【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

今日(狂)の狂言 : 09月11日(水曜日) & 旅と文化の足跡が野帳 

2024-09-11 05:10:28 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ モハメド・アタを始めとしたアルカイダの19人のチームが、美しい国での警察の日を狙ってエクストリーム・カミカゼで世界新記録を樹立(2001年=アメリカ同時多発テロ事件)するも、1機未遂に終わって完全試合にはならず。 ◆ 小泉純一郎の郵政民営化テロによって、民主党ばかりか領袖レベルの党内不満分子を粗方葬り去ることに成功(2005年)。 ◆ ウケ狙いでやった福島第一原子力発電所絡みの報道が自爆テロだったことを、朝日新聞がエクストリーム・謝罪(2014年)。

◎ ◎ シリーズ・登山家の横顔 = 英国の才児 / ジョージ・マロリー = 【 08/9 】  ◎ ◎

=【 壺公夢想 】 冒険記譜・挑戦者達 | 登山家ジョージ・マロリーの横顔=06/9= | 2015/10/27 =

The Final Attempt | By George Mallory and Sandy Irvine | Mount Everest ; https://youtu.be/NXb3fcXOslU

エベレストに消えた謎 

北壁から登っていくコースには、「セカンドステップ」と呼ばれる難所がある。 山頂から250mほど手前に高さが30mほどで上部はほぼ垂直な岩壁になっている石灰岩の岩場である。 1960年に中国隊が初めてここを乗り越え、1975年に中国隊の手でアルミはしごが設置されている。

ラインホルト・メスナー=前章参照=に代表される現代の登山家たちの多くは、セカンドステップの困難さを理由にマロリーらの登頂を否定する。 スペインのオスカル・カディアフ(Oscar Cadiach )は1985年に素手でセカンドステップ登攀に成功しているが、彼の見積もりではセカンドステップの難易度は(マロリーの技術なら登れる)5.7から5.8であった。 ただ、カディアフが登ったとき、セカンドステップは雪に覆われており、雪のなかったマロリー登山時より容易になっていた。

また、オーストリア人テオ・フリッシュ(Theo Fritsche )は2001年にマロリー同様の条件でモンスーン到来前の状態でザイルなしでの登攀に挑み、5.7~5.8という難易度であると評価している。 フリッシュはマロリーのように軽装で酸素も用いない状態が成功し、条件がよければマロリーでもセカンドステップは超えられただろうと語っている。

2007年6月、コンラッド・アンカーとレオ・フールディング(Leo Houlding )が中国隊のアルミはしごを取り外した状態でのセカンドステップ超えに挑み、成功した。 フールディングは難易度を5.9と評価。 この登頂は、1924年の遠征隊の状況をできる限り忠実に再現するために行われた。

しかしアンカーはその8年前に行われた最初の挑戦では失敗しており、「自分は5.12クラスをこなす自信があるが、この難易度は5.9クラスの技術では厳しいだろう」と語った。 その時アンカーは中国隊の残したはしごを足場の1つとして利用していた。

2007年の登山後、アンカーは意見を変えて「おそらくマロリーにも登れたに違いない」と言った。 2人がセカンドステップを超えたかどうか、いまだに世界の登山者の間では意見が分かれている。

マロリーはスイス・アルプスにあるネストホルン(Nesthorn 、3824m)で同じような状況にあったが、これを克服している。 仲間たちは彼の高い技術に裏打ちされた積極性と楽観さを疑うことはなかった。

登山技術ということなら、マロリーは北ウェールズでHVS(Hard Very Severe 、難易度5.8-5.9)級の山々に登って技術を磨いている。 たとえばスノウドン山系のリウェッド(Y Lliwedd )の山々などがそうだが、そのような山に基本装備で登るのに慣れた登山者は重装備である方が逆に登りにくいのではないか、という意見もある。

ノエル・オデールは彼らがセカンドステップにとりつくのを見たと語った。 これに対してはまずイギリスの登山家たちの間から疑義が出たため、オデールは後に「ファーストステップだったかもしれない」と見解を変えている。 しかし人生の終わりに再び意見を戻し「やはりセカンドステップだった」と主張していた。 もし彼の目撃したことが本当だとすれば、彼の証言する地形はファーストステップではありえない。

別の説もある。 オデールがステップを登っていく人を見たとき、彼はごく自然に彼らが登っていくところだと考えた。 そのことからオデールの見たのが登頂ルートではないファーストステップだということはあり得ないという結論が導かれた。

セカンドステップなら予定よりもだいぶ遅いが、その理由は信頼性の低かった酸素器具に問題が生じたためと説明されてきた。 しかし、それにしても時間的に遅すぎる。 もしオデールが見たとき、2人が「下っている」ところだったとすれば、時間の辻褄は合う。オデールが見た時、2人は下山中にファーストステップをよじ登ってそこから眺め、セカンドステップを経由してノース・コルへ出るルートを見付けようとしていたのではないかという説である(1981年のフランス隊は登頂を断念して、全く同じ行動を取った)。

1999年の調査隊は2001年にさらなる証拠を求めて山に戻ってきた。 彼らはマロリーとアーヴィンのキャンプを発見したが、アーヴィンの遺体とカメラを発見することができなかった。 2004年には別個の調査隊がカメラを探したが、見付からなかった。

 マロリーの遺体を発見!

-1999年-、マロリーの遭難から75周年のこの年、マロリーとアーヴィンの遺体を捜索し、その偉業が達成されたのかどうかを確かめるべく、調査遠征隊がエベレストに向かった。 そして、調査隊は初日、エベレスト北面標高8160メートル地点で、真っ白に凍りついたマロリーの遺体を発見する。 その遺体はうつ伏せの姿勢で顔を地面に埋め、全身をいっぱいに伸ばして、滑落停止の姿勢をとっていた。

両腕はいまだ逞しい筋肉をつけながら頭の上へ伸びており、指先は関節を曲げて岩屑の中に埋もれていた。 右ひじが折れているか、脱臼するかしていた。 両足は下に伸びているが、片足は折れており、それを庇うようにもう一方の足が上に交叉していた。 目は閉じており、額に致命傷と思われる外傷があって、砕けた頭蓋が飛び出していた。 絡みついたクライミング・ロープが胸郭を締め付け、皮膚に食い込んでいた。

遺体付近からは、天然繊維の衣服・皮製のヘルメット・手紙数通・鋲靴・絹製のハンカチ・時計・肉の缶詰・ポケットにしまわれていた日除け用ゴーグルなどが見つかった。 だが、登頂の証拠となりうるコダックのカメラは発見出来ず、彼が頂上に置いてくると言っていた妻ルースの写真も見つからなかった。 そして また、この調査ではアーヴィンの遺体は発見出来なかった。

調査隊が推測したマロリー・アーヴィンの遭難の様子 

2人は頂上に達したかどうかはともかく、これまでに人類が到達した事のない高みに立った。 しかし、2人は疲労困憊し、酸素も切れていた。 それでも2人は力を振り絞り、日没前に最大の難所であるセカンドステップを降り終える事に成功する。 そして、ファーストステップも降り終えて、イエローバンドに達した時、辺りは闇に包まれた。

しかし、マロリーはランタンと懐中電灯をキャンプに置いてきているので足元は照らせず、ほのかな月明かりだけを頼りに、石灰岩の脆い岩の連なりを降りて行かざるを得ない。 2人は水分、酸素不足に加え、極度の疲労もあって意識が朦朧としていた。 それに最大の難所を超えたのと、キャンプを目の前にした安心感もあって、ふと心が緩んだのかもしれない。 垂直な岸壁が横たわる危険箇所に差し掛かった時、マロリーは雪疵(せっぴ・雪の塊)を踏み外して、滑り落ちてしまった。

2人はロープで体を結び合っていたが、激しい衝撃を受けてロープは切れてしまう。 その直後、マロリーは片足で斜面に着地した為、右足が登山靴の上で折れて、そのまま急斜面を滑落していった。 アーヴィンはピッケルをその場に置き、直ちに親友を助けようとしたが、最早、どうしようもなかった。

マロリーの体は尚も加速をつけて暗黒の谷底へと下っていったが、彼は諦めず、体をひねって岩屑の斜面に指先を食い込ませ、必死に体を停止させようとした。 手袋はすぐに裂け、それでも腕と指の力だけで必死に食い止めようとする。 だが、その最中、傾いた岩に打ち当たって、体が宙に舞い上がってしまう。 そして、斜面に激しく叩きつけられ、尖った岩に額を激しくぶつけた。

滑落の速度は緩んできて、ようやく体は停止した。だが、致命傷を負ったマロリーが、再び立ち上がる事はなかった。

アーヴィンは暗闇の中、マロリーの名を必死に呼び続けていた。 だが、親友から、返事が返ってくる事はなかった。 アーヴィンは暗く沈んだ気持ちで、1人下山を始めるが、ほどなくして座り込んでしまう。 極限の疲労に加えて、滑落事故の際、アーヴィンも負傷したのかもしれない。

・・・・・・そして、酷寒が体を凍りつかせてゆく中、アーヴィンは短い22年の生涯を閉じた。 翌日、オデールが2人の捜索に向かった際、アーヴィンの遺体の側らを、気付かずに通り過ぎて行ったのかもしれない。

1933年、イギリスの第4次遠征隊は、標高8460メートル地点でアーヴィンのピッケルを発見している。そのピッケルには滑落したような傷跡はなく、ただ岩の上に置かれていた。 マロリーとアーヴィンは、第6キャンプまで後僅かという距離に達していながらの無念の遭難死であったのだろう。・・・・・・・・

結局、今回の調査ではマロリーとアーヴィンがエベレスト登頂を果たしたのかどうかを確定する、決定的な証拠を見つける事は出来なかった。 しかし、2人の行動を推測できる、幾つかの遺物を発見する事は出来た。 特に標高8490メートル地点で、マロリー達が使用したNo9酸素ボンベが発見された事は、その登頂速度を推測できる重要な発見であった。 一通りの調査を終えると、マロリーの遺体はその場に丁重に埋葬された。

マロリーとアーヴィンは世界の高みを極めたのか?

オデールは「とある岩の段差で2人を目撃した」と言っている。 調査隊はその証言に基いて現地調査を試みた。 その結果、サードステップ(標高8700m)が最もその光景に当てはまる事が分った。 だが、午前5時半に出発したとして、午後13時にここまで到達するのは不可能ではないものの、極めて難しいと推測された。

それ故、セカンドステップ上部への到達が相応と考えられた。 このセカンドステップは高さ30メートルほどの岩壁で、巡洋戦艦の切り立った艦首と形容されるほど難度が高い箇所である。 そのため、上記のごとく、イタリアの著名な登山家メスナーは、当時の貧弱な装備でそこを越えるのは不可能であるとして、マロリーのエベレスト登頂を否定している。

しかし、マロリーの友人はこう述べている。「彼のルートを探し出す才能に、何度も感心させられた事は忘れられない。複雑に入り組んだルートでも、彼は遠くから見当を付け、現場で細かく見極める」 「ジョージが登っている姿を見ていると、体力よりもしなやかさ、バランスの良さに感銘を受ける。どんなに険しい場所でも、リズミカルにテンポよく前進する。その動きの滑らかなこと、まるで蛇の如しだ」と。

マロリーは間違いなく当時世界一流の登山家であり、周囲の人間も認める確かな技術があった。 そして、2人は最大の難所セカンドステップを乗り越えて、もしかするとサードステップにまで達していたのだろう。 このサードステップはさほど難しい場所ではないので、後は頂上への道が残されるのみである。だが、エベレストは超高所にあって、酸素の量は地表の三分の一に過ぎない。 その条件下では、人間の能力は極端に低下するので、現在、酸素ボンベ無しでこの山を登頂出来る人間は、ほとんど存在しない。

マロリー達が頂上を目指す4日前には、同じ遠征隊の登山家ノートンとサマヴィルは8530メートルまで無酸素で登っている事実がある。 これは壮挙ではあったが、ノートンの最後の1時間の歩みは、高さにして30メートル、距離にして僅か90メートルでしかなかった。

経験豊かで体力もある2人の登山家が病弱者のように咳き込み、数歩進んでは息を切らし、喘ぎ苦しみながら登らねばならなかった。 後300メートルの高さを登り切れば、2人は栄光の頂点に立つ事が出来るのであるが、それを成そうと思えば、少なくとも後10時間の時間が必要であった。

そうなれば夜を跨いでの登山となるが、装備も貧弱で体力も限界近い2人には、到底無理な相談であった。 2人はここで登頂を諦めて、引き返さざるを得なかった。 酸素ボンベの助けがなければ、この過酷な山の征服は極めて難しい。 一方、マロリーは酸素ボンベの使用を考えていて、その書き付けでは前節の如く、「おそらく酸素ボンベ2本ずつで頂上へ向かうだろう」と言っている。

マロリー達が午前5時~5時半にキャンプを出発したとして、酸素ボンベを2本ずつ背負い、頂上を目指した場合を想定してみる。 最大流量にセットしてあるとすれば、その持続時間は8時間となり、午後13時頃、セカンドステップを乗り越えた時点で、酸素ボンベの2本目が無くなる。

そこからは酸素不足で歩みが遅くなるので、頂上に到達するのは午後19時となり、丁度、日が沈み始める頃になる。 この場合だと、まだ明るみの残る内に頂上ピラミッドは下れなかっただろうし、まして困難なセカンドステップを闇夜に降る事は、不可能であっただろう。

そうなれば、彼らはここで遭難していただろう。 =ただ、2人の歩みが想定よりも速く、午後13時にサードステップにまで達していた場合には、頂上到達時刻は午後17時半となる。この場合だと、また憶測が変わってくる事になる=

しかし、彼らが実際に遭難した場所は、セカンドステップとファーストステップを降り終えて、第6キャンプまで後もう少しという地点であった。 また、酸素ボンベの2本目が切れた時点(午後13時頃)であきらめて、引き返していたとすれば、まだ日のある内に第6キャンプまで達していただろう。

マロリーはその最中に転落したのだろうか? しかし、マロリーのポケットには日除けゴーグルが入っていた。 エベレストの紫外線は極めて強いので、日中の行動には日除けゴーグルは欠かせない。 これがポケットに入っていたと言う事は、昼間ではなく、夜間に行動していた事を示唆している。 酸素ボンベ2本ずつのシナリオだと、どうも話が噛みあわないのである。

マロリーは書き付けに「おそらく・だろう」という言葉を使って、酸素ボンベを2本ずつにするか3本ずつにするか、選択の余地を残している。 そして、彼らの元には推定7本の使用可能な酸素ボンベがあった。 もし、彼らが酸素ボンベを3本ずつ背負っていったなら、シナリオは劇的な変化を見せる事になる。 最大流量にセットしてあるとすると、その持続時間は12時間となり、セカンドステップを乗り越えた時点で3本目に切り替え、そのまま歩みを緩めることなく、頂上を目指す事になる。

そして、酸素ボンベの3本目が空になる午後16時頃、マロリーとアーヴィンは頂上に到達していた可能性がある。 その場合だと、まだ明るみが残る内に難所であるセカンドステップは降り終え、ファーストステップを降り終えた時点で日没を迎える事になる。

おそらく、彼らは3本ずつ酸素ボンベを背負っていったのだろう。 そうなれば、1953年のヒラリーとテンジンのエベレスト初登頂から遡ること29年前、マロリーとアーヴィンは世界の高みを極めていた可能性があるのだ。

 アーヴィンの遺体の問題

1979年に王洪宝が「1975年の登山時に8,100m地点で西洋人の遺体を発見した」と語った。 詳細を語る前に王は雪崩で死んでしまったが、1986年トム・ホルツェルが別の中国人から正確な場所を聞き出した。位置的にマロリーか、アーヴィンだと思われるが、王が「頬に穴があいていた」というのがマロリーの遺体の状況とそぐわない。 2001年の調査隊は王が1975年に宿営した地点を特定し、周辺を調査したが、何も見つからなかった。 王が見たのは実はマロリーの遺体だったのではないかという説もある。

ヘムレブの著作「Detectives on Everest」によれば、別の中国人クライマー許競は1960年にアーヴィンの遺体を見たと語っているが、場所に関してははっきりしない。あるときは第6キャンプと第7キャンプの間(8300m地点)といい、あるときは北東稜のファーストステップとセカンドステップの間(8500m地点)といっている。

しかし、1933年にアイス・アックスが発見されたあと、アーヴィンに関しては一切の手掛かりが見付かっていない。 許によれば遺体は仰向けになっていたというが、そこから考えられるのは負傷し、手当てをしていて亡くなったか、あるいは休息していて亡くなったということである。

トム・ホルツェルは2009年、エベレスト航空写真解析の結果、アーヴィンの遺体である可能性のある6フィート前後の物体を発見したとし、調査隊を組織しようとしている。 なお、トム・ホルツェル自身はマロリーとアーヴィンがセカンドステップをあきらめ下山中ファーストステップから得られる眺望からルートをみつけようとしてファーストステップに上ったところをオデールに目撃されたという説を取っている。 その後彼らは吹雪に遭遇し滑落した。最初の滑落では生存したが、その後下山中に死亡したとしている。 

The Killers - Be Still (To Mallory & Irvine) ; https://youtu.be/SASZZ8BEK4w

・・・・・・・・明日に続く・・・・・・

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