【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

タタールの軛( 追稿 )= 04= 

2015-10-22 19:09:45 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ モンゴルのルーシ侵攻 ◎○

★= 「タタールのくびき」の内実 =★

 ルーシ諸国のモンゴルへの臣従関係を示す用語が「タタールのくびき」であろう。 この表現は、ルーシがモンゴル人の苛酷な支配下にあったこと、そして、この時代がロシア人にとっては「不幸」な時代であったことを含意することは明白である。 がしかし、それに対し、 実際には、征服事業の初期において、モンゴルに服従しない国家や都市に対しておこなった殺戮行為や略奪行為を除けば、この用語から受ける一般的な印象ほどには苛酷な統治ではなかったようである。 

 実際のところ、ジョチ・ウルスのハーンは基本的にルーシ諸公を廃さず、彼らを通じて統治した。 そして、モンゴル支配の時期、ルーシ西部とヨーロッパとの交易は、ルーシと中央アジアなどとの交易と同様、一定の割合で伸長を続けていた。 ルーシがモンゴルの支配に服したことによって、ヨーロッパとアジアにまたがる強大な帝国の存在が保証する東西交易の恩恵は、ルーシ各地にもおよび、各地を潤した。 また、数のうえで少数派であったモンゴル人たちの征服地への定住はまばらなものであった。 モンゴル人は遊牧の民である。 モンゴル人たちはステップ地帯については直接統治をおこなったが、定住農耕民の住む征服地については直接支配を好まず、多くの場合、先住農耕民の首長を通しての間接統治を採用し、住民税に相当する人頭税を課していた。 

 このことは、その生活様式から影響を受けることによってモンゴル人が農耕民族化し、軍事的に弱体化してしまうことを怖れたチンギス・ハーンの遺訓を、子孫たちが墨守した現れとみることも可能であるが、それにもまして、モンゴル人たちが、ロシア国内の交易ルートやロシアからの貢税収入よりも、ヴォルガ川からクリミア半島を経由して黒海へ至る隊商ルートとホラズム、ヴォルガ・ブルガリア、クリミア、カフカース(コーカサス)地方などからの経済的な収入の方をいっそう重視したためでもあった。

 実際、隊商ルート沿線の諸地域に対しては、モンゴル人は直接統治を選択しているのであり、キプチャク・ハン国(ジュチ・ウルス)にとってのロシアの位置は、元帝国(大元ウルス・トルイ家次男・クビライ)にとっての高麗の位置に相似すると言える。 後年に、ジュチ家の金帳カン国(ジュチ・ウルス、ジュチ次男・バトゥ)と中央アジアからペルシャを支配したトルイ家のイル・カン国(フレグ・ウルス、トルイ家三男・フレグ)の対立は、バクダッドからの交易に絡む権益の争奪戦であり、大蒙古帝国を分裂させる要因の一つになって行くのだが・・・・・・。 

 元の世祖クビライは、属国となった高麗王に対し、人口調査にもとづく貢税の納入や兵力の提供、ジャムチ(駅伝。第二代皇帝・オゴディが駅伝組織を整備)の設置を義務づけ、監督官としてダルガチを置くことを命じているが、キプチャク・ハン国もまた内属したルーシ諸国に対し、基本的にはクビライの対高麗方針と同様の姿勢で臨んでいる。 このことは逆言すれば、ルーシの人びとからすれば、十分な貢納と軍役さえ果たせば、被支配民族ではあっても日々の生活をそれほど干渉されることはなく、従来通り、比較的自由に農耕や商業などの生業が続けられたと確証できる。 ジョチ・ウルスのハーンは、ルーシ諸公が忠誠を誓い、納税と軍役の義務を負うと約束する限りは、ハーンの特別証書である“ヤルリィク”をあたえて彼らの統治権や既得権益そのまま認めたのである。

 ルーシでは、チンギス・ハーンが中央アジアでおこなったような、懲戒として灌漑施設を破壊し、半永久的に農耕不可能とするような事態は生じなかった。 ルーシと中央アジアとの交易路は整備され、モンゴル帝国による交易保護政策によって東西貿易が活発化し、ルーシはここから利益も得ていた。 北東ルーシの諸公は南西ルーシの諸公に比すると、いわば「本領安堵」を求めて自発的に征服者に対し恭順の意をあらわした。 このことについて、北東ルーシは、徹底的な打撃を受けた南西ルーシとは異なり、ポーランドやハンガリーなど後方で待避できるような場所をもたなかったのに加え、風土的にも南西ルーシにくらべ専制支配を受け入れやすい環境・風土にあったと言える。

 キプチャク・ハン国は、ルーシに対しては間接統治で臨み、決まった税金をサライに納めることや戦時に従軍することを義務づけたのみであったが、諸公の任免の最終決定権はハーンの手に握られていたため、主として領土の相続をめぐって相互に敵対する諸公たちは、貢納のため頻繁にサライに赴き、敵対者との紛争で不利な裁定をされたりしないように宮廷(オルド)やハーン周囲の実力者への付け届けをしなくてはならなかった。

 納税や従軍の義務を怠れば、その懲罰として大軍の侵攻を受け、たちまち権力を失う立場にあったことは明らかであり、政治的忠誠と軍事的奉公を条件として「本領安堵」するというヤルリイク授与制度は、モンゴルの支配層にとって、対ルーシ統制の要だったのであり、諸公のサライ詣とヤルリイク制度は、長期間において ルーシがハン国に服属していたことのまぎれもない証拠であった。 ただし、モンゴル人支配者は全体としてはルーシ社会における公位継承の旧慣を可能な限り重んじたのであり、特殊な事情のない限りはそれに違背することはなかったと言う。

 

前ページへの移行は右側袖欄の最新記載記事をクリック願います

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

================================================

  

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

================================================

 人気ブログランキングへ  人気ブログランキングへ

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« タタールの軛( 追稿 )= 03 =  | トップ | タタールの軛( 追稿 )= 05 =  »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

浪漫紀行・漫遊之譜」カテゴリの最新記事