においては、決定的な欠陥となる。「人間、どれだけ残虐になれるのか」という発想で、侵略者になりきって自分の国を攻略するプランを立てられなければ、国防を語る資格はない。残虐な侵略者を演じ切るためには、善人ヅラしているようではお話にならないのである。自分の中に存在する「悪」を、どれだけ見逃さず引きずり出すのかが勝負。だからこそ、これは「ご都合主義的自分像」を破壊し得る者でないと無理なのである。話を国防などと大きくしすぎたけれども、これを日常生活レベルに戻せば、「読めない」人は、「読める」人に比べて詐欺にひっかかる可能性が高い、ということにもなる。これは大事な家族を守る上でも絶対に不利なのだ。

ときに、性悪説を唱える人間を自分は信用する。彼らには被害者意識が強いかも知れないが、自分自身の悪が見えている可能性も高い。一方、性善説を唱える人々に関しては、「本物の善人」と「善人ヅラしたいだけのいわゆるおめでたい偽善者」とが入り混じっているので、注意して個別に識別する必要があると思っている。


Do not feel. Think.(1) ~読むということ~

2012-01-28 13:20:04 | インポート

タイトルは、ブルース・リーの金言「Do not think. Feel.」からいただいた。

「逆じゃね?」と言われることだろうが、これからお話しすることについては、この順番でなければならない。

それは屈辱的敗北から始まった。

筆者には、口ゲンカして負けた経験がほとんどない。まあこれは当然と言えば当然の話で、「勝てないケンカは最初からケツまくる」を徹底しているからこそ「ほぼ負けなし」なのだが(だから、別段威張れたものではない)、もちろんそれだけでもない。本人、それなりに努力はして来ているのだ。

筆者が、唯一完璧にやり込められた話をしよう。

小学2年生の国語の時間だった。大学卒業したての女性教諭に、「このときの主人公の気持ちを答えましょう」と言われた。筆者は、自信を持って選択肢から答えを選んだ。

「間違っている」、と言われた。

「もしあなたが主人公だったら、どう思いますか」という設問だった。なので、「この場面、自分だったらこうだ」という絶対の自信があったのだ。しかし、それが間違いと言われる。大勢の同級生の前できつく問いつめられ、あまりに悔しくて半分涙目になり、アクビをして誤魔化したのを今でもありありと思い出す。

今にして思えば、「読めなかった」のである。

「相手の気持ちになって考えましょう」とよく言われる。これはしばしば「自分が相手の立場だったらどんな気持ちになりますか?」と等価であるかのように扱われるが、これらは全く「違う」のである。後者では、他人の考え方を想像する必要がなく、その状況に置かれた自分の気持ちをいつも通りに出すだけなので、論外と言っていい。ダメダメ、である。

ところがやっかいなことに、そもそも前者の「相手の気持ちになって」なんて言葉ですら、本来デタラメもいいところなんである。赤の他人にそんなことは出来るわけがないのだ。なのにそれを出来ると言う人がいるし、実際に何も考えなくても直感的に出来ちゃう人がたまにいるから話がややこしいことになる。

さて、「相手の気持ちになって」や「自分が相手の立場だったら」という誘導だと、なかなか「読める」ようには育てられない。現在の国語教育がどのような形で行われているのか筆者は知らないので、迂闊なことを言うべきではないのだが、過去の記憶を辿ると「相手の気持ちになって」「自分が相手の立場なら」で指導されたように思う。ところが実際には、相手の気持ちになることなど出来やしないし、後者は論外。

結局のところ、他者の気持ちは「推測」するしかないのだ(当てる、でもいい)。これが体感として分かるようになってから、少なくとも現実世界はともかく、テキスト上ではそこそこ「読める」ようになって来たように思う。

「読む」のに用いるのは、極めてシンプルなロジックなんである。まず、人間の普遍的な行動をしっかり観察し、

 もし観察対象がAという気持ちなら、Bという行動をとる
 もし観察対象がCという気持ちなら、Dという行動をとる
 もし観察対象がEという気持ちなら、Fという行動をとる
 もし観察対象がGという気持ちなら、Hという行動をとる

というパターンを出来るだけ多く学習する。このパターン学習においては、バリエーションがあることも見逃さないようにして、可能であれば「どういうタイプの人が、こういう行動をとりやすい」といった、情報の色付けをして「これは特例ですよ」と目印をつけてゆく。「頻度」のような観点での「重み付け」も出来ればなお良い。画像的に表現すると、「条件づけ」を「色づけ」、「重み付け」を「階調づけ」と対応させて考えると理解しやすいだろう。

 太郎くんが花子さんを好きだったら、プレゼントをあげる。
 太郎くんが花子さんを好きでも、恥ずかしがりやだったら、いじめる(稀)。

などの無数のパターンがあるのだが、これはほとんどの人が成長過程で自然に学習している。それを逆に使えば、行動から相手の気持ちが「読める」わけだ。「太郎くんが花子さんにプレゼントをあげるなら、太郎くんは花子さんが好き」ということである。

ところが、上記の例の2番目を単純に逆にして、諸条件を無視して第一原因と結果だけを取り出すと、

 太郎が花子をいじめるならば、太郎は花子が好きなのだ

という話になるが、これを一般的な動機づけと解釈するのは明らかに間違いだと普通の人には分かる。キライだからいじめるのもまた普通だからである。

ところが、極論で言うと「読めない」人はこれをやっている。まず、情報の色づけが脱落しやすい。「白/黒」な世界なのだ。さらに、「いじめる」という行動の動機は、「好き」「嫌い」「どちらでもない」という3種類にグループ分けできるが、そのうち1つの可能性しか考えたがらない。「いじめる」の行動動機に複数の候補を挙げ、その中から「重み」を考えてその場面を説明するに最適な候補を選んでゆくのが普通の人なのだが、読めない人はそもそも候補を1つしか(あるいは最小限しか)考えたがらない。しかも「読めない」人は、「自分が相手の立場なら」というダメダメ基準でその唯一の選択肢を決定する。ましてや、重み付けなんてメンドクサイことはやるわけがない。だから、どうしても読み間違いが多くなる。

もう一つの「読めない人」の特性として、「1面からしか評価しない」ということも挙げられる。

 太郎くんが花子さんをいじめる

だけだったら、太郎が花子を好きかどうかは分からない。しかし、この条件が揃えば、かなり精確に真実に近づける。

 太郎くんが花子さんを好きだったら、毎日一緒に学校からお家に帰る

それで、実際に一緒に帰っているのが観察されれば、「ああ、好きだからいじめてるんだな」と高い確率で言うことが出来る。ところがこれでもまだ断定は出来なくて、一緒に帰るのは先生や親のいいつけかもしれないし、学校から遠い2人が乗るバスが同じになってしまうからなのかもしれない。なので、とにかくいろんな可能性を考えて、候補ひとつひとつを丁寧に検証して行くことが大事なのだ。

ところが、「読めない人」は、一つの視点だけからしか考えようとしない。一つの視点から、一つの可能性だけで考えたがる。「太郎が花子をいじめているのは、太郎が花子を好きだから」の一点張りなのである。万事こんな調子だから、どうしても「読み間違い」の頻度が高くなる。しかも、他の可能性を考えようとしないのだから、よく間違うくせに自分の考えが絶対に正しいと思い込みやすく、それを指摘されると「相手が間違っている」と言う。

なので、読み間違いが多い人は、自分にそういう傾向があることを自覚すべきなのであって、相手の行動を「読む」場合には、相手がその行動をとりうる「考え」を、自分の「気持ち」ではなく、その場で存在しうる「可能性」すべてを、客観性に基づく「論理的思考」の及ぶ限り数多く列挙するという、地道で面倒くさい作業を、意識的に行わなければならない。これは、もともと相手の気持ちを「感じる」のが得意な「直感型」の人(男性より女性に多い気がする)には不要な作業なのだが、鈍感な人間でもそれに似たことをやりたい場合、いま説明したことを手間隙ガマンを惜しまず実行すれば、なんとか少しは近づける。候補を出来るだけたくさん挙げること、そしてその候補のうちどれがいちばんうまく起こった事象を説明出来るかを「客観的に」検討するように徹底すれば、実行結果としては「直感型」の人間に少しは近づけるのだ。

これは極めて「科学者的」な方法なので、科学的に物事を考えられる人なら、方法論的にはさほど困難ではない。とはいえ、それなりの訓練は必要だし(筆者は完全我流だが)、気の短い人には面倒くさくて実行が困難ではある。ただ、筆者の感覚では、それはあたかも小学2年生が九九を覚えるのと大して変わりはないように思う。要は、面倒くさくても「パターン学習」と「毎回の候補列挙」を手抜きしないで頑張るかどうかなのであって、一度覚えてしまえば考えなくても「類題」には直感型の人と同様に対応出来るようになる。

こういう能力は大人になってからでも多少は育てることが可能なのではないかと筆者は考えている。そう考えさせるエピソードを一つ挙げよう。話は、自分自身の内科研修医時代の記憶にさかのぼる。このとき、30歳前後である。

病気の診断を決めて行く当たっては、「見れば一目でわかる」なんてことはあり得なくて(そんなことを言う奴はペテン師である)、同じ症状を来す疾患を数多く挙げた上で、まずその中から明らかに当てはまらないものを除外する。最後に絞り込んだいくつかの候補から、各種検査を行ってさらに絞り込む。それでもわからなかったら、治療をしてみてその反応で最終決定したりする。このプロセスを経ないと、どうしても見落とし即ち「誤診」が多くなる。「咳だから風邪」なんて決め打ちをしているようだと、肺炎、結核、癌などを見落としてえらいことになる。

研修医1年目時代の筆者は、「見りゃわかるだろ」的な病態については、そんなに厳密に上記の手順を踏んでいなかったのだが、それを見ていた2年目研修医の先生に叱られた。以来、どんなに明らかだと思える場合でもきちんとマニュアル通りの手順を踏むようになった。すると、頻度は少ないのだが、確かに時々意外なものが網に引っ掛かってくるのだ。それをハッキリ認識してから、「基本は大事」と思うようになり、それを機会あるごとに若い研修医の先生たちに煙たがられながらも伝えている。

内科的診断技術は、記事前半で述べた「読む」にあたって、「常にいろんな可能性を考える」とまったく同じことなのだ。マニュアル通りにやれと言えば「画一的」と言いたがる人が必ずいるが、そのマニュアルには「いろんな可能性を考えろ」と書いてある。どちらが画一的だろう?

そのあたりも含めて、冒頭の「本人、それなりに努力はして来ているのだ」なのである。なので、これから展開される文章で「読めない」人が筆者に批判されたとしても、それは「努力が足りない」のだ。

練習は嘘をつかない。努力こそ正義。小学校2年生の屈辱的な敗北以来、数十年に渡って地道に積み重ねて来た努力が、現在の筆者が持っている「読み」の技術なのである。もともと能力の高い才能ある人には比べるまでもないが、小学校2年生時に担任教諭から皆の前で半泣き状態まで追いつめられた少年が、全て我流で自己訓練した到達地点としては、まずまずの仕上がりだろうと考えている。

「色づけ」「階調づけ」の能力には、たった今筆者自身を例に述べたように、努力だけではなくて素質的な要素も大きく関与するのは間違いない(少年期から通算30年以上の訓練でも「初級」なのだから)。なので、大人がこれから努力したからといって、必ずしも「読める人」にはなれないかもしれない。けれど、努力しているかどうかが一目で分かる目安として、筆者が知っていることがひとつある。

「意味もなく、自分が優れていると証明するために周囲に迷惑行為を働く」

ようなことがあれば、これはまるで自覚も努力もしていないと言ってよい。自分が「読めない人」だという自覚があれば、「うっかり見当違いの批判をするかもしれない」と思って自重するから、簡単に他人を批判したりはしない。だからこそ、筆者は「専守防衛」なのである。

「人の気持ちを考えろ」「相手の身になってみろ」「空気読め」

色んな言葉で非難され、心に傷を刻み付けながら育った大人は多いと思う。一方的に「上司が悪い」「教育が悪い」「社会が悪い」「国が悪い」など、自分以外の対象に責任を求めて激しい非難を浴びせる人には、こういう「読めない人」が多く含まれていると筆者は感じている。それはほとんど確信に近い。

「読めない」人は、読めないが故に、自分が他人を傷つけていることを知らない。

「読めない」人は、読めないが故に、自分が周囲から守られていることを知らない。

「読めない」人は、読めないが故に、自分がやっていることすら分からない。

だから、「読めない」人は、決してそのままでいてはいけない。少なくとも、この記事を目にした人には、今日から努力を始めてもらいたい。該当者は、この文章を読みながら「自分には関係ない」と思った貴方だ。例え貴方が読めない人であり続けたとしても、せめて「他者を批判しない」という態度を貫けば、周囲は温かく見守ってくれるだろう。

「読めない」人は、読めなくても、天によって与えられた才能を活かして生計を立てられていることが多い。学校の成績は良かった、仕事は出来るなど、「読めない」ことが許される状況もある。だからこそ、「読めない」人であっても困ることが少なくて、自分自身が何者であるかに気づくことがなかったのだと思う。「読めない」人なのであるから、なおさらのこと。

しかし、折角この世に人として生まれたのだから、「学校の成績や仕事の出来不出来だけで決まるほど、人生は浅いものではない」ことも知っておくと、人生がより楽しくなることは覚えておいて損はないと思う。少なくとも、自分独りで切り開いて来たかのように思っていた半生が、実はどれほど多くの人々の愛情によって支えられて来たものなのか、少しは分かるようになるだろう。

我が身を振り返るに、他人の考えがある程度読めるようになるには、小学2年生のあの日から15年以上かかったと思う。自分自身の考えを外から見る方法を見いだしたのは20歳を過ぎてからだが、どんなに目を凝らしても自分の内奥は未だに見えないことの方が多い。

自分の思いを探るのに比べれば、他人の考えを読むのはどれほど容易なことか知れない。なので「読めない」人は、まず他人の気持ちを「読む」ことから始めるのがいいだろう。

「読めない」人が自ら「読めない」人であることを自然に自覚するのは、限りなく不可能に近い。なので、この場で出会った「読めない」人に、筆者はそれを伝えてみたいと思う。たとえ「読める」人にはなれなくても、周りの人にとって穏やかな人になってもらえたら、それで私の役目は果たされたと考えよう。

このブログでの出会いが、新たに生まれ変わるための良き契機になることを、心から天に祈る。そして、よき対話が生まれんことを。

※「Do not feel. Think.」記事内の表現方法において、万が一視覚障害をお持ちの方に不快な思いをさせるような点がございましたら、その意図はなかったことを汲んでいただき、どうかご容赦くださいませ。ご指摘あった場合、改めて表現方法を再検討したいと思います。


[再掲載]客観性の検証。~ご協力ありがとうございました~

2012-01-28 13:18:51 | インポート

ディスカッションを取り扱うからには、徹底的に読者参加型なのです。

自分の意見に客観性が保たれているかどうかを自ら判断するのは至難の業です。というか、事実上ムリ。なので、いろいろ工夫をするわけです。かけ算のお話でレジ打ちの順番に注目したのも、その一環です。かなり乱暴ですが、全国的に普及しているなら、自分独り善がりの発想でもなかろう、ということ。

んで、インターネットブログの場合はコメント欄がありますから、頂戴したコメントは大いに参考になるわけだけれど、それだけでは充分ではない。というのも、見ず知らずの管理人相手にいきなり意見するなんてこと、いくら匿名OKでもそれなりのツワモノじゃないと無理ですからね。管理人から逆ギレコメントされたら、たとえ管理人の間違いが明らかでも嫌な気になりますから。

なので、今回の場合は2つの検証を行いました。一つ目は、「198円が2点で396円になります。」 記事が世間で支持されているかどうか。

要するに、正面切って管理人には意見を言わなくても、4000アクセスもあったのだから、管理人の知らないところで「あの記事、おかしいよね」と言ってらっしゃる方が絶対いらっしゃるはず。なので、普段やらない「自分の記事をGoogle検索する」っていう、あり得ない小ッ恥ずかしいことをやってみました(笑)。

すると、確かにいらっしゃいました。結構批判されてますね(追加分記事でほぼ対応可能ではあります)。とはいえ、概ね好意的なご意見が多いようにも感じました。なので、まるでデタラメを書いた挙げ句、コメントでの忠告も聞かずにゴリ押ししている状況ではなさそうだ。もちろん、皆さん日本式算数教育で育ったわけだから、その内容を支持する自分への意見が反対一色に染まることは考えにくいでしょうけれども、これは客観性を重視する自分にとっては一つの安心材料となりました。そんなに変なことは言ってなかったんだな、と。

それで。今回の一連の記事では、読者の皆さんに何の断りもなく「バーチャル授業」を始めるという大変失礼な仕掛けがあったわけですが、実はもう一つ失礼させていただいてます。それが、今回の話題である「客観性の検証」です。

何かと言うと、実はこっそり「タイトルでの入室規制は有効か?」ってことを確認していました。

若者向け記事、おっさん向け記事の2編を想起していただくと、そのタイトルは「『個性を伸ばす教育』なるもの。~頑張れ、若者よ~」「酔っぱらいの部屋。~頭の固いおっさんのみ入室可~」とあります。この2編に対するコメント欄での皆さんの発言を見ていたわけです(性格悪いでしょ...苦笑)。

すると、見事に全員ルール通りにコメントしてくださっています。若者向け記事では、「おっさんは読むの禁止」という制限がありながら、「クレームは受け付けない」という条件での制限緩和があり、全員その範囲内のコメントです。また、次の「酔っぱらいの部屋。」では、全員がコメント欄で酔っぱらいを演じてくださいました。これは驚異的。

この2編へのコメント欄から、「タイトルでの入室制限は有効」であることは客観性を持って正当化されると自分は判断しました。

さあ、ここまで書いたら、次のカラクリが見えて来た方がありそうですね。 taka_mkivさん、お待たせしました(笑)。


削除記事、一部再掲載のお知らせ。

2012-01-21 15:58:35 | インポート

t.mさんに「1週間かけて色々考えてください」とお話ししたわけですが、そうは言ってもノーヒントでは厳しいだろうと思っています。なので、考えるためのヒントとして、削除したエントリーのうち「5142さんに返信。」「客観性の検証。」を再掲載させていただきたいと思います。t.mさんが犯している重大な間違いについて、これらのエントリーが関係しますので。なぜこれらのエントリーが関係するのか読み解く過程で、コメント内の重大な問題が見えてくるはずです。

「5142さんに返信。」に関しては、5142さんがご気分を害された可能性を考えて削除しましたが、審判開始後もコメントを頂戴している状況ですし、目的に免じてお許しいただけると思います。

「客観性の検証。」については、管理人が仕掛けた「後付け」のトリックに一番キレイにひっかかってくれた数学の本質さんから、「審判願います」エントリーに「突っ走れ」とコメントいただけたので、他の皆様にもきっとお許しいただけることと思っています。

例によって、不適切と思われた方がいらっしゃいましたら、コメントでお知らせください。