非常の山“K2”≪Gerlindeの手紙≫
ヒマラヤを彷徨い、8000mのジャイアントを見て回った。 無論 氷河を 岩稜を 時として 踏破しながら進むも巨峰はその全貌を見せてくれなかった。
“k2”は遠望しただけである。 近づけなかった。 長大な氷河の奥に鎮座する神が住む雪嶺である。
K2(ケーツー)は、中華人民共和国新疆ウイグル自治区とパキスタン[1]との国境にある、カラコルム山脈に属する山。標高は8,611mで、エベレストに次ぐ世界第2位の高さである。
人里から遠く離れた奥地にあるため、19世紀末までは無名の山であった。
不安定な天候、強い風、急峻な傾斜に加えて、中国側からのアプローチ(北壁ルート)は困難とされているため、ほとんどの登山者はパキスタン側からアプローチをする。
登頂の難しさでは標高は8,848mの世界最高峰エベレストより上で、実際にエベレストよりも大幅に登頂成功者が少なく(2010年時点で延べ302人が登頂)、世界一登ることが難しい山とも言われる。
冬季における登頂は未だ為されていない。
遭難者の数も多く統計によっては4人に1人が命を落とすと言われている。
チャールズ・ハウストン、ロバート・ベイツ共著の書籍から「非情の山」と呼ばれる。
インドの測量局が1856年からカラコルム山系の測量をはじめた際に、無名の山にカラコルム(Karakorum)の頭文字“K”をとって順にK1, K2, K3, K4, K5と測量番号を付けた。
K2以外の山については名前がつけられたり、現地の名前が採用されたりしたが、K2だけは測量番号がそのまま山名に残った。 ちなみに
K1 - マッシャーブルム、K3 - ブロード・ピーク、K4 - ガッシャーブルムII峰、K5 - ガッシャーブルムI峰 と、後年に命名された。 英国王立地理協会が命名に反対したものの、この地域を探検した英探検家の名前を冠してゴッドウィンオースティン山 (英語:Mt. Godwin Austen)と呼ばれることがある。
中国名はチョゴリ(中国語:喬戈里峰)で、これはチベット語系のバルティ語 (Balti dialect) で「大きい山」を意味する「チョゴリ(Chogori)」が由来であると言う。
“k2”の登攀記録は・・・・・・・
- 1900年代初めにイギリスとイタリアが初挑戦している。bその後1938年、1939年、1953年にアメリカが挑戦しているが、いずれも成功しなかった。
- 1954年7月31日(初登頂) - アルディト・デジオ隊(イタリア)。パキスタン側から大規模な登山隊でアプローチして2人が登頂に成功。 以降このルートが標準的な登山ルートとなる。
- 1977年8月8日 - 日本山岳協会登山隊の隊員重広恒夫、中村省爾が日本人初登頂。 世界でも二回目の登頂成功。
- 1982年8月14日 - 日本山岳協会の合同登山隊(登攀隊長小西政継)、中国側の北壁からの登頂に初めて成功。 標高8000m付近の峡谷にジャパニーズ・クロワールという地名が付けられる。
- 1986年 - 6月21日~8月10日の間に、7人の登山家を含む合計13名の死者を出す大量遭難事故が発生する
- 1996年8月12日‐8月14日 - 日本山岳会青年部登山隊(山本篤隊長)、南南東リブルートより、K2登山史上1チームによる最大人数(12人)登頂。
- 2000年7月30日 - 山野井泰史南南東リブルートより、無酸素アルパインスタイルによる単独初登頂。
- 2004年8月16日 - 北海道在住の社会人で編成されたどさんこ同人会(松本政英隊長)の5人が南南東リブルートで登頂。
- 2006年8月1日 - 東海大学山岳部登山隊の隊員小松由佳は日本人女性初登頂(世界で8人目)。また、21歳の隊員青木達哉は世界最年少での登頂。
- 2008年8月1日 - 大規模な氷塊の崩落事故が発生し3人が巻き込まれ、韓国人やネパール人など11名が遭難死した。
- 2011年8月23日 - オーストリアの女性登山家ゲルリンデ・カルテンブルンナーが、北稜を無酸素登頂し14座制覇を達成。 ルートに固定したロープの総延長は約2750メートル。 設置には延べ6週間かかった。 2008年の大量遭難死事件以来3年ぶりの登頂成功事例。
2006年初めの時点で、登頂に成功した女性登山家は5人しか居なかった。 またその5人全員が下山中または他の8000m峰で遭難死しており、誰も存命していない。
- 2009年6月、イタリアのミシェル・フェイトが山頂からの滑降に挑戦したが転倒して死亡。 当時、同行していたスウェーデンのプロスキーヤー、フレドリック・エリクソンは、翌2010年に挑戦を決意するものの、同年8月登頂中に難所であるボトルネックから滑落して死亡。
- ボトルネックは滑落すると到底助からないとされ、同氏も900m滑落した。 遺体の回収も困難で、両親の希望もあり遺体はその場所に残された。 直ぐ横で滑落を目撃したカルテンブルンナーも登頂を断念した。
- 2011年8月カルテンブルンナーらは再びK2にアタックし無酸素登頂を成し遂げたが、カルテンブルンナー自身は4度目の挑戦でありパーティーには7回目の挑戦となるメンバーも居た。
カルテンブルンナー隊の“K2遠征”記録をNationalGeographic誌から抜粋し、翻訳して記載する。
Expedition: K2 Overview
Gerlinde Kaltenbrunnerが 世界で唯一の 8,000 メートル級の山の頂上に立ってとした。
この夏、彼女は、登山家の小さなチームと共に 地球上 最後の 1 っの困難を征服しようとした ― 非情の山・K2の登頂―。 彼女の夫の Ralf Dujmovitsも遠征隊の一員だった。
彼女が成功した場合は、オーストリア人すべての 14 の酸素補給と高高度ポーターの助けを借りず、世界最高峰を登る最初の女性になりる。
課題の第二は、より困難な技術的問題の克服を要求する。
すべて 8,000 メートル峰 (アンナプルナ、少なくとも 8,000 メートル以上の登行く技術の完全なる修得を要求する高峰) の間で “K2登頂"は、2 番目に高い山岳の上に圧倒的な致死率を主張している。
エベレスは“高さ”だけの困難な高峰・ジャイアンツだが、K2 は「サベージ山(非情の山)」として知られている。
支援者を囲んだ遠征首脳会談の折、高峰経験が豊かな すべて 4人の登山者のうち 一人は彼女に言った。 『“K2” に死にいくつもりか?』 『去年 あなたのチームメイト フレドリック ・ エリクソンが失われたときと同様に事故や悪天候の “K2”に!!』
Gerlindeは高峰23座の登頂に成功している。 14座の8,000 メートル峰登頂に成功した。
彼女の登山は、ジャイアンツの10座を酸素補給は使用せず、高高度ポーラーの支援なく登頂を果たしている。 賞賛に値する。
酸素補給なしの登山行為は、その登山者の主張を純粋な 最も公正な方法として評価され、 他の酸素使用の登行が安全で健康的あると主張する争いがありますが、このたびの“K2遠征隊”の成功は 特に 彼女の登頂成功は、この論争に終止符を打つことになる。
・・・・・さて、
2 ヶ月を要した“K2遠征”は 6 月下旬から 8 月下旬に行われた。
彼ら・遠征隊が選択したルートは ― 北柱稜― 山塊の中国側氷河から上登し、長く困難な雪壁を登り 北稜に取り付き 稜線より頂上に至る計画です。
リモート ・ カルテンブルネルが以前からパキスタン側を試みた「Cesen ルート」よりも困難です。
北柱稜ルートへのアクセスには、激流粗暴のShaksgam 川の危険な交差点(渡渉地点)によって、特定の時間にのみ達成することができます。
遠征物資搬入キャラバンにはラクダ最初が必要です。 山間部では、チーム全体が一度に スムースに 移動・進行する必要があります。
長く、険しい岩尾根を登り、危険なハンギング氷河を遡行・ナビゲートして 北柱稜の稜線から頂上に到達するには、いたるところに雪崩が発生しやすい雪 couloir が前進を阻む。
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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