【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

タタールが夢見た大洋_25_

2015-09-27 19:22:16 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ 更なる西へ、バルト海へ、アドリア海へ ◎○

 ★= カラコルムから伝令飛来 =★

1241年、欧州東部のトランシルバニア全域=東にはカルパティア山脈、南にはトランシルヴァニアアルプス山脈(南カルパティア山脈)が横たわる。 北はウクライナ、西はハンガリー、南西はセルビアに接する=の征服はカダアンらによっての征服された。 また、後方部隊であるカダアン司令官は、クマン人マジャール人などのハンガリー王国の残存勢力の掃討などを行い本体を支援しつつ西方に進軍していった。 夏から秋にかけてはバトゥの本隊はドナウ河畔に幕営したのち、冬には凍結したドナウ川を渡ってエステルゴム市を包囲攻撃した。

この時期の欧州は、グレゴリウス9世フリードリヒ2世を支持するロンバルディア同盟とが対立した「教皇派と皇帝派」の対立の真最中であったが、1241年8月にグレゴリウス9世が逝去し、10月25日のコンクラーヴェで選出されたケレスティヌス4世も11月10日に死去し、ローマ教皇はインノケンティウス4世が即位する1243年6月まで不在であった。 ヨーロッパにおいて外部からの侵略に対して、一致団結して東方から怒涛の勢いで打ち寄せる悪魔の使者・タタールに抗すべき方策を練ろうとする指導者が欠落していた。 

インノケンティウス4世即位後の1246年、モンゴル帝国のジュチ・ウルスと戦っていたハールィチ・ヴォルィーニ大公ダヌィーロに王位を授けてルーシの王とし、ジョチ・ウルスを牽制した。 そして、1246年8月24日のクリルタイでグユクが第3代ハーンになるという情報に、イタリア・ヴェネツィア共和国の修道士カルピニを教皇代理の使者として、蒙古高原中央部の帝都・カラコルムに送り込む。 カルピニは謁見の際にローマ教皇の親書を手渡して和睦交渉を行なった。 このときにローマ教皇宛に送られたグユク・ハンの勅書が現存しており、その勅書でグユクはローマ教皇に帰順を求めている。 この勅書にて、帰国後カルピニは一時、教皇の怒りを買った=

ポーランドの分裂状態を収拾して国家の再統合を実現しつつあったシロンスク公ヘンリク2世の死により、ポーランド統合は白紙に戻った。 このことはシロンスクのポーランドから離脱する事態を生み、14世紀にポーランド国家の統合が実現するまでに、シロンスクはポーランドの領域から外れてしまった。

一方 宿将・スブタイが南下して、ハンガリー領内を西に進軍するバトゥ本体と合流して〝モヒの戦い”に勝利しドナウ河を渡りエステルゴム市を包囲攻撃しているころ、 バルタイ将軍(チャガタイ家、第五皇子)率いる分隊は、ポーランド領内中央部に深く進攻、トゥルスクにて ポーランド王国の軍団と〝トゥルスクの戦い“で激突した。 この戦いも蒙古軍団の圧倒的な勝利におわる。 駆け付ける援軍もことごと 撃沈され ポーランド゛領内の激震が西方のオーストリアやドイツに伝播した。 東欧諸国は震撼した。 遠征軍の別働隊バイダルとゴチンは逃げるドイツ・ポーランド連合軍を容赦なく追撃した。 おびただしい将兵が殺戮された。 蒙古軍団はオドラ河に沿った地域を掃討して行き、当初の目標であったヴロッワフを完全に破壊した。 オドラ河を渡ればオーストリア・ドイツは目前です。 バルダイ将軍もシロンスク地方を蹂躙すべくオドラ河を渡って、西に進軍していく。

1240年春、バトゥはカルパチア山脈の手前で遠征軍を3軍団に分け、ポーランド゛方面とワラキア方面に別働隊を進軍させる二体と、カルパチア越えからトランシバニア経由でハンガリー王国へ侵攻するバトゥの本体軍団である。 右翼のオルダ゛の支軍がポーランド゛王国(ビャスト朝)に侵攻し、3月にはクラクフを占領。 バイダル率いる前衛軍が 1241年4月には“ワールシャットの戦い“でポーランド゛軍を破って、ヘンリク2世を敗死させた。 その後、 ポーランドのモラヴィアから西に進軍するバイダルとカルダンはシロンスク地方を馬蹄で蹂躙して向かうところ敵なしの勢いであった。 

一方、バイダルとカルダンと同行していた宿将スブタイは、ポーランドのペシュットを陥落させた後に南に転進して、ティサ川流域に布陣するバトゥの本体と合流後の “モヒの戦い”にて、ハンガリー国王ベーラ4世を奇襲の包囲戦術で敗走させる。 ベーラ4世とヘンリク2世の二大障害物を排除したボトゥ・ヨーロッパ遠征軍は、こうしてポーランド帝国とハンガリー帝国を破壊しアドリア海からバルト海をむすぶ東欧地域を勢力下においた。 ヨーロッパ遠征軍(タタール)総指揮官バトゥの行くところ、敵無しの状況が野火のごとく西へ西へと広がっていく。

しかし 1241年12月21日、カラコルムに君臨する蒙古帝国オコディ・ハーンが死去した。 すると、蒙古高原の帝都・カラココルム(ウランバートル西方にあり現在は廃墟)から 一頭の馬が西に向かった。 鬼神のように 広大なモンゴルル帝国を踏破して行く。 アルタイ山麓を走り抜け 天山山脈の峠を越え イリ渓谷から カスピ海の西岸から北に回り込み、キプチャックの草原を、ロシア平原を、カルパチア山脈を走り抜けて、 バトゥの本陣に駆けつけるたねに。 それは、地球を半周りするほどの距離を駆け抜ける伝令であった。 一刻を争う伝達業務、10日で駆け抜けたと言う。

 

 

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森のなかえ

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