1950年代から60年代末にかけて、
若い人たちは、国がいかにあるべきかを問うて闘いました。
それぞれが未来を模索して激しく生きた。
しかし、次第に自分の価値観を持って生きる姿勢が、
お金という価値観に取って代わられて今に至っています。
それだけでいいはずがない。
明日のために、若い人たちは新しい価値観を探す時にきています。
借り物ではない、自分の考えと責任で全力疾走する面白さに気づいて欲しいです。
1950年代から60年代末にかけて、
若い人たちは、国がいかにあるべきかを問うて闘いました。
それぞれが未来を模索して激しく生きた。
しかし、次第に自分の価値観を持って生きる姿勢が、
お金という価値観に取って代わられて今に至っています。
それだけでいいはずがない。
明日のために、若い人たちは新しい価値観を探す時にきています。
借り物ではない、自分の考えと責任で全力疾走する面白さに気づいて欲しいです。
衆生本来仏なり水と氷の如くにて、
水をはなれて氷なく衆生のほかに仏なし。
衆生近きを不知(しらず)して遠く求むるはかなさよ。
譬ば水の中に居て渇を叫ぶがごとくなり。
長者の家の子となりて、貧里に迷うに異ならず。
白隠禅師
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、
ついに怨みの息むことがない。
怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。(5)
戦場において百万人に勝つよりも、唯だ一つの自己に克つ者こそ、
じつに最上の勝利者である。(103)
老いた日に至るまで戒めをたもつことは楽しい。
信仰が確立していることは楽しい。
明らかな知慧を体得することは楽しい。
もろもろの悪事をなさないことは楽しい。(333)
『ダンマパダ』
鈴木大拙 有限と無限の衝突
この有限と無限の衝突、葛藤は、さらに知的な扱いをすると、
部分と全体との間の葛藤というこ とになる。
情緒的には、有限の側に、自尊心、自惚れ、傲慢などがあり、
他方の無限の側には、 謙譲、受動、諦観、自己放棄、受容、黙認などがあります。
また、有限の側の自己主張、反抗心 、抵抗は、一面的には賞賛できても、
反逆などは悪徳と考えられ、一般的に厚い宗教心をもつ人々には好まれません。
人生に意味があり、目的があるとすれば、
私たちはその目的に向かってまっしぐらに驀進したくなります。
競走馬的人生になってしまう。
人間はついでに生きている-。
意味のない人生だから、生まれてきたついでにのんびりと自由に生きられる。
誰に遠慮する必要もなく、自分の勝手気ままに生きることができるのです。
人生を目的地主義で生きると、あっという間に人生が終わってしまう。
人生に意味を持たせてはいけない。
生き甲斐なんてない。
病気になったら治そうと思ったらいけない。病人として生きればいい。
左遷されたら、一つ業績を上げて再び本社に戻ろうなんて考えてはいけない。
毎日を楽しく暮らせばいい。
苦しみを楽しむことが出来れば、あなたの人生は素晴らしい人生になる。
耶律楚材
一利を興すは一害を除くにしかず。
一利を生(ふ)やすは一事をへらすにしかず。
誰もが功名心に駆られて、人気を博そうとするから、
どうしても何か目新しいことに手を出してしまい、
整理とか償却とか節約とかいうようなことは、
とんとやり栄(ば)えがない。
そこで「一利を興す」方に傾いて、
「一事を除く」ことはなかなかやれない。
最澄
得難くして移り易きはそれ人身(にんしん)なり。
発(おこ)し難くして忘れ易きはこれ善心なり。
「人身」は、因縁により、この世に人間として生を受けた身。
この宇宙の中の、この地球という星の、この日本という国の、
この地の、この両親の元に生まれてきたということは奇跡のようなものだ。
それほど今の自分は得難い存在である。
しかし、時至れば、この世をおさらばすること、
これはオギャーと生まれてきたときの約束でもある。
親鸞
「自然」は、人間の自力ではなく、他力によっておのずからなる道理。
こざかしい考えをあれこれふりまわさないのが、自然であり、他力である。
わがはからはざるを、自然(じねん)とまうすなり。
これすなはち他力(たりき)にてまします。
道元
杜撰(とせん)は杜撰に学するがゆえに、杜撰にあらざる道理をしらず。
「杜撰」は、ずさん。よりどころが確かでない、粗漏なこと。
いいかげんな者は、いいかげんに学ぶことしかできないので、
確かな道理を知らないものだ、の意。
宗教的要求は自己に対する要求である,
自己の生命に就いての要求である。
自己がその相対的にして有限なることを覚知すると共に、
絶対無限の力に合一して之に由りて永遠の真生命を得んと欲する要求である。
現世利益の為に神に祈る如きはいふに及ばず、
徒らに往生を目的として念仏するのも真の宗教心ではない。
ー西田幾多郎 善の研究よりー
信仰を特異の存在であるかのように思っている人たちは、
信仰の門にさえ佇めば、容易になやみの絆は断ち切れて、
みずからの欲するままに、慰安の光がかがやくかのごとく思う。
しかしながら、信仰は一つの奇蹟ではない。
宗教はまた気やすめのための、力なき慰めでもない。
信仰は荷せられた悩みを逃避するのではなく、
悩みの肯定のうちに、救いの光にみちびかれるのである。
九条武子 「無憂華」より