○◎ ジュチ・ウルス旗の成立 ◎○
★= 次期皇帝への暗躍 =★
大蒙古帝国第二代皇帝オゴデイ・ハーンが崩御した。 1227年の父ジンギス・ハーンの死後、モンゴル内部では末子相続の慣習に従ってオゴデイの弟でチンギスの末子に当たるトルイを後継者に求める声があった。 これは、慣習だけではなくトルイ自身が智勇兼備の名将であったうえ、周囲からの人望も厚かったこと、更には 父時代に立てた多数の武勲などが同族・身内に認められていたことだけではない。 蒙古帝国を形成する幾多の遊牧民族の長達が望んでいた。 しかし、トルイはこれを固辞してあくまで父の指名に従うと表明し、1229年9月13日のクリルタイでオゴデイはチャガタイやトルイの協力のもと、第2代モンゴル皇帝に即位したのであった。
オゴデイ・ハーンは父の覇業を受け継ぐべく積極的な領土拡大を行なった。 1232年にはトルイの活躍で金の名将・完顔陳和尚率いる金軍を壊滅させ、1234年までに金を完全に滅ぼした(第二次対金戦争)。 さらに1235年、首都としてカラコルムの建設を行い、同地でクリルタイを開催。 南宋方面とキプチャク草原からルーシ・東欧に至る西方遠征の二大遠征と、あわせて高麗、カシュミールへの遠征計画を決議し、遠征隊を送り出す。 南方遠征(モンゴル・南宋戦争)については、総司令として中央軍を三男のクチュに任じて山西経由で南下させ、次男コデン率いる西路軍を浸染陜西・四川方面へ派遣した また、1236年からは甥でジョチ家の当主であったバトゥを総司令官とし、功臣スブタイを宿将としつつ長男グユクやトルイ家の当主モンケなど各モンゴル王家の後継者クラスの王族たちを派遣し、東欧の大半までを制圧するに至った経緯は前述のごとしである。 しかし、南宋に送り出した遠征軍は、皇太子のクチュ=オゴデイ・ハーンが最も愛し、次期政権を担わせるつもりだった駿馬=が陣中で没したために失敗に終わった。
他方、内政面においては父時代からの大功臣・ウイグル人財務総監チンカイやマフムード・ヤラワチ、耶律楚材らを重用し、全国に駅伝制を導入して領土が拡大した帝国内の連絡密度を高めた。 またオルホン河畔に首都・カラコルムを建設し、農耕地、都市部の管轄のために中書省を設けた。 しかし相次ぐ対外遠征や新首都建設などからの財政悪化、さらには急激に拡大しすぎた領土間の連絡が密に取れず、次第に帝国の一族間における分裂などが顕著になったこと、そして何よりも長男・グユクとジュチ家のバトゥの対立が決定的となって一族間に不和が生まれたこと、で大蒙古帝国に暗雲をもたらしての他界であった。
後継者の最有力候補であった三男クチュが早世したため、オゴデイは父チンギスのように自分の息子から後継者を指名せず、クチュの長男のシレムンを後継者としていたという。 しかし、シレムンは未だ若年であり、壮年の王族はオゴデイの息子たちはもとより、ジョチ家やトルイ家、チャガタイ家にも大勢いた。 過日、オゴデイは即位の時にオゴデイ裔に皇位継承権が固定されるよう各王家に誓詞を提出させていたという。
1241年12月7日に「大猟」を催し、同月10日にウテグ・クラン山というところで幕営して深夜まで飲酒に興じていたが、翌12月11日に寝床で絶命していたという。 享年56。 蒙古帝国の第一級の歴史書である『集史』や『元史』などでは過度の酒色で健康を害して死去してしまったと述べられているが・・・・・・・。
1239年、ヨーロッパ遠征軍に従軍していたグユクはトルイ家のモンケと共にアラン人との戦闘で戦果を挙げ、遠征軍の右翼を任されていた。 日々征服の成果が上がる中、酒宴でチャガタイ家のブリとジョチ家の王子たちとが口論になり、ブリが遠征軍の総大将であるバトゥを面罵し、グユクもブリに同調した。 遠征中のバトゥからこの報告を受けた父オゴデイは激怒し、グユクとブリは本国への召還を命じられた。 モンケは二人を監視する意味で帰国する二人に同行する。 モンケとバトゥは肝胆相照らしあえる駿馬と相互に深い信頼で結ばれていた。 オゴディ・ハーンがグユクが本国に帰還する途上で病没してしまったのである。 グユクは父・オゴデイは生前、第一皇后ボラクチンとの間に儲けた三男のクチュを後継者に定めていたこと、 そのクチュが南宋遠征において湖広方面の前線で四年前の11月に陣没してしまったことも知っていた。 夢を託したクチュの突然の他界で、父のオゴデイ・ハーンはクチュの長男シレムンを寵愛して自らの後継者として宮中で養育していたことも知っていた。
グユクの生母・ドレゲネは、ナイマン部の出身で、最初は祖父チンギス・ハーンの第2皇后となったクラン・ハトウンの父、ウハズ・メルキト族の族長ダイル・ウスンの妃であったが、チンギス・ハーンのメルキト討伐によって捕らえられ、オゴデイの第六夫人となっていた。 したがって、オゴディの後宮では最下位の地位にあり取り巻きも権勢もジンギスハ・ハーンの血脈の中では弱小の一人であった。 グユクは幼いころよりこの環境で育ってきたのである。 少なくとも、父親のオゴディは即位の経緯からトルイ家を重要視していた。 従って、トルイ家の長男・モンケに一目置いており、幼いシムレンが成人するまでの中継ぎに据えると他言したことすらあったと聞く。 事実、≪父親は少なくとも第六夫人の長男でしかない私などは後継者にしようとは考えていな≫とグユクは考えていた。
父親であり皇帝の怒りを買って召喚される旅の終わりに辿り着くカラコルムで待っているものは何もない。 モンケに監督されるような形でブリと共にキプチャクの草原より天山山脈を横切り、アルタイ山脈南麓よりオゴデイ家の封土があったイミル湖畔に到着た折に、母親ドレゲネが皇帝・オゴデイ没後の摂政として自らの主導でクリルタイの開催を執拗に説いて回っていることを知った。
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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