◆ 13日前に選出されたばかりのローマ教皇ウルバヌス7世が、重責に耐えかねて自分から天に召される(1590年)。 ◆ ナポレオン・ボナパルトのエジプト土産に何が書かれているのかが判明(1822年=ロゼッタ・ストーンの解読)。 ◆ 中国を蹂躙しまくってた日出ずる国とヨーロッパの支配者に載し上がろうとしていた卐)が共闘。翌年にも起きそうなアンクルサムとの決闘に備える(1940年=日独伊三国同盟締結)。
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2012年3月07日 / (Web編集部)
――シトロエンといえば車じゃなくて探検隊?
ツタンカーメンの墓を世界ではじめて公開したときのレポートと並んで、“ミスター・ジオグラフィック”ことメイナード・オーエン・ウイリアムズのもうひとつの代表的な仕事は「シトロエン―アールト中央アジア探検隊」への参加でした。 シトロエンって、あのフランスの自動車メーカーのシトロエン?
そうなんです。 いまはシトロエンといえば自動車ですが、当時は探検隊が世界に名を馳せていました。 シトロエンは1919年に創業後、ヨーロッパではじめて自動車の大量生産に成功して急成長します。
同時に、創業者のアンドレ・シトロエンは持ち前のフロンティア・スピリットを発揮して「道路じゃないところ」を走れる「ハーフトラック(半無限軌道車)」を開発。前輪が普通のタイヤ、後輪がキャタピラというこの「どこでも自動車」を使う探検隊を組織します。
第次世界大戦終結直後の1919年、ダブルヘリカルギア(やまば歯車)の製造と大砲用の砲弾製造で財を成したアンドレ・シトロエン(André Citroën)が、ヨーロッパにおける自動車の大衆化を目指し、フランス版フォードとなるべく設立した企業がシトロエン社である。フランスの自動車メーカーの中では後発組といえる存在であった。最初の工場は軍需工場を転用したパリのセーヌ川・ジャヴェル河岸の工場で、現在その場所は「アンドレ・シトロエン公園」になっている。
エンブレムは「ヘ」の字状のクサビ形を2つ重ねたもので「ドゥブル・シュヴロン (double chevron)」または「ダブルヘリカルギア」と呼ばれる。これはアンドレ・シトロエンが経営者としてスタートするきっかけになった歯車「シェブロン・ギア(やまば歯車)」の歯形をモチーフにしたものである。
流れ作業方式による小型車・中型車の大量生産で成功を収め急成長したが、やがてアンドレのワンマン経営による過剰投資がたたり、1934年に経営危機に陥り、この際タイヤメーカーのミシュランの系列会社となり、同社の市販車は工場出荷タイヤにミシュラン製タイヤを指定、装着している。
第二次世界大戦後も先鋭的な自動車開発で世界的に注目される存在であり続け、1960年代にはイタリアのフィアットやマセラティなどとも提携するが、1970年代には再び経営困難な状況となり、結局1976年からは同じフランスの競合自動車会社プジョーに主導されるかたちで、企業グループPSA・プジョーシトロエンの傘下となっている。それに伴いプラットフォームやエンジンをプジョー車と共通化するようになった。
一時期のような独善的なまでの個性は抑えられるようになってきてはいるものの、依然として系列メーカーであるプジョーとは異なった個性を持つブランドとして存続し続けている。 創業者のアンドレ・シトロエンのフロンティア・スピリットを継承し、“過酷なモータースポーツ競技”をプロモートしてきた。
20世紀初頭は自動車と飛行機が冒険に使われはじめた時代でした。ホンダやトヨタがF1で世界の頂点を目指したように、フロンティア・スピリットに満ちた自動車メーカーの創業者が、自動車による探検で「世界初」を夢見たとしても不思議ではありません。
また、パリ・サロンが開幕する日に飛行機雲で空に社名を描いたり、25万個もの電球でエッフェル塔にデカデカと社名を灯したりするなど、派手な広告パフォーマンスでも有名だったシトロエン。 更にはシトロエンは、その探検隊は実にきらびやかでした。
アンドレ・シトロエンは3度、遠征隊を組織します。隊長はいずれもシトロエン工場の総支配人出身のジョルジュ・マリ・アールト。 最初の遠征では、ざっくり言うと、アフリカ大陸の左上に出っ張ったあたりでサハラ砂漠を横断します。
ルートは北アフリカのアルジェリアにあるトゥグルトから、中世に塩や金の交易拠点として栄えた西アフリカのトンブクトゥhttps://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/magazine/1101/feature04/ まで(当時はいずれもフランス領)。
1922年12月16日、10人の探検家を乗せてトゥグルトを出発した5台のハーフトラックは翌23年の1月7日に無事トンブクトゥに到着。北アフリカから西アフリカを短時間で移動できるとともに、探検に自動車が使えることをはっきりと世界に知らしめました。 その模様は『ナショナル ジオグラフィック』1924年1月号の「自動車でサハラ砂漠を征服(The Conquest of the Sahara by the Automobile)」と題して紹介しています。
このときはまだ距離が短く、装備も探検の内容もシンプルでした。ラクダを連れた砂漠の遊牧民との集合写真なんか、実にのどかな雰囲気です。 ところが、2回目からはがぜん派手になります。次の舞台もアフリカですが、そもそもスケールがまったく違う。
・・・・・・明日に続く・・・
次回は “ シトロエン―アールト中央アジア探検隊 (2/5) “ に続く・・・・・
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