【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

天山山脈 南部の旅 【弐】

2011-01-04 09:06:02 | 浪漫紀行・漫遊之譜
   【天山山脈を横断する南疆鉄道線 海抜3000m辺り】


           

 カシュガール市は人口40万弱。 以前 厳冬期に パミールを越えてキルギスタンを彷徨った。 往路と復路をこの町で過ごした。 市街を離れると砂漠地帯だ。 近郊の砂漠はやや 灰色が濃い。 大小の河川のせいだ。 市内の定住者は漢族が多い。 古来 この地は疏勒国の国都であった。 インド・ヨーロッパ系の人々が住んでいた。 隣国の亀茲国(クチャ市)もそうであったが、ヤルカンド・ホータンを通じてインド文化圏であったと言える。 この地と漢・長安の間(近代のシルクロード)は匈奴勢力が支配していた。 紀元前2世紀の頃である。 当時 シルクロードは月氏の勢力圏にあった。 匈奴が月氏族をパミールの西に追い 以降 匈奴が陰山山脈から祁連山脈 ゴビ砂漠西部・青海湖から敦煌 地域を支配下に治め、東西への要路を管理し 交易の富を独占していた。 A.C.138年 漢皇帝の武帝が張騫*シルクロードを開拓した 誠に爽快無双で愛情豊かな人物*をパミール西部に移住した大月氏に 匈奴対策(東西からの挟み撃ち)の為 派遣する。 が、大月氏動かず。 結果として 漢王朝に西方の地誌が伝わっていく。 後 匈奴は内紛とウイグル族の勃興で敗退・四散する。 以降 シルクロードは漢王朝の勢力支配が確立して行く。 他方 漢王朝で政治的地位を得たウイグル族に帯同したソグド族がシルクロードの富を専従する。 シルクロード沿いにソグド族のコロニーが作られていく。 確かに シルクロードは張騫が切り開き、ソグドの民が整備した と言える。 が、 確立したのは唐時代(大化改新の折で 阿倍仲麻呂・吉備真備が入唐の頃 一番華やかであったろう)からだ と言える。 パミール高原西部地域まで勢力を伸ばした唐王朝は 紀元7世紀中葉 タラス河畔(大仏開眼の折)の戦い*この戦争の結果 漢族の製紙技術が欧州に伝わり、欧州の文物がシルクロードになだれこむ タラスはキルギスタン北西部*に破れ、漢中へ後退して行く。 以降 この道が 東西交易路の要路として重きを成せばなすほど新興勢力の羨望の的となり 北の遊牧民族勢力・南のインド・アフガニスタン系民族勢力・ラサの吐蕃勢力・東の漢民族勢力・西のアーリヤ系民族勢力が奪い合いを演じる地域に変貌していくのです。
 市街地であればあるほど侵入者の破壊は集中するでしょう。 仏教寺院は回教徒が徹底的に破壊しました。 疏勒国時代の建造物、カラ・キタイ国時代、チャガタイ・ハン国時代、等々の建造物はイスラム勢力の侵入でことごとく破壊されたのです。 15世紀以降の遺構が残るだけです。 さらに カシュガール市の市内や近郊にはパミール高原から流れくる大小の河川が幾筋もある。 砂漠に消え行く尻なし河で、暴れ河川です。 一夜にして村落が消え失せると聞く。 遺跡・遺構など暴れ河川はお構いなしにですから、残るはずが無いのです。 従って 観光に来れば、砂塵の記憶しかないと言われる所以です。 しかたがない、
エイティガール寺院の境内で休み、アポク・ホージャ墓、バザール、尖塔寺院(ナミレット)、旧市街、職人街 等を懲りずに回って中心街から15kmも離れた南疆線・カシュガール駅に向かった。
 尚 アポク・ホージャに眠る”香妃”はカシュガール*”玉の集まるところ”の意味らしい*のロマンです。 乾隆帝に召された生涯は井上靖さんや陳舜臣さんの素晴らしい作品でご存知でしょう。 我らが”香姫"マリヤムは急遽 ホータンに帰ったことを追記する。       【上記写真は ウイグル料理の食事風景と香姫・マリヤム】

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