【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

今日(狂)の狂言 : 08月22日(木曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-08-22 05:10:26 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 千島列島全部が日本の領土になる(1875年=樺太・千島交換条約批准)が、現在ではそのうち日本に近いほんの一部分さえも相手に実効支配を許している有様。 ◆ 世界の美術館に飾られている名画にとっての厄日。謎の微笑みをたたえた婦人(1911年=「モナ・リザ」が盗難)も絶叫するおっさんや磔された女(2004年=「叫び」と「マドンナ」が盗まれる)もこの日にご難。 ◆ アメリカの空襲に心配する必要が無くなったため、日本に於ける地球大気の情報公開が再開される(1945年=天気予報のラジオ放送復活)。

◎ ◎ 第5回 美しい山を求めて登り続ける(2/2)/ G・カルテンブルンナー ◎ ◎

- - - ナショジオ・インタビュー G・カルテンブルンナー / 文=西野淑子/写真=的野弘路 - - -

==== 8000m峰14座、全てを無酸素で登頂した史上初の女性登山家がゲルリンデ・カルテンブルンナー。46歳。「シンデレラ・ブルドーザー」と称され、今も山を深く愛し、登りたい山に自然体でチャレンジし続けている。(インタビュー・文=西野淑子/写真=的野弘路) =====

――世界トップクラスの登山家であるゲルリンデさんに憧れる女性は多いと思います。女性の登山家と一緒に登山をするような計画はないのでしょうか?

 世界各国から、声はかけてもらっているのですが、現在、高所登山をする女性は少なく、なかなか機会がないですね。高所登山では何カ月も出掛けることになってしまうので、女性の場合はとくに家庭の問題が難しいと思います。また、多くの女性は寒さに弱く、女性特有の体調の変化もありますから、高所にトライする人には、体や心の状態を感じ取って、自分のペースで登ることを意識してほしいですね。

――よりよいコンディションで山に向かうために、どのようなトレーニングをしていますか?

体力をキープするのに、毎日のトレーニングは欠かせません。クライミング、マウンテンランニング、アイスクライミング、バックカントリースキー、さらに室内でできる体幹トレーニングも。子供の頃からスポーツには親しんでいますし、スポーツをするのは私のライフスタイルなのです。

――これから山に登ってみたいと思う人に、アドバイスをお願いします。

最も大切なのは、心から「山に登りたい」と思う純粋な気持ちを持つことです。有名になりたいとか、記録を作るとかではなく、山を愛し、向かい合うこと。いきなり高い山を目指すのでなく、ステップアップし、準備していくこと。そしていざ山に向かうことになったら、登らなくてはならないという義務感や強制ではなく、登りたいと思う気持ちを大切にしながら、山とよい関係を持ち、楽しむことです。

――山とよい関係を持つ。山を愛するゲルリンデさんならではの考えですね。

大きく、圧倒的な力を持つ自然に人間が逆らうことはできません。自然の中で、人間はとても小さいものです。自然への敬意を持ってください。たとえ登頂できなかったとしても、登山で得られたすべてのものが自然からのプレゼントなのです。

・・・・・・・・・・おわり

==== 追記/ゲルリンデ・カルテンブルンナーの登山歴 ====

ゲルリンデの住む村の教会の神父は登山好きであった。ゲルリンデが彼に連れられてハイキングに出かけたのは7歳のときであった。13歳のときはロープを使用した本格的な登山を始めたが、これも神父の指南によるものであった。

1985年両親が離婚し当時14歳だったゲルリンデは10歳上の看護師をしている姉と一緒に暮らすようになる。ゲルリンデも看護師となり20歳の時に故郷から24kmほど離れたロッテンマンの病院に就職した。看護師になってからも登山は趣味となっており、1994年、24歳のときにカラコルム山脈のブロード・ピーク(世界で12番目に高い山:8051m)に挑戦し、天候の悪化により登頂は断念したものの、頂上から20m下まで到達した。

このときにブロードピークの横に位置するK2を見て、ゲルリンデは強い衝撃を受けたとされるが、自分が将来その頂上に至るとは夢にも思っていなかった。父親は彼女の登山の趣味に強く反対していたが、彼女は働いて資金を貯めては海外に遠征するという生活を続け、結婚して子供を作るという選択肢を明快に否定した。

登山中に遭難者の遺体を目にすることも多く、ゲルリンデは「幸せと喜びがこれほど密接に結びつくことが他にあるだろうか」と日誌に書き残している。看護婦をしていたために、人の死に接することも多く、姉は3回夫に先立たれていたので、死は生の一部なのだという考え方を持っていた。 

1998年中国とネパールの国境に位置するチョー・オユーの登頂に成功。2002年にはネパールのマナスル(8163m)にも挑戦している。このとき山麓のベースキャンプで出会ったのが当時40歳のラルフ・ドゥイモビッツであり、その後2人は一緒に登山をするようになる。2003年オーストリア女性として初めてナンガ・パルバットへの登頂を成功させ、このことはオーストリアのメディアで大きく報道された。

ゲルリンデはスポンサーの援助が得られるようになったので看護婦を辞めて登山家に専念して活動するようになった。スポンサーの受けも良く、講演会も毎回盛況でプロの登山家としても成功をおさめた。2006年1月、ドイツの雑誌『デア・シュピーゲル』は「デスゾーンの女王」の称号をゲルリンデに贈った。2006年までに8000m級14座のうち8座に登頂成功した。

2006年にローツェにもアタックしたが、この時は途中で登頂を断念した(2009年に再アタックして成功)。標高7250mのキャンプでは一足先に登頂を断念して引き返したラルフ・ドゥイモビッツがゲルリンデを待っており、その晩にラルフがゲルリンデにプロポーズをした。2007年にはかつて登頂を断念したブロード・ピークにも登頂成功している。

2007年5月、ゲルリンデはダウラギリ(8167m)に挑戦した。1998年にフランスのシャンタル・モーデュイは同じ場所で雪崩に巻き込まれて頚骨を骨折して死亡しているので、入念に場所を検討してテントを設営したが5月13日午前9時、彼女のテントは雪崩に飲み込まれて30m流され絶壁の手前で止まった。

ゲルリンデはナイフを使ってテントを切り裂き、1時間かけて雪から脱出した。隣にはスペイン人パーティー3人が設営していたが、サンティアゴ・サガステとリカルド・バレンシアの2人が雪崩に飲み込まれ1時間後にゲルリンデらによって掘り出されたが既に死亡していた。装備品を雪崩で失ったこともあり下山せざるをえなくなったが、翌年ゲルリンデはダウラギリへの登頂を成功させている。

・・・・・・・・明日 (ゲルリンデ・カルテンブルンナーの記録 / K2への無酸素登頂) に続く・・・・・ 

K2: SIREN OF THE HIMALAYAS - Official Trailer (2014) HD

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