*
「行ってきまーす」 誰もいない廊下にそう声をかけると、リビングからいってらっしゃーいという間延びした返事が返ってきた。
たぶん返事をしたのは、義兄と一緒に昨晩家に泊まっていた陽輔だろう――実家住まいの陽輔はともかく戸籍上神城恭輔の住所はこの家なので、『一緒に泊まっている』という表現にはいささか語弊があるが。
陽輔自身は野球少年なので、もうじき家を出てひとりで自宅に帰るだろう― . . . 本文を読む
*
リビングに顔を出すと、まだ恭輔と陽輔がお茶を飲んでいた――羆徘徊のニュースのせいで昼食時も仕事にならなかったからだろう、アレクサンドル・チャウシェスクもいる。マリツィカはすでに着替えを終えて、いつもの活動的な格好に戻っていた。あのタンクトップとショートパンツは十歳の子供には刺激が強いらしく、陽輔がちょっと赤くなっていた。
「おい、こっちこっち」
そう声を挙げて、老人がアルカー . . . 本文を読む
*
「ただいまー」 玄関の引き戸を開けて、そう声をかける――その声を発した途端、にわかに家の中が騒がしくなった。
「マリツィカ!」 こちらの声に気づいて襖を開けっぱなしのリビングから姿を見せたデルチャが、靴を脱いで家に上がったマリツィカの体を引き寄せる――彼女は妹の体をぺたぺた触りながら、
「大丈夫? 怪我は? さっきニュースで羆が射殺されたって――」
「あ、うん、知ってる。わたした . . . 本文を読む
「兄さんが前にべた褒めしてたから。あと、陽輔に譲ってくれたCB400SF2《スーパーフォア》にも組んであっただろう? それである程度性能がわかってるからな」 という返事に、足元のHIDキットの箱を取り上げる――まあオートバイ用は自動車用に比べて耐振動性も防水性も高いので、価格の折り合いがつくならいい選択だ。ただしオートバイ用なので、自動車用とは接続端子のカプラー形状は同じだが、配線パターンが異なる . . . 本文を読む
1
「――どうだね、池上さん?」 という神城忠信の問いかけに、二柱式のリフトでリフトアップした赤いオープンカーの下にもぐりこんだまま池上が返事を返す。彼は小さい、だが明るいLEDの懐中電燈で車体の各所を下から照らしながら、
「ドライブシャフトのアウターブーツとインナーブーツが左右一対、ロアアームとアッパーアームのボールジョイントブーツ、ベルトに――ウォーターポンプは大丈夫だが、せっか . . . 本文を読む
*
葉隠《はがくし》北の交差点の手前で信号が赤に変わり、アルカードがジープを止めた。
交差点の向こう側の角にファミリーマートがあって、その建物の向こうに小高い山が見えている――マリツィカも通ったことのある小学校の裏山で、位置的には硲西の交差点を左折していった先、デルチャの近家を通り過ぎてもうしばらく行った場所になるのだが、山頂に近いところにさびれた神社がある。
どことなくおどろ . . . 本文を読む
*
掃き出し窓の外に張られたタープに当たった雨滴が砕け散り、パタパタと音を立てる――それまで床に座り込んで犬の遊び相手をしていたパオラが立ち上がって窓に歩み寄り、
「雨が降ってきましたね」
「そうだな」
キッチンで飲み物の用意をしていたアルカードはトレーを手にリビングに戻り、窓の外に視線を向けて小さくうなずいた――塀とタープの隙間から覗く空は黒雲に覆われ、時折雷鳴が轟いている。そ . . . 本文を読む
*
「――それじゃ、本当にありがとうございました」 謝礼の言葉を口にして、紗希が丁寧に頭を下げる――そのかたわらで彼女の母親も丁寧にお辞儀をするのに、アルカードは運転席から降りないまま適当に手を振った。
紗希の足元にお座りの姿勢で蹲り、グレートデン二頭がじっとこちらを注視している――どうも彼は紗希の挨拶よりも、門の向こうで鳴いている犬二頭のほうが気になっている様な風情ではあった。
. . . 本文を読む
*
「あ、そうだ――」 お茶会という空気でもなくなってみんなでテレビを見ているときに、思い出した様に口を開いたのはフリドリッヒだった。彼はアルカードが常備しているポテトチップ――新製品をとりあえず買い込んでくるのが好きらしい――をつまみつつ、
「凛ちゃんから聞いたけど、マリツィカさんが妊娠したんだって?」
「ああ、言ってたな――俺も蘭ちゃんたちから聞いただけだが、そうらしい」 アルカ . . . 本文を読む
「一冊目は棄てとけ」 と、アルカードは一瞬の躊躇も無く即答した。
経験則からくるアルカード個人の考え方ではあるのだが――メンテナンス系の雑誌などをみると、質を度外視してホームセンターで売っている様な九十ピース入り千九百八十円といった安物を初心者に勧めるものがたまにある。
そういった記事を目にした時点で、アルカードはその雑誌の内容は一切当てにしないことにしていた――精度の低い工具は使ったら使った . . . 本文を読む
*
「なあ、アルカード」 ソファの背もたれに体重を預けてふんぞり返ったままのフリドリッヒに声を掛けられて、アルカードは彼の向かいで先ほど届いた荷物を開封しながら適当に返事を返した。
「おーう?」
「このベルトなんだけどさ」
ビートの試運転から帰ってきたフリドリッヒは硝子テーブルを囲むソファのひとつに腰を下ろし、アルカードが窓から投げ込んだまま放置していたポリ袋の中に入れっぱなしにな . . . 本文を読む
「どうしたんですか」
「フリドリッヒが帰ってきたらしい」 フィオレンティーナが声をかけると、アルカードは駐車場へと続く扉に視線を向けたままそんな返事を返してきた。
「なにしに行ったのか、アルカードは知ってるんですか?」
「車買ったから、それの試運転《テストドライブ》」
パオラが質問すると、アルカードは短くそう返事を返した。思い当たることがあって、ふたりで視線を交わしてうなずきあう――アルカードが . . . 本文を読む
*
金髪の青年が帰ってきたのは、とっぷりと日の暮れたあとのことだった――たまたま玄関先で金魚に餌をやっていたマリツィカは、彼のずいぶんと汚れた有様にぽかんと口を開けた。
「どうしたの? その格好」
まるで森の中で取っ組み合いでもしたかの様にところどころに土や草の切れ端がついた格好のアルカードは、憮然とした表情のままかぶりを振った。彼は肩にかけていた黒いナイロンの巨大な鞄をいったん . . . 本文を読む
「昼間ならともかく、夜に男の住居にひとりでやってくるってのはどうなんだ?」 こめかみを指で揉みながら、アルカードはそんなことを言ってきた。彼は昼間でもどうかと思うけど、と付け加えてから、
「俺が言うのもなんだが、その手の冗談は面白くないぞ――こないだの狗狼態のまま一緒に寝るとかいうのもそうだが」
「そうですか?」 別に冗談で言ったつもりは無いのだが、吸血鬼は少々たちの悪いジョークのたぐいだと受け止 . . . 本文を読む