【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

タタールが夢見た大洋_24_

2015-09-25 13:40:27 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ 更なる西へ、バルト海へ、アドリア海へ ◎○

★= オーストリア侵攻と〝モヒの戦い“ =★

1236年に始まったいわゆる「バトゥの西征/モンゴル帝国の東欧侵攻」は、ヴォルガ・ブルガールの侵攻で始まった。 同年、グルジア・アルメニアを蹂躙し、翌1237年にはチェチェンを侵略した。 次いでクマン諸族とルーシ諸国を1237年から1240年にかけて征服=ルーシ侵攻=でこの地をジュチ・ウルスへの納税国とし、自治を認めつつも属国とした。

ポーランド侵攻(1240年後半 - 1241年)では、“トウルスクの戦い”に(2月13日)に勝利すると、モンゴル軍はサンドメェシュで部隊をふたつに別け、バイタル)率いる支隊にポーランド侵攻を任せ、遠征指揮官・バトゥの本隊はハンガリーへ向かった。 ポーランドに残されたバイダル率いる支隊は、3月18日に“フミェルニクの戦い”に勝利したが、シロンスク公・ヘンリク2世(前節参照)はボヘミヤからヴァーツラフ1世の率いる援軍がレグニツァへ到着するのを待っていた。 一方、バトゥのモンゴル軍本隊は、カルパチア山脈のベレッケ峠を守るハンガリー軍を駆逐し、パンノニア平原に入った。 知らせを聞いたハンガリー王ベーラ4世は、シロンスク公ヘンリク2世が北方のレグニツァでタタール(蒙古)軍の支隊を引き付ける間に、タタール本隊を叩くことを決意して十万の大軍を招集し出撃した。

ハンガリーに侵入したタタール(モンゴル)軍は バトゥ率いる本体とスブタイイ率いる部隊に分かれており、バトゥ軍はドナウ河まで進んだ頃 ハンガリー軍と遭遇した。 数に大きく劣るバトゥの部隊は撤退を始め、これを追ってハンガリー軍はサヨ川とヘルナッド川の合流地点近くのモヒ平原に入った。 一方、宿将・スブタイ率いる部隊は北方のレグニツァから急きょ南下し、バトゥの本体と合流を計ろうと、それほど離れていない場所に迫っていた。 蒙古軍団の鉄則、分離した軍団が移動する折には相互に連絡を取り合う軍規が生かさていた。 スブタイはハンガリー軍を包囲するため、バトゥが使った石橋以外のサヨ川渡河地点を探して南方に進んだ。

ベーラ4世はモヒ平原に到着すると、素早くタタール(モンゴル)軍の前衛部隊を撃破し、サヨ川の石橋を奪い東岸に橋頭堡を得た。 その東岸の橋頭堡でベーラ4世は、西岸に主力部隊とともに強固な防御円陣を築き野営する。 ハンガリー軍は 正面のバトゥ率いるタタール(モンゴル)軍が自軍より数ではるかに劣るのに安心していたが、バトゥは翌朝7台のカタバルト(投石機)を前線に投入し、サヨ川東岸のハンガリー軍の橋頭堡に石弾と矢弾の集中攻撃を行った。 「耳を裂くばかりの爆音と閃光」をともなって行われたこの射撃と連携して、タタール(モンゴル)軍は騎馬隊を突撃させた。 ハンガリー軍は後退を始め、バトゥは石橋を再び奪取した。 石橋を得た蒙古軍団は続々とサヨ川を渡り進撃したが、 数に勝るベーラ4世はタタール(モンゴル)軍をサヨ川に追い詰めようと主力を投入し、激戦が行われた。

ハンガリー軍の騎馬隊は何度も突撃を繰り返したが、そのたびに蒙古軍は投石機と弓矢でハンガリー軍を撃退し、疲労させた。 この時 ようやくスブタイ率いる別働隊が戦場に到着し、ハンガリー軍を完全に包囲した。 両陣営にとって、大軍を動かすにはモヒ平原は狭すぎた。 身動きの取れなくなったハンガリー軍はタタール(モンゴル)軍からあびせられる大量の石弾と矢弾によって壊滅的打撃を受けた。  しばらくして スブタイは西方のみ包囲を解き、意図的にハンガリー軍のための逃げ口を作った。 ハンガリー軍のうち 少数は武器や防具を放棄して包囲を脱したが、馬を乗り換えたタタール(モンゴル)軍の軽騎兵に追いつかれ、ほとんどが討ち取られた。 


ベーラ4世は 辛うじてタタールの追撃を逃れ、オーストリア経由でアドリア海へ敗走した。 クロアチアの海岸線の城砦・ダルマチアの沖の孤島に避難した。 当時、ハンガリー王がクロアチア、ダルマチア王を兼ねていたが、この戦闘でハンガリー軍はほとんど壊滅し、ハンガリー全域は大蒙古帝国の占領下に入った。 しかし翌年の1242年 大ハーン・オコデイの死による遠征軍の帰還命令を受けると、バトゥはやむなく ハンガリーを放棄し、タタール(モンゴル)軍はハンガリーから撤退する事に成るのですが・・・・・後に 話しましょう・・・

≪ 尚 蛇足として 蒙古帝国第二代オゴデイ・ハーンの崩御の伝令が蒙古高原中央部に位置するカラコルムからウイーン城塞を攻略するバトゥの下にくる。 約5000キロを一人の伝令が蒙古帝国の駅伝システムを活用して15日前後で走り抜けている。 この伝令に出た勇者の話 司馬遼太郎さんが書いておられます。 初期の作品です ≫

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森のなかえ

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