【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

今日(狂)の狂言 : 10月01日(火曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-10-01 05:10:16 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 中国・北京は天安門にて、毛沢東が中国の支配者であることを内外に宣言(1949年)。… …翌年の1950年 - 毛沢東暗殺陰謀事件発生は公然の㊙。 ◆ 五輪目当てで東海道新幹線が開業(1964年)。&so、その丁度33年後には、五輪目当てで北陸新幹線が長野経由で開業(1997年)。二匹目のドジョウが当たると思ったのだろうか? ◆ 恐怖の消費税の税率がついに2ケタに。しかし一部の商品やサービスは税率が据え置かれて、消費者ばかりか売り手も経理担当者もフリーランスも右を左の大騒ぎ(2019年)。

◎ ◎ 創刊120年以上の“ナショジオ”が綴る【 そうだったのか! 】 =第9回= ◎ ◎

« 追考 ; 1992年のパリ-モスクワ-北京ラリー  »

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 & ウィキペディア より……

1907年、フランスのル・マタン紙 (Le Matin) の呼びかけにより、ユーラシア大陸を東の北京から西のパリまで16,000km横断する壮大な自動車レース「北京-パリ (Peking to Paris) 」が開催された。参加5台中4台が完走し、優勝者のシッピオーネ・ボルゲーゼ公爵 (Scipione Borghese) らが乗るイターラ (Itala) はスタートから2カ月後にパリに到着した。

その後は2度の世界大戦と民族紛争、東西冷戦によって冒険の再現は困難になってしまったが、1980年代になると米ソ緊張緩和と中国の改革開放政策に加えて、パリ-ダカールラリー(パリダカ)の成功もあり、北京-パリを復活させようとする機運が高まった。パリダカの創始者であるティエリー・サビーヌも「次の夢」と語っていた。

パリ-モスクワ-北京ラリーの実現にこぎつけたのは、日本の三菱商事であった。1986年の新経営方針「K-PLAN」の一環として発足した首都圏事業部が立案し、自動車事業本部へと企画が持ち込まれた。三菱商事にはパリダカで活躍していた三菱自動車工業のようなモータースポーツの実績はなかったが、大手総合商社ならではの海外ネットワークを活用した。

1989年12月には運営母体としてフランスに子会社「MAPS」を設立し、国際自動車スポーツ連盟 (FISA) やフランスモータースポーツ連盟 (FFSA) 、ソ連国家体育スポーツ委員会、中国モータースポーツ協会と交渉しながら、競技公認や通行許可、安全確保、物資補給などの課題を煮詰めていった。

また、パリダカ四輪部門3勝を達成したルネ・メッジ (René Metge) をコースディレクターとして招聘し、現地試走を重ねてルートを選定した。

このプロジェクトの準備期間には1989年6月の天安門事件、1989年11月のベルリンの壁崩壊、1989年12月の冷戦終結宣言(マルタ会談)、1990年10月の東西ドイツ統一、1991年1月の湾岸戦争といった世界情勢を変える出来事が続いた。

本来ラリーは1991年9月1日にパリを出発する予定だったが、2週間前の8月19日にソ連のミハイル・ゴルバチョフ書記長が保守派によって軟禁される政変劇(8月クーデター)が発生したため、8月28日にMAPSが開催延期を表明した。

3カ月後の1991年12月にはソ連が崩壊し、独立国家共同体 (CIS) へ移行。計画当初は7カ国を通過する予定だったルートが、1992年9月に改めてラリーが決行された時には11カ国を通過するかたちに変わっていた。

1年延期のトラブルに加え、テレビ放映権収入の見込みも外れて興行的には失敗に終わり、三菱商事はこの1回のみで撤退した。第2回大会は1995年8月5日から26日にかけて「マスターラリー パリ-モスクワ-ウランバートル-北京」として開催された。総合優勝は、三菱パジェロに乗るジャン=ピーエル・フォントネであった。

日程・ルート

総距離は16,082km[13]。地球一周(赤道の全周長)40,075kmの約40%にあたる距離を27日間で走破した。行程は9月1日から4日までがパリ-モスクワの移動区間(リエゾン)、9月5日から16日までがCIS域内の前半戦、9月17日から27日までが中国国内の後半戦というパートに分かれる。

1992年8月30日にパリ近郊のアランソンでプロローグ[14]1回目を行い、9月1日にパリ市内のエッフェル塔の向かいにあるトロカデロ広場を出発。パリ-モスクワ間3,000kmのリエゾンは、一般車両に交じってベルギーのブリュッセル、ドイツのベルリン、ポーランドのワルシャワ、ベラルーシのミンスクを通過。途中、ワルシャワでプロローグ2回目を行い、1回目との合計タイムでSS1のスタート順を決めた。モスクワの赤の広場で催されたセレモニーには20万人の群衆が詰めかけ、花火が打ち上がるお祭りムードの中で本格的な競技がスタートした。

CISルートは先ずロシア国内の黒土の穀倉地帯を東進し、ヴォルガ川を渡り、東ヨーロッパから中央アジアへ。カザフスタン領内では広大なカザフステップからカスピ海東岸へと南下。トルクメニスタン領内では気温40度以上のカラクム砂漠を横断する。ウズベキスタン領内を経て、9月16日にキルギスタンの首都ビシュケクで休息日を迎え、ここで中国への入国手続きを済ませる。9月17日は天山山脈越えのリエゾン区間となり、標高3,750mのトルガルト峠にある国境の通関から中国領内へ入る。

中国ルートは新疆ウイグル自治区に始まり、天山山脈南麗のシルクロードの天山南路(西域北道)のオアシス都市に沿って東進する。9月18日のカシュガル-アクスは、タクラマカン砂漠では珍しい大雨によりスタックする車両が続出し、走行が途中で打ち切られた。甘粛省、寧夏回族自治区、内モンゴル自治区にかけては万里の長城の北よりゴビ砂漠とモンゴル高原を通過。9月26日に行われるフフホト-バーターリンのSSを終えた時点で最終順位が確定した。

最終日9月27日は車列を組んで北京市までビクトリーランを行い、天安門広場前を通って市内のチャイナ・ワールド・ホテル (China World Hotel, Beijing) で到着式典を行った。

・・・・・・・・・追考 完・・・・・・・

 
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1992 パリーモスクワー北京 マラソンレイド NHKスペシャル バージョン

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次回は “   « シトロエンといえば車じゃなくて探検隊? » (4/5)  “ に続く・・・・・

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